02
腹を抱えるユウスケを尻目に岸和田から託されたメモに目を通した。それには三つばかりの組織名が記されていて、それらの動向を調査して欲しいというものだった。東堂組の者を匿っている疑いがあるらしい。しかしながら、これまたあまり聞き馴染みのない名前で、所在地の市名も書かれているけれどピンと来ない。
「大村市? 嬉野市? あとなんだこれ、読めねえ。つーか、どこだこれ」
市名でなく県名で書いてくれればいいものを。眉間に皺も寄ったとき、ちょっと貸してとユウスケが横から手を伸ばした。
「大村は長崎空港のあるところ。嬉野は佐賀県だけど大村の隣市。諌早が読めないのはただの無知」
「うるせえな。そういうお前は地理マニアかよ」
「福江に住んでたから」
次々とマイナーな地名ばかり出されたところで分かるものかと、再びヒデキは首を傾げた。でも長崎空港と言うからには長崎周辺の話なのだろう。
「ユウスケの地元に近いのか」
「近くもないけど……長崎市内だって滅多に行かなかった」
「そんなに田舎なのか」
「わざわざ島を出なくても困らないしさ」
「えっ、島なの? 何人住んでんの?」
「それって岸和田さんのメモに関係ある?」
目を細めたユウスケの顔に尊大な色が浮かぶ。そしてその目は手に持ったままのメモに移っていった。
何の因果かヒデキはこのところユウスケと毎日顔を突き合わす羽目になっているが、過労で少々壊れていた時こそあれども誰に対してもそのような態度を取っていたように見受けられた。
久間も岸和田も口を揃えて「カタギだから優しくしてやれ」と言うが、そんな扱いが相応しいとは到底思えない。無駄に高そうなプライドがたいして大きくもない身体を太く見せているだけ。身長は平均並だし肉付きはむしろ華奢な方だ。大柄な岸和田と並べばふた回りは小さく見えるほどなのに、態度のでかさが気に食わない。とにかく横柄なのだ。温い半グレだって捕まればチビるような筋者だらけの館に囲われ平然としていられるなんて、ユウスケはどういう肝の据わり方をしているというのか。
そんなことを考えていたら、ユウスケの目が大きくギラついて口の端が微かに歪んだ。どこまでも気色の悪い奴だ。
「調べ物なら手伝ってあげてもいいよ」
「何が分かるってんだ」
「諌早も読めない人よりはここら辺のこと詳しいと思うけど」
またしても気に障る言い方をしてくれたが正論でもある。ぐうとヒデキが言葉を飲み込むと、ユウスケはメモを裏に返して何かを書き付け始めた。ずるずるとミミズのような線が引かれてそれがやがて九州地方の地図になる。そこに三点打たれてようやく、岸和田の指示した街の位置関係を把握することができた。
「でっけー湖みたくなってるところに空港があるのか」
「そう。空港からだと、長崎や佐世保より諌早が断然近い。そこから長崎本線に乗れば嬉野近辺まで行けるし、大村から高速で乗り付けることもできる」
地図にルートも書き足されるとそれらの地理的な繋がりがより具体性を帯びてきた。まるで無関係のような三市がなんてことのないラインで結ばれた。それからねと、ユウスケはペンを続けて走らせる。
「高速でも電車でも、このまま進めば鳥栖に行き着く」
「また変テコな名前出したな!」
「鳥栖から久留米は目と鼻の先なんだ。まさか久留米を説明しなきゃいけないほど馬鹿じゃないよね」
「久留米は関係ないだろ」
「……もういい」
大袈裟にユウスケは溜め息を吐いた。その横顔を見て、こんな表情をする奴だったのかとヒデキは思った。先ほど気色悪いと感じたものとはまた違う、情念滲み出た目だ。
「ヒデキさんは馬鹿正直にこいつら調べるつもりなの? どれも十人くらいしかいないような小さな組ばかりだってのに」
