05
バスルームの方から水音がして岸和田は目を覚ました。時刻は六時前、昨日のゴタゴタから寝に入って三時間ほどしか経っていない。ヒデキは高いびきでまだまだ起きる気配はなく、ソファーにあるはずのユウスケの姿はなかった。
ほどなくしてユウスケがバスルームから出てきた。乾かしていないのか髪は湿ったままで、岸和田の姿を認めたものの目を合わそうともしない。
「もう少し寝ておけ」
「冴えちゃった」
かすれ声で呟いた顔は今にも泣き出しそうになっている。でもそれは恐怖の類ではない怒気を帯びていて、どうして邪魔したんだと疲弊しているはずの身体に不釣り合いな声で唸った。
「お前は馬鹿か。あの状況で食いかかるなんて」
「……ぶっ殺すつもりだった」
「それにしたって丸腰でいくやつがあるか馬鹿」
想像以上の無鉄砲さに岸和田は思わず額を押さえた。
「自分が何をしでかしたか本当に分かってねえようだな」
「生きて帰ろうなんて考えてない。そういうことでしょ」
全部承知でやったんだと居直る姿勢のようだ。
確かにあの時、ユウスケの様子は尋常でなかった。ブレーキワイヤーが千切れたように感情のコントロールを失っていた。けれども状況が悪すぎたのだ。相討ち覚悟でもすり傷ひとつ与えられないならそれはただの犬死にだ。
「焦るなよ」
「そんなんじゃない」
「焦ってんだよ馬鹿が」
難じても響いていないのかユウスケは顔色ひとつ変えなかった。頑固な無鉄砲ほどたちの悪いものはない。
「言い方を変えようか。俺たちはお前に借りがある。そんなんでお前に何かあれば寝覚め悪いだろうが」
「借りがなければ放っておいてくれたの?」
「いいや、切った張ったは俺たちの仕事だ。お前はすっこんでろ」
ピシャリとはねつければそれっきりだった。まだ違和感が残っているのだろうか、喉元をさすりながら何かを考えているようだ。しばらくして再び口を開いた時には、どこか物憂げな雰囲気をまとっていた。
「俺、焦ってましたか」
「俺にはそう見えたね」
「だから俺、こんななんですか」
「何だよ急に」
突然に縋るような顔に変貌して岸和田は困惑する。こんなか弱さをむき出しにするような男ではなかったはずだ。
「ユウスケ。まずは身体を休めた方がいいんだ。いま東京から迎えを寄越してるからヒデキと先に戻れ」
「岸和田さんは?」
「手ぶらで帰るわけにはいかねえんだよ」
「またあそこに行くんだ」
上目遣いに見開いた目は、言葉以上に何かを訴えかけてくる。
「連れては行かないぞ」
半ば強引に押し倒す形でユウスケを横にさせた。流石にもう反抗する気配はなく大人しくベッドに身を預けている。
「ついていっちゃダメ? 次は必ず上手くやる」
まともに取り合うだけ無駄だろう。ユウスケに背を向け、岸和田はスマートフォンを確認した。ポツポツと東京から状況報告が入ってきている。時は満ちただろう。
「岸和田さんこそひとりで行ってどうするつもりさ」
「お前が気にすることじゃない」
「殺されるより、酷い目遭うよ。アイツ、人間じゃないから」
「ご忠告どうも。尚更お前は置いていくしかねえな」
改めて退けてしまえば「どうして意地の悪いことを言うのか」と抗議の眼差しを向けられた。かと思えばソワソワと身体をさすってみたり、起き上がろうとしても傷に響くのか顔をしかめるだけでまたベッドに沈んだり、とにかく落ち着きない様子だ。
「傷が痛いんだろ、大人しくしておけ」
「お願い、やっぱり行かないで。死んじゃうから」
ちょっとどころではなく本格的におかしくなっているのではと気付いたのはこのときだ。まるで噛み合わないユウスケの表情と言動を目の当たりにして背中に冷たいものが垂れ下がる。所見は極めて不安定。腕をさすり続ける指先は力がこもり過ぎて真っ白になっていた。
「ユウスケお前、本当に殴られたりしただけか」
「しない、何もない」
薄い肩が大きく跳ねて顔面はみるみる蒼白になる。首を横に振りながら唇に乗せる声はもう言葉にもなっていない。それがパニックの始まりだった。
自分の身体じゃないみたいだと言いながらユウスケは服の端を掴んで震えていた。彼が上げた悲鳴にヒデキも飛び起きて寝ぼけ眼も一瞬で覚醒した。時間にしたらわずかに五分ほどのパニックであったが、ゼイゼイと呼吸もままならず震える身体は岸和田たちで抑えの利くものではない。相変わらず渋い顔でユウスケは膝を抱え込んだ。
「ええと、何があったんすか」
ヒデキが目覚めたときすでに過呼吸と痙攣の発作でのたうちまわるユウスケの姿があった。やっと治ったところで状況はまだ飲み込めないでいる様子だ。それでも岸和田には随分とタチの悪い拷問に晒されたであろうことが容易に想像はできた。
「アイツに何をされたんだ。俺に言ってみろ」
「何もしてない、大丈夫、してないから……」
「ちっとも大丈夫なんかじゃねえだろ。全部吐き出してみろ」
「どうして、そういうこと、言うのさ!」
見開いた瞳にみるみる涙粒が溜まる。吸った空気が喉元で歪な音を鳴らした。
「あー、俺が悪かったよ! もう落ち着け、な?」
