鵺桜
文学フリマ短編小説賞応募作品二作目。
能の「鵺」と洛中洛外図屏風に影響を受けた短編です。よろしければ、どうぞ。
春の都。
黄金霞が来たりては去る界善寺では春の風が温い。
桜も盛りで景勝の小路は人で賑わっている。
境内では酒と塩茹でした豆が売られ、ほろ酔いの武家や町人で溢れていた。その中に六尺の偉丈夫、達磨のような八の字鬚に白頭巾を宝冠にして被った僧形の男がいる。名は迅海。酒に目のないらしく、銭を放っては椀に入った濁り酒をあおり、塩豆を頬張っていた。
彼が立っているのは寺院から崖に突き出る形で作られた檜の舞台で、そこから境内の桜と黄金霞の交わりあうのが見渡せる。花見目当ての参拝客の頭が花と霞のあいだにぎっしり詰まっていて、迅海のいる舞台同様、人で混んでいるようだ。
崖下の川には凝った造りの舟が垂れ水干の侍二人を乗せて流れ下る桜の花弁を遡っていた。雇われた早歌唄いが舳先に座り、扇子で調子を取りながら「源氏の恋」を唄っている。
都はいたるところに美しい黄金霞がかかっているが、界善寺の桜にかかる黄金霞を見るまでは、霞を見たとは言えないと言われる。霞と桜が一つの視界に収まると、美しいことこの世のものとは思えず、うっかりしていると黄金霞に極楽まで連れて行かれてしまうとさえ思えてくる。それを見ずして、都の霞はすごいものだったと言って欲しくないのが、都に住む人の意見なのだ。
迅海は檜の舞台から下の川沿いの小路へ降りてみた。そこも左右が桜に挟まれ、霞がほぐれたり結んだりして、景色が見事なのだが、迅海が見ようとしているのは花でも霞でもない。
それは女であった。
先ほど、ずっと一人の美しい女が桜の木の下に立っていて、舞台欄干にもたれていた迅海を訴えかけるように見つめていたのだ。
女の立っている桜は都でも名木と評判高い千年桜とよばれる常咲きの老桜でその広がった桜の枝を押さえるために十数本のつっかえ棒がしてあった。その決して散ることのない花の下では何十人もの花見客が酒と茶を飲み、桜花の蒔絵を施した重箱から料理をつまんでは頬張っている。
女についてはかなり遊び、それが過ぎてかつていた寺を追い出された迅海であったが、その美しい女には手を出すつもりは起きなかった。
なぜなら、女は人間ではないからだ。
女は源氏物語にでも出てきそうな十二単にぼうぼう眉。美貌も召し物も目立つにもかかわらず、誰も女を見ようとしない。
どうやら迅海以外のものに女は見えないらしい。
「拙僧に何か用か?」
女はうなずいた。儚げな様子がある。
女は言った。「今は人が多いのでお話できませぬ。ですが、お坊さまにしか頼めないお願いがございます。どうか、丑の刻にもう一度、ここに来ていただけませぬか?」
丑の刻といえば、人外の妖かしがもっとも活発に動く時である。もし、これが罠ならと一瞬考えるが、迅海は目の前の女が何か邪な意思を持って、自分を騙そうとしているとは到底思えなかった。
それにたとえ騙されたとしても、別に女に騙されるのはこれが初めてではない。騙されたら笑って済ませばいいだけのことだ。
「わかった。丑の刻でよいのだな?」
迅海の返事を聞くと、女は顔を喜びに綻ばせた。
「はい」
「では、あらためて来よう」
「ありがとうございます」
自分の家に帰るころにはもう昼七ツ(午後四時)であった。
門をくぐると、知り合いの侍、小次郎に出くわした。
「探しましたよ、迅海どの」
「何かあったかな?」
「火急の用で加藤備後守の屋敷に行かねばなりません」
加藤備後守というと細川氏の重臣だ。
「お奉行は?」
「別の用事で綾町御所へ」
「他に誰が?」
「佐兵衛が先に行っています」
加藤備後守の屋敷へ向かう道すがら、迅海がたずねる。
「拙僧が呼ばれるということはまた妖かしが?」
「幽霊ですよ」
「幽霊?」
「何でも昔、備後守さまが昔、もてあそんで捨てた女があてつけに入水したのですが、その幽霊が今になって化けて出ると」
「幽霊一人なら拙僧でなくとも、普通の僧で供養できそうなものだがのう」
「それがまったく成仏する気配を見せないということで、備後守さまは奉行に訴え出たというわけです。しかし、幽霊を果たして拙者の刀で斬れるかどうか……」
