プロローグ
心は複雑だ。
それを持つ人の数と同じだけ形があり、様々な要因からその都度形を変える。
さながら、万華鏡のようだ。
もし、神というものが居るならば。
なぜこんなにも複雑なものを人間に与えたのだろうか。
その答えもまた、神のみぞ知る。
暗い部屋。夜なのだろう。唯一の窓から見える外の景色は暗闇に沈んでいる。
月明かりだけが部屋に柔らかい光を送り込んでいる。
その光がかろうじて浮き彫りにした外はひたすら木が乱立している殺風景なもの。そこから察するにどうやらこの家がある場所は森の中らしいというのが分かる。
窓辺には一人の女性が、いわゆるロッキングチェアに体を預け、夜空を見上げていた。
女性は若いような、それでいて妙齢なような、見た目での年齢は分からなかった。
しかし、綺麗な女性だということは誰の目にも明らかであった。
月明かりが照らす肌は白く、うっすら光るようで、夜空を見つめる柔和な目は、透明な翡翠色で、控え目な唇は桜色をしている。
そして、緩いウエーブがかった豊かな長い髪を片方の胸にまとめ、垂らしている。
その髪の色はピンク色だった。
それはこの世界でも珍しい一族の一員である証でもあった。
うたうたい、カルミナ一族の特長。
歌の力を生まれながらに持つ、聖なる一族。
ピンク色の髪はそのカルミナの象徴であり、女性もまたその一人であることが髪色から伺える。
空を見ていた女性がその翡翠の目を見開く。
ふいに夜空に、流れ星が流れたのだ。
それは一つ流れ出すと、堰を切ったように次から次へと流れ出す。
流星の光が女性の顔を照らす。
女性は愛おしむように目を細め、小さく笑った。
それから聞こえるか、聞こえないかの声で言った。
「おかえりなさい」
それはまるで、久しぶりに帰ってきた恋人に言うように。
女性はゆっくりとロッキングチェアから立ち上がり、窓辺に立つと、夜空に向かって片方の手を伸ばし、もう片方の手を胸へ添え、高らかに歌い出した。
すると、女性の体から金色の光が立ち上がり、徐々に女性を包み、それが小さな沢山の玉になって離れ、夜空へに向かい、上っていく。
どこまでも。どこまでも。
歌は、聞いたこともない言葉だったが、その心揺さぶられるような旋律は静寂の森に響き、そして、光となって夜空に溶けていく。
その光景は、何かを歓迎しているようにも、何かを葬送しているようにも見えた。
しばらく歌い続け、やがてゆっくりと歌い終わる。
女性は夜空を見上げたまま静止していた。
それは、虚空を見つめているようにも、空の彼方を見つめているようにも感じられた。
いずれにせよ、何かを待っているようだった。
永遠のような静寂。
そしてやがて、諦めたように女性は先ほどのように再びロッキングチェアに体を預け、夜空を見上げた。
夜空は、何も答えない。
相変わらず月は柔らかい光を送り込んでいる。
そして、数えきれない程の流星が夜空を駆け抜けていく。
それを見て、女性はゆっくりと目を閉じた。
その瞼から、涙が一筋、零れ落ちた。
きらきらと光るそれは、さながら流星のようだった。
女性は沢山の出来事をめまぐるしく思い出していた。
それは、女性の今まで歩んできた壮大な冒険。
そこで出会った仲間。
そして、脳が自分に笑顔を向ける誰かにゆっくりとフォーカスを合わせた。
その瞬間、苦しい時にするように女性は胸元を抑えた。
込み上げてきた涙に抗いたかったからだ。
表情は歪み、耐えるあまりに、震える声でそれでも女性は言った。
もはや、それは先ほどのような期待を孕まない、乾いた独り言であることは知っていながら。
「私、お願い、まだ、叶えてもらってないよ」
夜空を見上げ、その目に流星を映し、女性は再び溢れそうになる涙を堪えた。
そして、一泊置き、消え入りそうな声で呟いた。
「帰ってきて」
相変わらず流星は素知らぬふりで流れ続ける。
女性の願いなど、つゆしらずに。
あとには女性が暗い部屋に一人、取り残された。
その日、流星は流れ続けた。
そして、世界の人々がそれを見ていた。
ある者は歓喜し、またある者は絶望した。
しかし、全ての人が一つだけ分かっていた。
これはまた新たなる物語の幕開けに過ぎないということを。
これは、心の世界の、勇者達と守護精霊達が紡ぐ大いなる物語と、その年代記である。
かくして、始まりの星は流れた。
それは世界の終わりか、それとも始まりか。
それは、今はまだ分からない物語。
全ては、神のみぞ知る。