背中を軽く叩いてやるとユウスケは頭を垂れ、それっきり押し黙ってしまった。波打つように押し寄せる震えは徐々に治まり、もう一度「東京に帰れるか」と問えば弱々しくも首を縦に振るだけであった。
昼前に到着した迎えの者にふたりを託し、岸和田は昨晩のラウンジに足を向けた。
時間帯がそうであるからかチェックアウトをしたばかりの宿泊客でソファーの半数は埋まっている。岸和田はカウンターから一番遠いところの空席にやおら腰掛けた。ユウスケにはまた久留米まで向かうようなことを言ったがそんなつもりは最初からない。こちらが赴くまでもなく奴の方から顔を出す確信があったからだ。
時どき東京へ指示連絡をしつつ過ごし何時間かすると、チェックインの客に紛れてひとり人影が近づいてきた。えんじの絨毯に足音は響かないけれどその気配は一瞬に察知することができた。
「ひとりで来るなんて結構じゃねえか」
「不意打ちのつもりだったのに、少しは驚いてくれてもいいんじゃないですかね」
テーブルをはさみ向かい側のソファーに座った岩永は、不敵に笑みを浮かべながら足を組んだ。
「驚きはしないさ。居所を特定されていることは分かっていたから」
懐からユウスケの壊れかけたスマートフォンを取り出して見せると、岩永は笑っていた目を細く尖らせた。
「バックグラウンドで妙なアプリが動いている。どうせGPSの類いで追跡していたんだろう?」
「本当につまらないよ。せっかくもう一度奇襲でもかけてやろうと思っていたのに」
「お生憎様だな」
目くらましの化かしあいに付き合う暇はない。岸和田は早々に本題を切り出した。
「道心会としての要求はふたつだ。ヒットマンの身柄を寄越せ。そしてあのガキに二度と近づくな」
「はて。ヒットマンってなんのことです」
「すっとぼけはいらない。貴様らが関与していることはとっくに掴んでいるんだ。要求を呑むならシマ荒らしの件は引いてやる」
岩永は足を組み直しながら何かを考えている様子だ。あるのは状況証拠のみで決定的な何かまでは得られていない。しかしユウスケの件もあるし、悠長にもしていられないだろう。今一度岩永を見据え結論を求めた。
「……こちらも参っていたんですよ。東京からヘルプの電話が朝から鳴り止まなくてね。開店早々に黒ずくめに居座られたら商売あがったりだ」
九州湊組が東京で展開するすべての店に、ほぼ同タイミングで乗り込むよう岸和田は指示をしていた。総勢にして百はくだらない。ただし乗り込むだけだ。何もせず、ただそこにいるだけ。人海戦術ならば地元側に利があるのだ。
「おかしいな。どいつも無銭飲食はしていないはずだが?」
「冗談きついですね。こっちは穏やかに商売したいだけなのに……まあ、いいや。明日の四時頃かな、そちらに身柄を送りますよ」
腕時計に視線を向けながら言うニヤけた表情からは、焦りも緊張も感じられない。腹の底ではまだまだ企てがありそうだった。
「しかしガキに近づくなってのは承服しかねる」
静かにそう告げられ、どういうことだと岸和田は睨みを飛ばした。
「勘違いしないでください、こちらから迎えには行かない。ただし目の前に現れたら玩具にしちゃいますけど」
言外の意味まで汲み取るなら、また視界に入るならば直ちに拷問するぞということか。不敵な笑みの真意を岸和田は推し測りかねていた。
「俺たちも誤解を解くなら、あくまで軒を貸しているだけでアイツは組員でもなんでもないんだよ。まだ学生やってるようなクソガキなんだぞ」
「……せいぜい母屋を取られないことを祈ってますよ」
「負け惜しみか?」
「解釈の自由です」
頭の中で黒虫が這い回るようなざわめきを感じていた。こんな輩に何時間といたぶられ続けたユウスケが変調をきたしたのも当然の成り行きであったと言える。
「残念だがあれに近づくなというのは譲れない。このままなら交渉は決裂だ」
「営業妨害がこのまま続くのも困ったな。それならいっそここで宣戦布告と行きましょうか」
笑みが消え失せ、凍った視線が向けられた。ノタゴトを抜かすなと岸和田はテーブルを叩く。その激しさに周囲の目が一斉に注がれるが、構わずに口を開いた。
「おう、それでも結構だ。答えはふたつにひとつしかない。今この場で俺の首を取るか俺の話を飲むかのどちらかだ」
「……ヤダヤダ、やめてくださいって。冗談です」
パタパタと手を振っているものの瞳は冷徹さを失ってはいない。それをあえて見せつけるように岩永は口角を吊り上げた。
「殴るぞって言ってから殴る馬鹿はいないでしょ?」
「いちいち潰すぞとお伺い立てるお人好しもいないしな」
一筋縄でいかないことくらいは予見していた。これ以上話し合いを続けたところでのらりくらりを繰り返されるだけだろう。絶対に近づくなと釘を刺し、岸和田は席を立つ。
「明日の四時と言ったな。それ以上は待たない」
「これでも極道の端くれですしねえ。そちらの約束は違えませんよ?」
決して音としては出ていなかったはずなのに、耳の中で聞いたことのない岩永の高笑いが響いていた。