「まあ、とにかく見てみよう――やあ、小次郎どの。ごらんあれ。桜のなんときれいなことよ」
界善寺ほどではないが、大通りであれば、屋敷の塀を越えて枝を伸ばす桜がそれなりにある。霞はゆっくり風下へ流れている。赤い破風に青銅葺きの禅寺の屋根が見え、反対側には葱めしを椀に盛っている飯屋、受け取った銭に鐚銭が混じっていないか確かめている反物屋、扇子売りの繁盛が窺える。
「まったくこの賑やかな時期に幽的が出るとはのう」
「幽霊にも出る時期と出ない時期があるのですか?」
「まあ、ざっと思い出すと、陰気な幽霊は梅雨のじとっとした時期か、冬の木枯らしが身に刺さるような寂しい冬の夜、温い蕎麦がきがうまくなりだす季節に出るものじゃ。まあ、それが全てではないが、だが、花見の盛りには幽的も遠慮をする」
「遠慮?」
「戯言じゃ。許されよ」
迅海がかっかっか、と笑う。
「にしても、小次郎どのは真面目なお方じゃ」
「そうでしょうか?」
「そうだとも」
加藤備後守の屋敷は稲荷社のそばにある。屋敷の前に横たわる道は稲荷社への参拝者が絶えずやってくるため、かなり踏み固められていた。
「細川さま第一の重臣が、よもや狐に化かされたのかのう」迅海はぼそりとつぶやき、首を傾げた。「だが、供養できない幽霊というのもそれならば説明がつく」
「稲荷さまが祟ったと?」
「ふうむ、昔の非道な行いを思い出させ、真っ当な人道を歩むべしとの稲荷さまのお諌めならば祓うことなど到底できぬ。それにしても――」
ものものしい。
加藤屋敷には門の上には急造の櫓が立ち、楯と弓が配されている。門の前には備後守の家来が五人、直垂の裾をからげて、たすき掛けにし、薙刀や野太刀を抜き身のままにして立ち番をしている。
これはよほど幽的を怖れているようじゃ。
侍たちに混ざって、佐兵衛が門の脇にあぐらをかいて座っていた。
「やっと来たか」佐兵衛は立ち上がる。
「こっちは界善寺で花見に浮かれておったのだ。で、今日も出るのか?」
「それを調べるのはあんたの役目だ」
「違いない。では、行こう」
迅海、小次郎、佐兵衛は母屋に通された。
胴丸姿の侍が詰めていて、主座には館の主人、加藤備後守がいる。
まだ四十を少し過ぎたくらいの齢のはずだが、幽的の祟りがこたえたらしく、痩せて頬こけ、肌は土色、目は濁り、弱りきった体を脇息にもたれさせている。白く変じて薄く頭皮にへばりつくだけになった髪をきれいに剃ったらしい。即席で出家したようだ。
惨い捨て方をした己が業を御仏にすがって何とか凌ごうとする考えは信心から離れていてあまりに浅はかであったが、しかし憔悴した備後守の姿に迅海は少し同情した。
「迅海坊にござる」
備後守が顔を上げた。しょぼついた目で迅海坊を見ると、目を潤ませ、
「おお、おお。妖かし退治に名高い迅海どのが来てくれた。これで安心というものじゃ」
と、落涙する始末。
ここまで変わるものか。
――と、迅海坊は思う。
実はずっと以前に備後守を見たことがあったのだ。
そのときの備後守は馬に乗り、数人の家来を連れて、八番筋町を歩いていたのだが、たくましい肩に四角くばった武将らしい顔が乗り、胸板は分厚く、袖から見える手首は太く、馬が小さく見えるほどの体躯にめぐまれていて、なるほど細川家第一の弓取りといわれるだけのことはあるのだなあと思ったものである。
しかし、今目の前にいる備後守は哀れな老人にしか見えない。
迅海は頭を下げつつ申し述べた。
「こたびの幽的、只ならぬものとうかがっております。拙僧、微力ながら、その調伏に全力を尽くす所存にござる。これにいる小次郎、佐兵衛も武芸に秀でたものなれば、きっと備後守さまの憂いを今宵限りで断ち切ってみせましょうぞ」
さて、迅海、小次郎、佐兵衛は備後守の屋敷にて幽的と対決することになった。備後守の家来の話では、幽的は毎晩やってきては主を祟り殺すと脅かしている。どんなに篝火を焚いても幽的が現われると、全て吹き消え、青白く光る醜い老婆の幽的が憎い、憎い、と声を上げる。
「それ以外に何か?」
「何もござりませぬ」
それを聞き、迅海はいよいよこの妖かしが幽的ではないことを確信した。本物の幽的ならば、もっといろいろしてみせる。つまり、この妖かしは芸がない。
では、何者か?
