04
ユウスケに家族から電話が掛かってきたみたいっすよ。九州湊組の本部に向かう道すがらヒデキからそんなことを聞かされた。
「親父さんが入院したとか何とかって」
「入院?」
「いやあ、理由とかさっぱりなんすけど。電話自体もうるせーとか何とか怒鳴るだけで切っちまって。親父さんが具合悪ィかもしんねえのにそれはなくねえかって言ったら、今度は俺に八つ当たりっすよ? それもなくねえかって」
思い出すだけでムシャクシャしてきたとヒデキは眉を寄せる。
「親から勘当されてるらしいがな」
「そうなんですか?」
「それでも電話寄越してきたんなら、帰ってこいとかそういう話だったんだろ。丁度いい機会だ。連れ戻したら実家に送り届けるかね」
「帰しちゃったらもう会うことねえんだろうな……」
ピーチクパーチクうるさいのがいなくなるのは、ちょっと退屈かもなあと独り言のようにヒデキの口からこぼれた。
ふたりは幸いにして九州湊組やその傘下の縄張りにまでは踏み込んでいないようだった。監視に気付いた咄嗟の判断で回避ルートを取れたからだ。これを建前として押し切るしかない。ヒデキは自らを身代わりになどと名乗り上げたが、敵陣に置いて去るなど有り得ないことだ。
「本当にそこにいるんですかね」
「さあな。でもお前がユウスケを見失った場所、本部のある久留米まで目と鼻の先だったんだぞ」
「そうだったんすか」
もう少し粘って追いかければ良かったとヒデキは悔しがったが、ひとりで乗り込まれていたら余計に事態はややこしくなっていた。これでいい、これでいいのだ。ふたりして口数が大人しくなった頃、ようやく目的の場所に辿り着いた。
五階建ての一見するとありふれたテナントビル。そこが件の事務所だった。夜夜中であるがいくつかの窓からはブラインド越しに明かりが漏れ出ている。正面の出入口では防犯カメラが睨みを利かせていた。
カチコミに来たわけでもあるまいし素直に正面へ足を向ける。チャイムを鳴らして数秒、応答はないが解錠の音がした。
扉を開けてみても迎え出る者がいる様子はない。勝手に上がってこいということだと受け止め、神経を尖らせながら仄暗い階段をあがっていった。
「わざわざ出向いていただけるとは思いませんでしたよ。ちゃーんと送るつもりだったのに」
その男、実年齢より十は若く見えるのが手伝ってか、何も知らなければ好青年にしか見えぬようなこざっぱりとした風貌だった。いかにもな筋者の主張は、岸和田の姿を認めた瞬間に鋭くなった目つきと首筋にうっすら線を引く古い裂傷痕くらいのものだ。
「最近物騒なもんで、ちょっと調べさせてください。終わればこいつら下がらせますんで」
岩永の後方に控えていた男ふたりがおもむろに岸和田たちの身体をまさぐる。岸和田はジャケットを自ら脱ぎ内側を晒して得物など隠し持っていないことを見せてみる。その様子に岩永は酷薄な笑みを浮かべた。
男ふたりが退室すると岸和田たちは一角に構えられた応接用のソファーに促された。
「次代の組長候補ともなれば全身彫モンだらけかと思ってましたよ」
ジャケットを脱いだとき襟ぐりから素肌が覗いたのだろう。岩永の口振りはどこか小馬鹿にしたようなものだった。
「趣味でないから入れてないだけだ」
「そりゃあいい。俺もあんな汚え皮っ面に乗せた落書きのどこがいいんだか、さっぱり分かりませんね」
ヘラリと口角を歪ませて岩永は続ける。
「そんな落書きでも海外では人気でね。引っ剥がしたらよく売れますよ、知ってますか?」
「人様の覚悟を落書き呼ばわりはないだろう」
「せっかくいいシノギだってのに、興味ないの?」
「食うに困っちゃいないんでね」
「……ふん、このテキヤ風情が」
声色がストンと落ちて、啖呵切られたような気迫を覚えた。立ち上がりかけたヒデキを目で制しながら岸和田は言葉を返す。
