02
留まった足を再び一歩踏み出し、手首をひねり相手の腕を掴み返す。まだ目は慣れないが、そのまま内側に絞り上げて感覚だけで押し倒した。うめき声が聞こえたのと固めた腕から完全に力が抜けたことを確認し、そいつの髪の毛を鷲掴みにした。
「お前……!」
ようやく目が慣れてきて床に伏せ込むその顔を認識することができた。
「何の真似だよ!」
髪の毛からは手を離すが腕は固めたままだ。動きを封じられひっくり返るユウスケを問い詰める。返事はなく、荒い呼吸だけが聞こえてくるばかりだ。
「そこを動いたら許さないからな」
いったん立ち上がり、手探りに照明のスイッチを探して点けた。ユウスケは言いつけ通りに動いた気配はなく、上身だけ起こして左腕をさすり続けている。突然の目くらましに手加減などしていない。こちらの体重をほとんど乗せて動きを封じたから捻挫くらいは起こしているかもしれなかった。恨めしげに睨む中にも苦悶が浮かんでいる。
「襲うような真似するから悪いんだろ。どういうつもりだ」
腰を落とし、今度は右腕の方を掴む。いつでもこちらの腕も固められるんだぞと威しながらユウスケの反応を待った。
「個室にでも閉じ込めてやろうと思った」
「はあ? 何を考えてるんだよ」
「それは俺の台詞だし」
顔が険しいのは腕の痛みからで、落ち着き払った声からは臆している様子など微塵も感じられなかった。
「先に俺のこと見張るようなことをしたのはそっちでしょ」
ユウスケからは見えないよう隠れていたつもりだが気付いていたのか。
彼の目が大きく見開かれる。真一文字に結ばれた唇が不快そうに歪む。傲岸不遜とも言える態度にヒデキの苛立ちは募るばかりだ。
「元はと言えばユウスケが仕事サボるからいけねえんだろ」
「それとこれとは別の話だよ」
「いいや、同じだ」
埒が明かない。場所を移すぞと、わざと掴む腕を左に変えてヒデキはユウスケを店外へ引きずり出した。
風はやたらに強かった。季節外れの台風でも来てるのではないかと思うほどの強風で、街路樹はなぎ倒されそうになっている。風に煽られ無意識に腕を掴む手に力がこもった。やはり左腕は強く痛むらしい。それでも油断すれば何をやらかすか分かったものではない。可哀相だが力を加減するわけにはいかない。それがまた苦痛をもたらしているのか、表情はともかくとして従順についてくる。ユウスケを引きずりながらヒデキは尋問を再開した。
「さっきの男は誰なんだよ」
「誰だって良いでしょ」
「良くねえっての!」
足を止め、ユウスケの方へ向き直る。
「……正直に言えば、今なら兄貴たちには黙っててやるからさ」
ユウスケが仕事に行っていないと判明したときの、久間のただならぬ表情が思い出されていた。このまま強情張り続けるならば、久間や岸和田がそれなりの対処を下すことになる。それはユウスケにとって好ましい結果にはならないはずだ。
「マジでさ、自分が何をしてるか分かってんの。兄貴たちにしばかれるぞ!」
ここまで訴えてもユウスケは、そんなの知ったことじゃないとでも言いたげな顔だ。
「今さら何を言ってんの」
それは冷たい薄ら笑いだった。痛いはずなのに左腕を乱暴に振り上げて払った。
「これだけは教えろよ。あの男、別に脅かされてるとかじゃねえんだよな?」
「別に」
「じゃあ何で……」
何をしていたのか、続く言葉はおもむろに尻ポケットから取り出された物によって遮られる。裸でねじ込まれたしわくちゃのそれは十枚ほどの一万円札だった。
「こういうわけ。これで満足?」
「どうしたんだよこの金っ。え、お前が強請ってた側か?」
「そんなわけないじゃん」
「じゃあ何の金だよ」
「言うと思ってるの?」
ユウスケから薄ら笑いが消える。札が風に飛ぶ。これ以上、俺に構うな。まばたきひとつしない瞳がそう強く主張していた。
どれほど心配をさせていたのか全く理解してないユウスケの態度に腹わたが煮えそうだ。一度は解かれた左腕をもう一度掴み上げた。
「触んなっ」
「自業自得だろ」
ユウスケがそういう態度であるなら、こちらも好きにさせてもらうだけだ。具合を見せろと袖口をたくし上げた。
「離せよ!」
睨み抵抗するユウスケを一喝ではねのけた。
「今さら隠してんじゃねーよ」
その言葉で、深く困惑に揺れる顔がそこにはあった。
通りがかりのドラッグストアでテープを購入し、応急処置でテーピングを施してやった。
「こうしておけば分からないだろ」
ヒデキが巻いている間もユウスケは終始無言だった。処置を終えてもなお、左腕を突き出した格好のままでユウスケは俯いている。今までも一言で従った試しなどないが、今回はそれらを上回る気配だ。ヒデキは諦めて頭をかいた。