それは見てみなければ分からない。
近くの寺が暮れ六ツ(午後六時)の鐘を鳴らした。外は夜の帳が下りて、霞の色が黄金から蒼ざめた白銀に変わる。
迅海、小次郎、佐兵衛に晩食が供された。雉の焼き物と雑炊、香の物に古酒がつく。
同じものが備後守の折敷も用意されているが、備後守はがっくりと頭を垂れて脇息にもたれるばかりで箸をつける様子はない。
佐兵衛が、殿さまが食べないならおれがいただく、と言って遠慮なく折敷をさっと取っていった。
屋敷の外と内では三十以上の侍や足軽が妖かしの到来を待っている。日が落ちたときから緊迫感が生まれ、空気がヒリヒリするようだった。
時間は流れ、夜は更けていく。
突然、屋敷じゅうの篝火や灯台の火が一斉に消えた。
備後守は魂消る声を上げて、頭を抱えて低くし、ぶるぶる震えている。
宿直の侍が硫黄を塗った付け木に火打石を打って火をつけるが、冷たい風のようなものに撫でられて火が消えてしまう。
「出た、出たぞお!」
庭から狼狽した侍の声が上がった。
小次郎と佐兵衛は素早く動き、備後守の左右を守る。
迅海は金剛杖を手に縁側へ飛び出た。
青白い妖かしは宙空に浮いていた。その姿は醜い老婆だが、着ているものは経帷子ではない。汚れて擦り切れた小袖だ。
幽的の正体が知れた。
混乱に陥った備後守の家来を余所に迅海は庭へ飛び降りると、大声を張った。
「妖かしの正体破れたり! うぬは生霊じゃ!」
そう言いつつ、金剛杖を投げる。杖はすりぬけて庭に落ちたが、妖かしはあからさまに狼狽して、身を翻したかと思うと、消えてしまった。
「おのおの方、もう大丈夫じゃ。生霊は去った」
火がつけられ、明かりが戻る。
「逃げられたか」と佐兵衛。
「いや。しっかり跡を追える」
迅海が言う。彼の墨染めの衣の袖がほころんで一本の糸が屋敷の外へと伸びている。
「先ほど金剛杖に拙僧の衣の糸を結んで、生霊に引っかけた。この糸を辿れば、生霊の本体を拝めようぞ」
糸はどんどんほつれて、伸びていく。三人は後の警備を備後守の家来にまかせて、糸の後を追った。
「しかし」と小次郎。「女は入水したと聞きましたが」
「水に飛び込んだぐらいで人は死ねぬよ。壇ノ浦の平家だって海に飛び込む前に鎧を二重に着込んだり、碇をかついだりしたものだ。そこまでせねば、人は沈まぬ」
黒い糸が夜の白金霞のなかを南西へ伸びている。町屋や遊里のある賑やかな通りを離れて、糸は迅海たちを鴇川の河原へ導いた。
見ると河原者が住む朽ちた草屋の一つへ墨染めの糸が吸い込まれていた。
草屋の蓆暖簾を避け、屋敷から持ってきた蝋灯に火をつける。
蓆の上に醜い老婆が生霊と同じ、汚れた小袖の身なりで横たわっていた。糸は老婆の左手の薬指に絡んでいた。
その喉から聞こえる呼吸のざらざらした音を聞くに、この老婆ももう長くはないようだった。
迅海はじっと見る。まだ老婆と呼ばれるような齢ではない。おそらく三十を少し過ぎたくらいだろう。きっと昔はきれいな娘であったのだろうが、貧苦と窮乏が一人の女をここまで痛めつけてしまったのだ。
「名はなんと申す?」
迅海が優しくたずねると、
「お、お、おせん」
と女は苦しげな息の合間に自分の名を乗せ、声にした。
