03
アドレス帳には先の人物しか登録がされていなかった。発着信履歴はわずかに残るものの定期的に削除された痕跡がある。一向に鎮まらないユウスケは岸和田の手も自分の顔も区別なくひっかき傷をつけて暴れていた。
「セイジってのは誰なんだ」
「うるさい、返せ!」
奪い返そうと伸びた手は空を切る。喉元を抑えられては身動きが取れず喚き散らしているだけだ。
「何度も同じこと言わせんじゃねえぞ」
ユウスケの金切り声は無視してダイヤルをした。先方もまだ受話器を片手にしていたのだろうか、数秒と置かずに電話は通じた。
「いつも急に切るなって言ってるだろう……」
電話口からは名乗りよりも先に安堵交じりの文句が聞こえた。先ほどの通話相手と同一人物であるのは間違いなさそうだ。
「おたく、セイジさんで間違いないか」
「えっ……あなた、誰ですか?」
落ち着いたトーンが一転、戸惑う声がした。
「聞いていることだけを答えるんだ」
ユウスケは今なお暴れている。早く切れという絶叫と、そうだという返事は同時だった。
「セイジさん、あんたこの電話の持ち主とはどういう関係だ」
「そちらこそ誰なんです。後ろで騒いでるのは……」
「聞いたことにだけ答えろ!」
ますますユウスケが大声を出すものだから思わず張り手を食らわせた。そこまでしてようやく黙ったが、今度は電話口から怒号が響いた。
「いま何をした! 弟に代わってください! でないと警察呼びますよ!」
返ってきたのは思いもよらない言葉だった。弟とはどういうことかとユウスケを睨むと力なく頷くばかりだ。
「話をしてみろ」
スピーカー通話に切り替えてユウスケに差し向けた。向こうからは悲鳴にも似た怒鳴り声がまだしている。それを聞いてユウスケはまた不機嫌そうに吠えた。
「……だから電話してくるなって言ってるんだ!」
「一緒にいる男は誰なんだ。お前、また変なことしてるんじゃないだろうな?」
「どいつもこいつも余計なお世話だ!」
「フラフラしていなければこんなに口うるさく言わない」
放っておけばいつまでも続きそうな応酬だった。それを遮って再び岸和田は耳を傾けた。
「兄上と知らずに失礼した。家族とは疎遠だと伺っていたものでね」
「弟は、どうしているんです」
「ここしばらくうちで預かっているんですよ。誤解しないで頂きたいのは誘拐だとかの類ではない」
本当に身内なのか、探り探り反応を待った。聞こえきたのはホッと息つくような音。
「無事ということでいいんですね?」
「安全のために預かっている」
「それならもう一度代わってください」
落ち着いて話せと釘を刺し、再びユウスケに向けた。
「今の話は本当なのか?」
「お願いだから電話を切ってよ……」
「その人は本当に大丈夫なのか?」
「別に、ちょっと飯食わしてもらってるだけだし……、いいから早く電話切れよ!」
「……分かった。それならいい」
お終いなのかふたりの会話は止まり、間もなくして通話も切れた。ユウスケは息を荒らげてこちらを睨みつけている。それからなんてことをしてくれたと声を上げた。
「手前の兄貴ならさっさとそう言えば済む話だろうが」
「許さない」
「許すも許さねえもお前が決めることじゃない」
牽制の意味も込めて胸倉を掴み上げた。本題はここからだ。
「そもそもがな、お前がウロチョロ勝手をしなきゃこんなことになってねえの。今日は何をしていた」
「そんなの俺の自由でしょ」
この期に及んでも吐く言葉は開き直りだけだった。岸和田は胸元を抑えたまま床に叩きつけた。後頭部を強かに打ちつけユウスケは顔を歪めた。
「自由ってえのは半殺しと隣り合わせだからな? 馬鹿ばっかやってると必ず痛い目見るんだよ!」
「意味分かんないし!」
「また拉致られて殺られるよりはマシだって意味だ!」
「放っておいてよ!」
「本気で半殺しにしなきゃ分かんねえか」
拳で振り抜いた顔面を鷲掴みにして再び叩きつけた。それから右腕を取り身体を転がす。捻り上げられた腕の痛みでユウスケの額には脂汗がにじんでいた。
「このまま一本ずつへし折ってもいいんだぞ」
「離せよ」
「じゃあ答えろや」
床にへばりつく格好でユウスケは顔を歪ませている。だというのに切れ切れの息の中、冷ややかな視線を向けてきたのだった。
「ナニ笑ってんだよ」
「本当にうるさいな」
「この引かれ者が」