「ユウスケが白状しなくたって兄貴たちには追及されるからな。でも、もう二度と勝手にどこか行かないと約束するなら、適当に口裏を合わせてやる。そうすれば兄貴たちもそれ以上は何も言わないよ」
ユウスケの目だけがこちらを向く。さきほどと一転して反論の言葉すらないから、無言の同意と受け取ることにした。
『ユウスケを見つけました。』
ヒデキからの二報を岸和田が受けたのは、最初のメールから何時間も経ってからのことだった。とっくに夜を回り辺りの景色は一変している。
二軒目以降の捜索がどうだったのか不明のままに時間ばかりが過ぎていたが、発見の報せからふたりはすぐに帰ってきた。
岸和田がヒデキに事情を確認すると、返ってきた答えは呆れる内容であった。
「二軒目で遊んでるのすぐ見つけたんすけど、つい一緒になって遊び始めちゃいまして」
気付けばこんなに時間が経っていたとヒデキは悪びれず言う。
「連絡ぐらいちゃんとしろ」
ヒデキに対する注意はそこそこに、騒動の発端となったユウスケを見る。肘までまくられた左腕はテーピングでぐるぐる巻きとなっていた。
「それはどうしたんだ」
「ボルダリングってあるじゃないっすか。壁にくっついた岩を登るゲーム。それでムキになって落ちて怪我までしやがって。それからやっと帰ってきたんです」
おいそうだったよな、とのヒデキの問いにユウスケは無言で頷く。随分頑張ったのか、ユウスケの服にはシワとわずかに汚れた痕跡が見えた。
「お前、しょっちゅうゲーセン入り浸ってるのかよ」
岸和田の問いかけにユウスケは目を瞬かせた。
「しょっちゅうってわけでも、ないけど」
一瞬の言いよどむ間合いがあった。嘘とも本当とも取れる曖昧さだが、視線が泳ぐなどといったことはない。今度はヒデキを見やる。すると目を逸らして「最初は格ゲーしてましたけど」と、聞いてもいないことを口走る。嘘つきはお前の方か。
ふらり奥の部屋へ下がったユウスケを横目にヒデキをじっと見据えた。
「なんですか……」
「報告はそれだけか」
「他には何も……」
「あの腕は怪我だけじゃあねえだろ」
返ってきたのはある意味で予想通りの反応だった。ヒデキは分かりやすいほどの狼狽を見せて言葉を濁した。
「怪我したのはマジで……」
「あの野郎の腕に傷あったろ」
「え、兄貴も知ってたんすか」
狼狽から一転、意表を突かれたようにヒデキは瞬いた。
「リストカットしてたってのは本当なのか」
「うーん、傷跡触るとめちゃくちゃ嫌がるんでよく分からないけど。怪我は手首だけなんすけど、ついでにそっちも隠してやった方が良いのかなって」
「……で、他には」
「マジでこれで全部ですから! 何でいなくなったか聞いたって言わねえんだもん。あいつ後ろ頭にも目玉ついてるに決まってる。じゃなけりゃ怪我なんかさせなかったっすよ!」
「一緒に遊んでたっつーのも嘘なんだな」
しまったとヒデキは口をつぐんだ。しかし逃げ出そうとした理由を問い詰めたというのは事実らしい。これ以上は本人に直接追及した方が早そうだ。
ユウスケが籠った部屋に入ると、誰かと電話をしている最中だった。到底会話と呼べるものではなく、ほとんど一方的に喚き散らしている有様だ。
「掛けてくるなって何度も言ってるだろ!」
相手の返事も聞かない内に通話を切り、力任せにスマートフォンを床に投げつけた。それは岸和田の足元まで跳ね転がってきた。
「今のは誰だ」
そこでようやくユウスケはこちらに気がついた様子だが、問いかけは無視で投げたばかりのものを拾おうとしている。それを遮って先に岸和田が取り上げた。
「返してよ」
「今の電話は誰だって聞いてるんだ」
「関係ないじゃん」
目を尖らせて奪い返そうと手を伸ばしてきた。それを払い除けて三度訊ねる。
「答えねえならこれで掛け直すか」
「やめろ、そんなことすんな!」
「お前がごちゃごちゃ訳の分からねえことばかりしてるからだろうが!」
一喝して怯んだ隙に通話履歴を呼び出した。一番上には『誠二』の文字。他にもいくつかの履歴が残っていたが、どれもアドレス登録はされていないものだった。
「こいつは誰だ」
「知ってどうするのさ。岸和田さんには関係ないことでしょ」
ユウスケは薄ら笑いさえ浮かべて懲りもせずにまたスマートフォンを取り戻そうと向かってきた。口で言ってすぐに聞き分けた試しなど、今までだって数えるほどもなかったのだ。
ユウスケの胸ぐらを掴んで床に投げ倒した。不意打ちを食らって派手に転げた上体をすぐさま抑える。離せとのたうち回る頬に拳をお見舞いした。
「大人をおちょくんのも大概にしとけや」
こうして勝手放題していることが、自分の身を脅かす行為であると未だ分かっていないのか。最初からこうしてしまえば良かったと、他のアドレスも呼び出した。それを見てまたユウスケが大暴れを始めるものだから首根を片手で抑え込む。これはまるでいつか見た光景のようだった。