「よく聞くのだ、おせん」迅海は諭すように言う。「生きながらにして悪霊となるほどだから、そなたの恨みは骨髄までのものであろう。しかし、今の心のまま死んでしまえば、行き着くところは修羅の道じゃ。飽くことを知らぬ憎悪が己自身を、死んでもなお傷つけるのじゃ。そなたはもう十分苦しんだ。もう良いだろう」
おせんは首を横にふった。そして、恐ろしい声で、
「足りぬ、まだ……足り、ぬ……まだ……」
そうあえいで事切れた。
目を見開き、歯をむき出して固まったその死に顔はまさに悪鬼羅刹のものであった。
半刻後、備後守の屋敷に戻った迅海は仔細を告げた。
おせんの恨みを除いてやることはできなかったが、過去を悔いる気があるならば、きちんと菩提を弔ってやるがよい。さもなくば、次は本物の幽霊となって祟るやもしれん。
本物の幽霊と聞いてすっかり縮み上がった備後守は必ずおせんの菩提を弔うと言って、迅海に約束した。
備後守の屋敷を後にした迅海は途中まで小次郎たちとともに帰る道をとっていたが、
「すまぬが、用事を思い出した」
と、言い、千里町通りを北へ向かった。
その先には界善寺がある。
人気のない川沿いの小路では夜桜が白銀の霞に照らされて、蒼く咲いている。
千年桜へ行くと、あの美しい十二単の美女が待っていた。
「きっと来てくれると思っておりました」
「拙僧、この通りの生臭坊主であるが、女子との約束を違えたことのないことだけが取り得でな」
「女子にお優しゅうございますあなたさまならきっとわたくしの願いを叶えてくれましょうね」
「して、その願いとは?」
「わたくしをこの桜とともに成仏させてくださいまし」
この桜とはもちろん千年桜である。
「わたくしは妖怪、鵺にございます。近衛帝の御世、源頼政に退治され、その骸はこうして川に流されました。ああ、討たれた妖かしの身であっても、せめて月が山の縁を照らすように光を受けたいと思いながら、この川を流れていたとき、この桜の精が光は無理でも花で飾ることはできようぞとおっしゃって、わたくしの魂を拾ってくださいました。そして、猿の顔、虎の足手、蛇の尾のおぞましい姿のわたくしも、今では桜の神力のおかげで、このように女房の姿で舞い出でることができるようになりました。しかし、成仏できずに彷徨うわたくしの魂を拾ったことで、桜の精もまた呪われて、その寿命尽きても成仏できず、ついには幾百年花を咲かせ続ける仕儀とあいなりました。桜はもう十分生きました。どうかわたくしどもを安らかに往生させてくださいまし」
「仔細わかった。そのように取りはかろう」
厳戒が目を閉じ、経を読み上げ始めると、白銀霞が流れてきて、千年桜の枝花がゆれ、鵺は静かに涙を流した。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空――
生きながらにして祟るのが愛ならば、討たれた鵺を拾い、己が運命を捨ててまで花で飾ろうとするのもまた愛なのだろう。愛は水月のようなもので美しいが手を伸ばせば、水面が揺れて像は散り、月の形は崩れてしまう。
無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道――
だが、その崩れるさまもまた愛なのだ。
暮れ七ツ半(午前五時)。
曙光を肌で感じた迅海は目を開けた。
そこには鵺の姿はなく、ただ、千年桜が、その幾万とも知れない全ての花弁を散らし果てた姿で立っていた。




