06
翌日になって岸和田が東京に戻ると、車椅子に乗せられた久間の姿があった。医者に来させれば良いんだと歯を見せて笑う様に、疲労や衰弱の色は微塵も感じられない。
「岸和田、ご苦労だったな」
「親父こそ具合は」
「内臓にはかすりもしてないからな」
痛みが残っているはずだが表情は明るい。しかし腹をさする手を止めると小さな黒目がギラリ光った。
「どうなった」
「結局、東堂の居所は聞き出せませんでした。でもヒットマンの身柄は差し出すようで。あんまり期待はしていませんがね。その場合、次のことは考えてあります」
久間は腕を組み思案している。固く唇を結んで低く唸りしばらくしてから口を開いた。
「ところでおめえ知ってるか。岩永寛司ってあれ、二代目になってからの渡世名だ。本名は雄佐っつーらしいぞ」
「いいや、初耳です」
よりにもよってその名前かと、無意識に奥歯を噛み締めた。
「ま、どこにでもいるありふれた名前だけどな。でもあっちのユウスケはしっかり見張っておけ。今にも自殺しそうな顔していたぞ」
「ユウスケのやつ、本当に有り得ないっすよ!」
岸和田がユウスケのいる二階に上がるなり、ヒデキが顔を真っ赤にして喚き散らしてきた。
「帰り道で腹減ったってうるさいからパーキング寄ったら、ハンバーガーなんか買ってきて。車ん中で臭くて堪んないっすよ!」
「捕まってる間中だってきっと何も食ってなかったんだろ。それだけ空腹なら仕方ねえよ」
「ハンバーガーですよ? 普通は遠慮して臭わないやつ選ぶでしょー!」
確かに密室でハンバーガーは無しだなと、こちらに背を向け座り込んでいるユウスケを見た。
「今は何食ってると思います? 豚骨ラーメンっすよ、と・ん・こ・つ!」
「お前は匂いに敏感過ぎるんだよ……」
岸和田とヒデキがやり合う様子に、白けた顔でユウスケが振り返った。出前で取った昔ながらの豚骨ラーメンは何とも言えぬ臭気を放っている。ユウスケは丼に半分顔を突っ込みながらジトリ湿った声で言う。
「腹減ってると俺、ほんとロクなことしないんで」
「おう、そうだな。食っとけ食っとけ」
ハンバーガーにラーメンにと、立て続けに食えば高確率で胃腸を蝕むオイルメニューに勢いよくかぶりつける体力があるなら、ひとまず安心しても良いだろうか。確かに顔はやつれ疲れ果てているけれど、真横から口角泡を飛ばすヒデキには冷ややかな視線を送っていた。
「もう少しだから我慢してよ。俺、もう出てくし」
「どこに行くつもりだ」
「どこだっていいじゃないですか」
「悪いが却下だ」
どうしてなのかとユウスケの表情がたちまち抗議色に塗り替えられた。
「お前さんのスマホにGPSが仕掛けられていたからね。何かあると警戒し過ぎるくらいで丁度なんだから」
見開かれた瞳がグラグラと揺れ、みるみる顔が凍り付いた。
「だとしても、岸和田さんたちには関係ないっ」
「関係なくねーよ」
自殺しそうな顔、今がまさにそれであった。ユウスケは何か言おうとしたのか唇を震わせているけれど、そこにまともな言葉は乗らない。そうしている内に思い詰めたように顔を伏せた。
「俺の指示通りにする限り命は保証してやる。どうせ家も仕事もねえんだろ、次を見つけるまでの暇つぶしだと思ってりゃいいんだから」
「……だからさ、そういうのが関係ないんだってば!」
伏せた面を上げてユウスケは駄々っ子のように首を振って怒りを露わにした。
「お願いだから今だけは大人しくしてくれないか。また襲われるかもしれないんだぞ」
「助けを頼んだ覚えもない!」
食いかかりそうな勢いで立ち上がりかけたユウスケを制したのはヒデキの方だった。
「俺が無理に連れ出したのは悪いと思ってるんだぜ? お願いだから今だけ兄貴の言うこと聞いてくれよ……」
その口調に込められているのは本心だ。若さ故に突っ張ってみせる場面が多いヒデキなりには心遣いを感じられるものである。しかし言われたユウスケの方はどうだ。むしろ怒りを増幅させているようにすら見受けられる。
「馬鹿が馬鹿に説教でも垂れるつもり?」
「そういうのじゃないんだよ……」