「頭数で決めてかかると痛い目見んだぞ!」
この言葉はいつか岸和田からの受け売りだ。しかしそれを聞かされたユウスケは不愉快そうに唇を歪めただけだった。でもそれは一瞬のことで、急に神妙な面持ちとななる。
「ヒデキさん。俺、見ちゃったんだけどね。本当に狙われてたの、クマさんじゃないと思うんだ」
親父をなんて呼びつけてるんだという言葉も引っ込むような思わぬ台詞に耳を疑う。どういうことだと尋ねるとユウスケはポツリと言を継いだ。
「クマさんに当たったのは一発目の銃弾。二発目と三発目は咄嗟に伏せていて避けられた。犯人が四発目を撃とうとしてるところを見たんだ。でも撃たなかった。なんか変じゃない?」
「弾切れだったんじゃねえの」
「警官のニューナンブですら五発装填出来るのに、親分殺しにきたヤクザが三発しか撃てない拳銃なんて使うかな?」
「確かに変だな」
そんなところまで見ていたのかと柄にもなく感嘆してしまった。その推測が正しければ本当に狙われていたのは誰なのか。まさかユウスケなわけもないし、必然的に答えは出る。
「もしかして兄貴か」
「動機でもあるの?」
「東堂にはあるぞ!」
東堂が恨みを持つとすれば、破門の決定を下した久間ではないだろう。破門理由なった警官誤射の原因は岸和田にあると逆恨みをしている可能性が否定できない。
そうでなくとも久間が死すれば若頭である岸和田が自動的に跡目を継ぐことになり、それは東堂にとって最も認め難いものだ。久間を撃たない理由はあっても、撃つ理由がいまは存在しない。
「あいつは自分こそ若頭になると思っていた。でも実際はそうならなかったから兄貴のことを妬んでいるんだろ」
「くだらないね」
ユウスケは鼻で笑ってみせたけれども、この世界では笑って見過ごせない重要案件。道心会きっての武闘派組織を自負していた東堂が、自分の組も構えない岸和田に若頭のポストを持っていかれてしまったのだからプライドが許すわけがない。
力を誇示しそれを覆そうと派手に動き回った結果、警察当局に目を付けられて事に至ったのだから皮肉な話だ。これら背景を鑑みたら、岸和田が「静観せよ」と命じた理由にも合点がいく。個人の恨み晴らしに組を巻き込むわけにはいかないということなのかもしれない。
「でも九州の奴らが出張ってくるのが分からないな」
「それを調べろってことなんでしょ。俺の撮った男がどれかにいたりしてね」
ヒデキは再びメモに視線を移した。九州は遠いけど、空港そばの街なら時間的距離はそれほどでもないと言える。
「……土地勘はあるんだよな」
「住んでたのは福江だって言ったでしょ」
「それでも東京より近いだろ」
「フェリーで三時間はかかるんだからね、近い気しないよ!」
行かないぞと顔を引きつらせるユウスケのことは無視して、早速航空チケットの手配に取り掛かった。
「三時間後にはもう着いているかもしれないぞ」
ヒデキらが九州へ向かおうとしていた頃、岸和田は再び病院に足を向けていた。
「火」
「病室ですが」
「早く寄越せ」
久間の口に咥えられた煙草がタクトのように上下する。眉間に刻まれた皺は腹部の痛みによるものかはたまた。
人間死ぬ時はポロリと命が零れ落ち呆気ないものだ。けれども死なない時は面白いほどしぶとく命が身体に絡み付く。それは本人の意思では到底引き剥がせないもの。久間は丸一日昏々と眠り続け、意識を戻せばすでにいつもの調子だった。岸和田が火を差し出すとたちまち部屋には紫煙が満ち溢れる。吸い込む度に煙草の先端が赤く光ってくすぶった空気に獰猛な色をさした。
「暴れるなよ」
「すでにそう言い渡してあります」
灰がパラパラと掛け布団へ落ちるのにも構わず、久間は満足そう口角を吊り上げた。
