愛撫
10年前に書いた、初小説です。
記念にアップ。
或る人の語った話。
「…話を聴きたいと言うのですか?面白い話、ねぇ?
……あぁ、それなら彼の話をしましょうか。
あれはもう随分昔の話です。彼と出逢ったのは夏の日、大層暑い夏の或る日のことでした。私が彼と逢ったのは、陽炎の揺らめきの中。そうして彼と、彼と共に訪れた幾多の出来事も、たまゆらの陽炎の揺らめきと共に消えたのです。
私は彼の事を思い出す度に、常にあの夏の日の強い陽光と、その下に立つ、場違いな程夏に不釣り合いな彼の姿が眼前にまざまざと浮かぶのです……」
その日私は狭い庭に面した縁側で読書をしていました。
そうしたことは当時の私にとっては、日常の風景の一部でした。というのも、当時毎日する事といっては本を読む事ばかり。終日外になどは一歩も出ず、食事すらも碌に取らずにいる事も屡だったのです。
まだ二十歳を少し過ぎたばかりだったのですけれども、已に現世に飽いたかの様に振舞い、まるで隠居のような生活をしていました。そんな私の有様を、自分ではこう評価していました。
『自分にはその年代の青年に特有の、活気とか熱意という物が欠けている』と。
しかし今から考えると寧ろ同じ年代の若者のもうひとつの特徴、即ち感受性や猜疑心と言ったものが顕著だった、というのが正しいのでしょう。私は遍く世の中というものを信用していませんでした。
唯々本を読んでは鬱々と日々を遣り過ごしていた、そんな代り映えのしない日々。昨日と今日とは違うのだという些細な事を思い出させてくれたのは一匹の猫でした。
りん。
と。鈴の響がしたのです。ふと紙面から眼線を上げると其所には一匹の猫。
私は少なからず驚きました。と云うのも開いた本は、偶然にも猫についての小品の項を示していたからです。
「なんて間の良い奴だ。」
そう口に出して云ってみました。声を出すなんて久し振りのことでした。尤も、嗄れた、声ともいえない代物しか出なかったのですが。
猫は綺麗でした。ここいらの野良では見かけない銀鼠色の体毛。頸には首輪が着けられていて、先ほどの音はこの首輪に付けられた鈴が鳴ったのでしょう。おそらく飼猫なのだと推察されます。
ええ、猫は本当に綺麗でした。けれども、虹彩の細い金の眼がそうさせるのでしょうか。私の好みからすると少しばかり冷淡過ぎる印象で、いっそ禍々しい位。
猫は、それまで私の読んでいた随筆の内容を思い出させました。それは次の様な物です。
『……私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠を、一つずつ私の眼蓋にあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。……』
その文章の通り、話をそのままなぞりたいという衝動が私の中に起こりました。猫の蹠なぞ、確かに気持ち好さそうです、そう思いませんか?
どうにかして猫を近くに寄らせたいと思い身体を動かすと、猫は俊敏な動作で退いてしまいました。
猫はそのまま逃げ去るかと思われました、しかしそうではありません。
猫はたしかに一時、生け垣の破れ目から姿を消してしまいましたが、直ぐにまた姿を現しました。低い生け垣の向こう側に立った青年の腕に抱かれて。そう、件の彼です.。
彼は照り付ける陽射しの中に、黒い染みの様に立っていました。猫の飼い主かと思い、不躾な程じろじろ眺め回しました。
陰気な青年でした。青瓢箪もいいところの私が言うのもなんですが、なま白い顔に被さった、顔半分を覆う程黒髪を長く伸ばした姿は幽霊めいてさえ見えます。その上、頭に冠った鍔広の麦藁帽が蔭を落としていて、表情を判別り難くしているのです。
「やぁ、今日は。」
彼が口を開きました。見た目の陰鬱さとは違い、意外にも明るい調子の声です。
「今日は。」
私は返事をしましたが、声は矢張まだ嗄れていました。少し躊躇って、更に声を掛けました。
「貴方はその猫の飼い主なのですか?」
「否、正確に言うなら違いますね。まあ似た様なものではあるのかな。」
「?それはどういう…」
「どうです、こいつは気に入りましたか。」
次ぐ言葉を遮って彼が云います。物怖じしない、というより、初対面にしては随分失礼な物言いに思われるでしょう。後で分かった事ですけれども、彼は人間関係に於ける約束事とか配慮、そういった類いのものが大分欠落している。これでも、彼にしては可成り気を使っている方なのでした。