悔しかったんだと、ヒデキはうな垂れた背中に後悔をにじませた。目の前でユウスケをさらわれるという失態に加え、岸和田の加勢が来るまで何もできなかったという情けなさ。お願いだから言うことを聞いてくれと余計な台詞は加えずに重ねた。
「だったらなんだっていうのさ!」
ユウスケの手がヒデキの胸ぐらを捉えた。それはかなりの力であり、引っ張られた布地が糸を飛ばした。
「殴ってもいいから。それでユウスケがすっきりするならそれでいいじゃん」
降参したようにヒデキが両手を挙げてみせたのと、本当にユウスケが拳を見舞ったのはほとんど同時だ。吊り上がった目の色は岩永に飛びかかった時と同じだった。
「そこまでにしておけ」
岸和田は間に入ってふたりを引き離す。するとユウスケの怒りの矛先が今度は岸和田に向かう。
「俺を助けた気になってんのかもしんないけどさ、そういうの自己満って言うんだよ? 誰もが好き勝手やってるって思うなよ!」
「ああそうだな。俺たちみてえのはみんな自己満で好き勝手してるからな」
ユウスケが猫ならとっくに牙を立て爪を立てしているところだろう。まあ落ち着きなさいと頭を撫でてみると、威嚇的な気配が消え失せて大人しくなるのだからつくづく猫のようだった。
不審物が門前に置かれているとの一報が入ったのはこの時だ。
すぐに駆けつけてみると一見、ただの宅配物にしか見えない小包がそこにあった。『御歳暮』と書かれた熨斗がかえって不審さを増している。
考えられる内容物としては爆薬の類か。熨斗を鵜呑みにできる中身でないことは確かである。
「困ったもんだね。誰が開けるか?」
ひとまずユウスケだけでも退けさせる必要がある。振り向くとさっきまでの怒りの形相はどこへやら、青ざめた顔がそこにあった。
「こういうわけだから、ちょっとお前離れてて」
「そんなのどっかに捨てちゃえよ!」
「確かめないわけにもいかねえよ」
「……だったら、俺が開ける」
「馬鹿なこと言うな」
「だって中身、知ってるもん」
そう言って乱雑に引ったくった箱を、これまた乱暴に床に叩きつけてしまう。ごとりと重量感のある音が鳴り、しかしそれだけで静かに転がったままだ。
「なんでお前が知ってるんだ」
「箱詰めをやらされた……」
「はぁ?」
「指紋が付くからって、脅かされて……」
梱包を解きながらユウスケは泣きそうな顔を上げた。昨日ホテルで見せた不安定な姿がそこに重なっていく。
「いいから寄越せ」
これはまずいぞと岸和田はユウスケから箱を取り上げた。
「けったいなもん置きやがったな……」
発泡スチロールで出来た蓋を取り外すと、ドライアイスで凍結させられた男の頭が入っていた。一緒になって覗き込んだヒデキもたまらずに顔を背けてしまった。岸和田にとってこの顔は見覚えのあるものだった。
「こりゃ親父を撃ったやつみたいだね」
現在、時刻は午後四時二十分。岩永の言う「身柄を送る」とはこのことであったのか。ユウスケはすっかり縮こまってガタガタと震えている。
「あの野郎に言われてやったのか」
「……もうひとつ、入ってるでしょ」
箱の隙間にタオルで包まれた何かがある。タオルを解けば映像用ディスクがあった。
「それも、録らされた……」
「何が映っている」
「大丈夫、途中で音、切ったから、見てらんなくて……」
身体の震えが強くなっている。今に卒倒しそうなほど顔を青くし涙をボロボロとこぼしている。これはユウスケの口から語らせるべきではなさそうだ。それどころか混乱の原因たるこの小包も視界から消してやる必要さえあるだろう。そして、ひとまず報告をしなければと小包を持って久間の元へ向かった。
「……ユウスケがやらされた? その話は本当か?」
生首と岸和田を交互に見ながら久間が唸る。
「あの狼狽っぷりだと事実でしょうね」
恐らく発狂しかけた理由は拷問を受けたからではない。心に受けたダメージとしてはこちらの方が大きかっただろう。
「ユウスケが撮影させられたらしいですが、このディスクもロクなものが映っていなさそうです」
「とりあえず見せてみろ」