「東堂にもお前くらいの我慢強さがあれば良かったんだがな」
とうとう本人の耳に入ることはなかったが久間はいずれ跡目を東堂にと宣言していた。それを傍らで聞かされてきた岸和田は一番良く分かっている。
『お前は人を見る目がない』
いつか久間から与えられた警鐘は己の指針になった。見る目がないなら見なければいい。子分を集めて組を成すのも結構だが、ひとり身軽のまま協力が必要な時は頭を下げて回るのも悪くないことに気が付いてしまったからだ。全てを被る覚悟を持って接すれば差し伸べられる手数は多い。人は従えるのでなく頼るものだと理解した。
「局面をどう読んでいる」
「相手は我々が動き出すのを待っている。だからあえて動かず初めから膠着状態に持ち込みます」
東京は狭いが広い。あまねく全ての地域に縄張りを敷けるわけもなく空白地帯が必ず存在する。それは敵対組織の陣地であったり、ルール無用の外国マフィアが蔓延している地区であったり。
その空白地帯ばかりにここ一二年ほど、ネズミが何匹も潜り込んできたことまでは把握している。表向きただの飲食店など一般事業者を装っている。実際、普通の学生がアルバイトをしていたりと一見してアウトローとは無縁の姿だ。しかしバックには東京進出を目論むある組織の存在が噂されていた。
「親父を撃ったのは恐らくきっかけ作りに過ぎない。こちらの混乱に乗じて奇襲をかける二度目こそが本番です。親父を狙えば我々が即座に動き出すと踏んでいるはずだから、それで生じる隙をネズミが窺っているでしょう」
「……九州湊組が裏で手を引いているということか」
岩永寛司率いる九州湊組。件の噂されている組織のことだ。数年前に岩永が二代目に就任して早々、特定危険指定暴力団に指定されるなどきな臭く過激な話は東京にまで及んでいる。
元は長崎・佐賀を拠点にしていたらしいが、近年福岡県にも進出している。そのまま北九州方面へ勢力を拡大するものと思いきや一挙飛んで東京に。表立った活動はせずネズミのように影で潜伏し機を待っている。ちんけな害獣の名で呼ぶには危ない存在だ。火を噴けばネズミ花火の如く暴れ出すだろう。
「岩永は東京で活動する大義名分が欲しかった。そこで東堂の破門を利用しようとしている。このタイミングで親父が襲われれば東堂の仕業だと誰もが考えますからね」
そうかと久間は低く唸った。不慮の事故とは言え警察官を殺めた者を認めるわけにはいかない。それが我々のルールだから。しかし「警察は敵も同然。それを撃ち賞こそ与えても罰するなど言語道断」と考える組織もある。九州湊組は特にその気質が強いことで有名だ。追放された東堂がそこを頼るのは何ら不思議ではない。あちら方にしても彼を処するとはけしからんなどと内心ほくそ笑みながら攻め立てる口実になる。
警察には手を出すな。その不文律は多く日本ヤクザの共通認識だった。別に国家転覆が我々の目的ではない。古く警察が取り締まりきれない混乱をヤクザが収めてきた時代があった。警察になり損ねたヤクザがいる一方、ヤクザになり損ねた警察がいたのも珍しい話ではない。辿る進路が違うだけで着地点に両者大きな差はなかったのだから、警察には逆らわぬという風潮は当然の成り行きだった。それを守れないならば極道として生きることは許されない。
それにより築かれた絶妙なパワーバランスは、暴対法制定という形で親方日の丸の側から打ち崩された。それでもなお関係を再構築していくか、手を払い徹底的に争うか。あいつらは争う道を取っただけのことで、先に背中から撃ってきたのは警察の方だ。ベジタリアンとカーニヴォアで優劣など付けられないように、ヤクザ間でもどちらが正しいなどの議論は無意味だろう。郷に従えないならば徹底的に叩く、それだけのことだから。