「博徒の世渡りには興味ねえが、シマを荒らしたわけでもないカタギの坊主さらうってのは違うんじゃないのか」
「カタギだと?」
眠たいこと言いやがってと岩永の切れ味鋭い声が飛ぶ。そのとき初めてまともな視線がヒデキに向けられた。
「こんな雑魚さらったところで使い道ないだろ」
「どういう意味だよ!」
ついに立ち上がり吠えたヒデキを岩永は嘲り笑う。
「暇潰しにもならないってことだよ」
「……ああそうかい。ただの暇潰しってんならもうアイツに用はないだろ」
殴りかかるのではという岸和田の焦りは杞憂に終わった。冷静さを見失わずあげた腰を下ろしたがそれでも拳は固い。紙一重に堪えただけだ。その様子に岩永が嘆息を漏らした。
「なんか期待外れだ」
なめるようにヒデキをなぞった視線が岸和田に戻される。何があってもこちらから手を出すな、目的を違えるなとヒデキにはここへ到着するまでに重々言い聞かせていたのだ。岩永の期待外れはこちらの期待通り。思い通りにさせるつもりは毛ほどもない。
「これでも自慢の弟分なんだよ。それに、こっちも今日は代紋背負ってきたわけじゃないんでな」
弟ねえと、岩永はまたしても下らないものを見据えたような表情を作る。そして挑発の言葉を上乗せした。
「組のモンじゃなくて個人として来たってか。ごたく並べやがって」
「方便と言って欲しいところだな。おたくだって組織だって一般人を拉致してなんてことになると、あんまり都合よろしくないんじゃないの」
それになと、岸和田は一枚のリストを懐から取り出した。
「これもあくまで個人的に得たものだが、一度お目通し願おうか。ただの抜粋資料だけどよ」
A4一枚に綴られたそれを見て岩永は口元を微かに歪ませた。そこには岸和田が足で見つけ出した、九州湊組の東京での潜入先がつぶさに記録されている。しかし半分も見ることなく岩永はそれを折り畳んでしまった。
「めぼしい候補地まで把握してるとはね」
「渡世に興味ねえとは言ったけど俺たちの庭場を荒らされちゃあ困るからな。あんまり勝手されるんなら、次は代紋入りの名刺を出すことになる」
「いいや、勘弁しときます。ここまで掴まれてちゃあ敵わないから今日はこの辺で」
眼孔のギラつきが失せて威圧的なオーラが引いた。初見で感じた好青年がもうそこにいる。
「奥の部屋にいるから、持って帰っていいですよ」
岩永に案内され、フロアの一番奥にある扉の向こうへ入った。
目の前の光景に一瞬だけ岸和田の思考が遅れた。
後ろ手に縛られ床に転がされるユウスケの全身には暴行の痕跡。そして首に巻き付けられたままのロープ。
飛びついて首のロープを取り払うと、首筋には何度も絞められた痣が濃く浮いていた。岸和田の声に反応して薄く瞼が開かれたが、瞳は混濁して焦点は定まっていない。
腕の縄を解くのに躍起になっていたところ、後ろから派手に打つ音がする。振り返るとヒデキの振るった拳が岩永の頬を捉えていた。剥き出しの怒りを受け止めた頬には相変わらず嫌な笑みを浮かべられている。
「お前みたいな三下が組長殴るってどういうことか分かってる?」
「これでチャラだろう!」
ヒデキの喚く声とユウスケが咽せ返る音が交錯する。やっと抱き起こしたユウスケはすっかり衰弱していた。あまり悠長に時間を潰してはいられない。二発目を繰り出そうとしたヒデキに帰るぞと声をかけた。握り込んだ右手をおさめたヒデキの息は興奮で乱れっぱなしだ。
「一発殴られてチャラっていうなら安いもんだ」
「勘違いするな。お釣りはしっかりくれてやる」
「楽しみにしてますよ。アホな弟分がいると大変ですね……さっさと始末しちゃえばいいのに」
よれたユウスケを抱え立たせたとき、岩永の放った言葉に心拍数がゴトゴト音を立てて高くなった。