プレイヤーをテレビに繋ぎ再生してみた。冒頭のまだピントが定まっていない時点で人の断末魔が聞こえてくる。揺れる映像から視認できたのは三人ばかりの姿と、床に倒された全裸の男。断末魔の発生源はそこからだ。
「拷問ビデオだねえ」
久間が呟く。ピントが被害者に合う。その男は今、首から上だけの姿になってここにいる。最後まで見ても仕方ないだろうと岸和田が停止ボタンを押しかけたが、久間に制止を食らってしまう。
彼はすでに散々痛めつけられた後で、むしろ叫ぶ元気が残っている方が驚きなほどであった。死なない程度に肉を削がれ、背中などほとんど皮膚を剥かれ白く骨のようなものすら見えている。叫ぶことはできるが身動きはほとんど取れていない様子だ。
拷問を加えていたひとりが画面から一瞬外れる、そして音声も途切れた。
ユウスケが「見てらんない」と言ったシーンがここだろう。画面に戻ってきた者の手にはロープと鋭利な刃物。縛る必要もないほど衰弱しているだろうに、両手は後手に縛り上げられ両足は他のふたりが強く押さえつけている。
丸出しの局部に刃物が当てがわれたところで、岸和田は画面から目をそらしてしまった。久間は瞬きひとつせずに画面を食い入るように見つめている。一瞬だけ眉間に皺が寄ったが、見ていない岸和田が映像の続きを想像するには十分だった。
画面に視線を戻すと、男は体をくの字に折り曲げて口から激しく嘔吐していた。すでに血まみれだからよく分からないが、刻まれた下腹部は酷い状態になっていることだろう。
「なあにビビってんだよ」
「ちょっとこれは、見てられません……」
「画面がちっともブレない。ユウスケはしっかり見ていたようだな」
画でもなかなかに強烈なものがある。それに音や匂いの臨場感が加わったならば。むしろあの程度のパニックで収束しただけマシだと考えるべきだろうか。無神経なくらいの図太さが幸いしたのかもしれない。
それからまだ事切れていない男の首に刃物が当てられ、文字通り皮一枚で繋がるだけになるまで映像は続いていた。
箱に収まる頭を見た。口の周りには血痕だとか吐瀉物だとかの類が固まったものがこびりついたままだ。口の締まりが悪いのは拷殺されたからか、歯を全て引き抜かれてしまっているからか。それを見ていたら何か違和感に気付いて、恐る恐る箱の中から取り出してみた。
「整形か?」
殴り潰されて歪に曲がる鼻骨から人工物が顔を覗かせている。プロテーゼと呼ばれる類の物だろう。それだけではない。不自然に顔面の皮膚が引きつれているように見える箇所すらある。そしてもうひとつ、やけに心にかかるものがあった。首と目が合う。こいつは一体誰なのだ。
もう一度、映像を最初から見てみることにした。なぶられる男の体躯と、コピーとして手元に残してあった狙撃現場の写真を比較する。拷問されている男の身長は平均的といったところであるが、ヒットマンのそれは確実に大男の部類に数えられるだろう。この首はヒットマンのものではない。
「おい、岸和田。東堂は背中に墨、入れてたよなぁ?」
「ええ……」
久間の視線はまた画面に注がれている。その場面は岸和田の目にも映り咄嗟に一時停止ボタンを押した。
床に押し倒された背中はズタズタだ。しかしかろうじて皮の残る腰のあたりに額彫りの断片が見て取れた。剥かれた皮膚も彼が入れていた刺青の位置と矛盾はない。そして東堂は大男などではなかった。
「お前はどう思う」
「少なくともこの首は、替え玉みたいですね」
「音が切れてなけりゃあ、なんか喋ってたかもしれねえな」
映像には絶叫しか録られてはいなかった。そんな尋常ならざる叫び声ではどうにも判断できない。
「俺らは東堂を破門しちまったからなあ。こっちから関係するわけにはもういかねえ。それでもってこの首は鉄砲玉ってことになってる。岸和田、お前ならどうする?」
三白眼がギロリと光った。首を箱に収め直して応じる。
「巻き込んじまったユウスケのケアが先ですね。この首は……俺に任せてもらっていいですか。手厚く供養しようかと」
それでいいんじゃねえか。久間の乾いた声が虚しく響いて聞こえた。胸は空っぽなのに、何かが引っかかって仕方がなかった。
(完)