握りしめた拳骨が鈍く鳴る。食わせた衝撃の重さにユウスケが怯んだところで隙も無く続きをお見舞いした。
「聞くのは最後だ。今日は何をしていた」
唇がかすかに動いて血交じりの唾が吐かれる。
「もう口では分からないみたいだねえ」
ユウスケに馬乗りになって面をこちらへ向かせた。岸和田を押し退けるようと伸ばした手を捕まえて、その指を握り込んだ。
「さっきのは脅かしじゃないからな」
握った指先に可動域を超えた圧力を加えると、悪足掻きがピタリと止んで悲鳴が上がった。
「その辺にしておいた方が!」
悲鳴と同時に隣室からヒデキが飛んできた。
「邪魔すんな、すっこんでろ!」
制止するヒデキを怒鳴りつけ、岸和田はさらに指先へ力を込める。そこまでしてようやくユウスケは白旗を上げた。
「言う、言うから、離してっ」
その言葉で解放してやると、鼻血やら脂汗でぐちゃぐちゃの顔面はすっかり冷めたものになっていた。
タオルでも持ってこいと言いつけてヒデキは一旦退室させた。改めてユウスケに向き直り、今日の出来事を問い質す。
「誰かと会っていたそうじゃねえか。それは誰だ」
「……知ってるくせに」
「はあ?」
分からないから聞いてるんだろうと唸れば、ユウスケは再び気色ばんだ。
「人のことロクな奴じゃないとか言っておいてさ、今さら白々しいことやめてよ」
「だからどういう意味だ」
「何もなく黙ってこき使われてたと思ってるわけ?」
ヒステリックに頭へ血を昇らせるユウスケに落ち着けとなだめ聞かせた。しかし口元を袖でぬぐいながらユウスケは興奮気味に言を継ぐ。
「俺が何も気付いてないと思ってさ、馬鹿にすんなよ。こっちはバレるの承知で名簿抜いてやったんだ。俺がしたこと知ってるくせに、今さら何だよ!」
名簿、というワードで心当たりはひとつしかない。ユウスケに任せたハガキの宛先のことか。車中で久間がユウスケに投げかけた言葉が蘇る。黙って作業をしていると見せかける傍らでの不審な動きを見抜いていたということなのか。
「あれに載ってる人間に会ったってか? なおさら分かんねえな。そんなことして何の意味がある」
「意味だって? 悪い奴らしか載ってないんだ、することなんて馬鹿げたこと以外にあるわけないだろ!」
噛み締めるように結ばれた唇は震えている。これ以上は話さないぞ。瞬きひとつなく岸和田を見据える目がそう語っていた。
「馬鹿なことだと分かっててやってるなら、止めるだけ無駄だなあ。だがここは俺たちの庭場だ。お前みてえなガキが好き勝手できると思うなよ」
今にも殴りかかってきそうなユウスケの右腕を取り上げた。さっきの痛みでも思い出したのか、表情は怒気をはらんでいても全身を強張らせている。
「やめて」
泣くような声は聞かずに袖を一気にまくり上げた。その腕についているもの、レイカが言っていた古傷はこれのことらしい。リストカットというより防御創とも考えられる痕跡だった。
「馬鹿やった結果がこれか? 派手に喧嘩でもしたみたいだなあ?」
「違う、これは……っ」
違う違うとうわ言のように繰り返しながら首を振る。
「そうか。やり合いじゃねえならこの前みたいにリンチでもされたか?」
その問いに対する回答は聞くまでもなかった。怯えきった反応を見るとおよそ図星であることは明らかだ。
ちょうどそこで濡れタオルを持ったヒデキが戻ってきた。視線はユウスケの腕に釘付けだ。
「見ちゃったんすか」
「ヒデキ、てめえ知ってたならさっさと報告しやがれ」
どいつもこいつも。ヒデキからタオルをひったくり汚れた顔面に押し付けた。ちらりとタオルの隙間から覗いた目はすっかり気落ちしている。
「痛い目見るのも一度二度じゃねえんだろ。だったらいい加減学習しやがれ」
色々な意味で頭の中も重症だろう。この手合いに下手な慰めや同情など、再び逆鱗に触れて手に負えなくなるだけか。
だがしかし消えてなくなりそうなほど意気消沈している姿に先ほどの怒り狂った気配は微塵もない。今なら殺すぞと脅かせば黙って首を差し出す従順さすら感じられた。タオルを掴む手はかすかに震えている。
「死にかかってでもやりてえことがあるのは認めてやる。でも東京でする勝手は許さない。やるなら俺に話を通せ。ひとりやふたりなら代わりに片付けてやる」
「……どうして、そんなこと言うんだ」
簡単に言うなよとタオルの下でユウスケは呻く。