「そういやあんたの組長さん、随分と腹の脂肪が分厚かったみたいだね」
それを言い切るかどうかのタイミングで、やっと立てたばかりであるはずのユウスケが身体ごと岩永に向かっていった。しかしそれは簡単にいなされ床に押し倒される。岩永がマウントを取りユウスケの動きを封じるまでも瞬きほどの時間しかなかった。
「まだ足りないようだな!」
首を絞めようとした岩永を岸和田がすんでのところで抑え込む。喉が潰れているためか声も出ないようで、ユウスケは喘ぐように唇を震わせた。岩永の頭越しに見た彼の表情は今までにない。獰猛な目つきそのままに食いかかろうとしたのをヒデキが割って入りおさめる有様だ。
岩永は無駄な足掻きなどせず、もう力は抜いていて形ばかり岸和田が阻んでいるだけだった。厄介なのは手負いの獣と化して暴れるユウスケの方だ。
「おい、やめろ!」
岸和田の一喝でようやくユウスケが大人しくなった。いつものあどけなさ残る顔になり落ち着きを得たようだ。
騒ぎを聞き岩永の配下が駆けつけてきた。誰が誰の味方をしているのか分からなくなった奇妙な光景に入口そばで踏みとどまっている。つまみだせと岩永が怒鳴るが、あれだけ暴れたユウスケが今度はてこでも動かない。ヒデキと二人がかりで外まで引きずり、図らずも岩永の言葉に従う形となってしまった。
ユウスケが正気になったのは合流に利用したホテルの一室まで戻った頃だった。
「何をしでかしたか分かってるのか」
岸和田が諭すように訊ねるも、顔を強ばらせ俯くばかりだ。病院に行くかと問えば、激しく首を振って拒絶を示した。せめて傷の具合を見ようとすれば触るなと抵抗される。暴れられる程度の元気が残っているなら身体の心配は要らなさそうだが、精神の方は喉と同じくらいすり減らしている様子だった。
結局、汚れた服を着替えることすら拒否したユウスケはソファーの上でうずくまり寝入ってしまった。そんな無防備すぎる姿を見てヒデキは呆れ顔を浮かべた。
「昨日もこいつ勝手ばかりだったんすよ。こいつがシャワー浴びてる時だって、小便したくなったから開けろと言っても無視っすよ。しっかり服まで着て出てくるんだから協調性ってもんがないんだ」
「ここまで来るの嫌がってたんだろ、そのくらいの仕返しなら可愛いじゃねえか」
「まあ、岩永に比べたらマシっすね」
岩永によって繰り広げられた数々の放言の中に、単なる煽り文句として聞き流せない台詞があった。狙撃への関与を匂わせた言葉について、突然ユウスケが暴れ出したものだから一切追及できていない。それはヒデキも気になっているようだった。
「案の定ちょっとした小競り合いは起きてたようだが、抑えが効いてるからそっちの心配はねえよ」
それよりと、岸和田はボロボロにされたユウスケを見やる。
「騒動収まったら帰すべきところに帰す予定だったけど、この状況じゃあひとりにさせられない」
どうしたものか頭を抱えたとき、ヒデキが思い出したように呟いた。
「そういえばこいつ、本当に狙われてたのは親父じゃないんじゃねえかと言ってた」
「どういうことだ」
「途中で撃つのを止めたっつうか……とにかくあえてトドメを刺さなかったように見えたらしくて……」
「写真撮れたぐらいなんだ、もしかして他にもなんか見てるんじゃねえのか。何も言ってなかったか?」
ヒデキは少し考え、特に何もと首を振った。別の写真でも残されていないかと、ユウスケを起こさないようポケットに収められたスマートフォンを抜き取った。ディスプレイはひび割れだらけだが問題なく作動する。しかし期待は外れたばかりか、ヒットマンを捉えた写真が完全に削除されていた。
「写真のコピーは取ってある。消したのは岩永だろうが、これでユウスケがヒットマンの顔を見ていることも奴に知れたわけだね」
そう考えれば岩永の不可解な言動にも多少の説明がつく。東堂の仕業と演出していた狙撃事件は虚構であることが判明している。混乱に乗じて奇襲をかける手筈も、東京での潜伏先が残さず露呈していれば思惑通りに事は運ばない。それらを指摘をされる前に己から口に出したのは計画の綻びを認めないプライドのためか。
東京では抑えに回っている若中衆は、すぐにでも反撃に出ようと指示を待っている。こんな形でユウスケを巻き込んでいることを久間が知ったらなんとするかと岸和田は思案した。ユウスケの安全が確保されないところで討つべしとは言わないだろう。
「そもそも口封じのためでも一般人痛めつけるなんて何考えてるんすかね」
「ただの口封じなんかじゃねえかもよ。スマホなんか叩き壊せばいいのにデータ抜いてる。首だって絞め抜きゃもう口も利かないよ。わざわざそうしないんだから本当に暇潰しだったかもな」
「ド変態野郎っすね……」
顔を引きつらせてヒデキが苦笑いした。そして視線がこちら側に向けられたユウスケの背中に流れていった。
「刺青がどうのって気持ちの悪ィ話もしてたけどさ……こいつの背中にあったりして」
そう言ったヒデキは大真面目な表情に直っていた。こいつ絶対に服を着崩したりしないっすよねとユウスケの背中を指差す。思い返せば岸和田にも心当たりがないわけでもない。ゲロかけられて服を貸した時も、余った丈をまくりなどせず丁寧に折り目をつけていた。
「ちょっと見てみようかな」
「起きても知らねえぞ」
「爆睡してるし大丈夫ですって」
やめておけとの忠告に耳を貸さずヒデキが背中に近づいていく。ほんの少し裾をまくって覗き込むような格好だ。岸和田の位置からは何も見えないが、やけにいつまでも凝視している。
「桜でも咲いてたか」
「なーんもです」
服を戻して向き直ったヒデキが、このことは内緒にしておいてくださいよと眉尻を下げた。そして毛布を引っ張りかけてやればユウスケは微かに身じろいだ。
「兄貴はどうして刺青入れないんですか。背中が広いから似合いそうなのに」
「特に理由はねえよ」
「もし入れるとしたらどんなのにします?」
不意に聞かれて返答に窮する。考えたこともないと返せば、いま考えてくださいよと迫られた。割と真剣に考えてみても頭に浮かぶのはひとりの男の顔だけだった。
「……光源氏」
「えー、絶対に似合わないっすよ」
「失敬だな」
「もっとあるじゃないですか、明王とか龍とか獅子とか、そういう方向性で!」
「じゃあ赤鬼」
「いいっすね。絶対そっちの方がいい。でもイメージ的には青鬼っすね」
当たり前のように岸和田の背後に回ったヒデキは、この辺に顔を持ってきてと鬼の姿を指でなぞる。鬱陶しさに肘を見舞っても声は弾んだままだった。
「そういうお前はどうなんだ、随分前に入れるとか言ってなかったか」
「あ、入れますよ。いま彫り師を探してる最中なんですけど、なかなかピンと来る人に会えなくて」
「何の絵を入れるんだ」
「完成するまで内緒です」
人には聞いておいてと質したが、それでも秘密とヒデキは首を振った。
「だって俺はマジですもん。黒一色の抜き彫りにするって決めてるんですよ。地味すぎるかなって気もするけど、ごちゃごちゃしてるのも無粋ですよね?」
前のめりになった面は肯定の返事しか求めない気迫に満ちている。確かに身近で単色の抜き彫りにしている者は少なくて、豪奢を極めた額彫り好んでいるようだ。しかし芸術品と捉えるなら、色が多ければ偉く柄が大きければ立派などと機械的には決められない。
「小洒落てていいんじゃないの。仕上げたら祝儀をくれてやるさ」
何かが踊るはずの背中を叩くと、ヒデキは目を輝かせながら早く彫り師を決めなくちゃと呟いた。