「気に入ったのなら、こいつを預かって貰えませんか?」
「何故?」
いきなりの提案に戸惑い、問い返しました。
「飼えなくなったのですか。あの、失礼ですが、何か事情でも御有りで?」
「大有りです。気になりますか?」
そうだよな、普通気になるよなぁ、と一頻り何か勝手にぶつぶつと独り言を云ってから、
「まあ、こいつ可愛いから良いじゃないですか。見たところあんたは一人暮らしの侘び住まいのようだし、調度良いから飼いなさい。むさい男の一人暮らしなんて考えただけでも気持ち悪い。生活にも張りが出るってもんです。別に問題ないですよね。」
問題はある。あることはあるのだけれど、元来口下手な私には口すら挟めずに一方的に捲し立てられだけでして、ぐい、と猫を投げる様に押し付けられた時も、唯の一言も云う事が出来ずじまいです。
猫を押し付けると、青年はさっさと歩き出してしまいました。そのまま行ってしまうかと思われた時、振り返ってこう云い放ちました。
「明日にでもまた様子を見に来ますよ。ついでに、そいつの飯でも土産に持って来ます。まあ、それ位はサァビスして差し上げましょう。」
なんともまあ、何処までも傲岸不遜な態度でありました。
「今日は。」
明くる日、彼は宣言通り私の家を訪れました。昨日と同じ麦藁帽を冠り、紺飛白の着物を着て。帽子は家に上がってからも取ろうとはしません。不審に思いつつ、取り合えず客人に茶を入れるようと、その場を立ちました。
暫く場を空け帰ってくると、猫が彼の脚元に寝そべっていました。随分と馴れていて、安心しきった様子です。
「こいつと一晩一緒にいてどんな様子でしたか?」
「いや、中々馴れては呉れませんね。」
前の日に散々引っ掻き傷をこしらえていた僕は、さり気なく見えるよう手の傷を隠して云いましたが、彼は、その仕草を目敏く見つけ、
「ははん、早速引っ掻かれましたねえ。
一晩じゃあ無理でしょう。こいつは僕以外の人間に懐いた事はないし、まあ気長にやって下さい。」
「はあ……」
その返事に、これからの道のりの長さを実感させられ、思わず溜め息がもれてしまいました。
それは兎も角、僕にはひとつ聞きたい事がありました。
「あの、君、この猫の名前は何と云うのですか?」
「名前はありません。」
「まだ付けてなかったのですか?」
「付けてなかったですねえ。うちの家の人はそういう事には無頓着だし。一応はKatzeと呼ばれていたけど。」
「かっつぇ…?どういう意味です。」
「そのまま。独逸語で『猫』という意味です。」
独逸語とはまた思い掛けない言葉です。
「猫もそうだけど…私は君の名前も聞いてないけれど。」
「そうだっけ?ああそうか。僕は井筒です。」
「私は…」
「菊池戀助でしょう。門の所に表札が出てました。」
「ああ、」
一方的に知られるというのはやや不愉快です。
彼は会話をしつつ、始終猫をかまってやっています。思うに、猫を手放したのは彼の本心ではないのでしょう。
「猫好きなんですね。」
「猫、というより生き物全般が好きなんです。」
「こいつを僕に預けるなんて、余程の事があったのですね。」
そう云うと彼は黙り込みこちらをじっと見詰めます。怒らせたかと慌てて、
「いや、詮索する積もりは在りませんよ。訳ありなら云わなくても善いのです。」
そう云うと彼は笑って、
「やっぱりあんたを選んで正解ですよ。」
「選んだ?偶然ではなかったのですか?何故僕なのです。」
「こいつを可愛がって呉れると思ったし、何より」
あんた他人に興味がないでしょう。
彼が云った言葉に、見透かされてる、そんな気持ちになりました。
「そういう人じゃないと困る。」
くすくすと目を細めて笑いました。
機嫌良さそうに帽子を取りました。軽く頭を振り髪を掻き上げると、左頬に火傷の瑕が在るのが目に入りました。
「少しだけ教えてあげましょう。近所の在野の学者の家で助手をしています。それ以上は聞かないで下さい。」
井筒に猫の育て方を教えてもらったけれども、いままで一度も生き物を育てた事のない自分には良く分からず、結局いつも来てくれている身の回りの世話をしている婆やに頼んでみました。
「ああらぁ、可愛い猫ちゃんだ事。」
「その、済まないね。手数を掛けてしまって。」
「いいえ、良いんですよぉ。こんな美人さんのお世話が出来るなんて、光栄じゃあないですか。」
婆やはとても嬉しそうだ。
「でも、戀助様も、お元気になりなさったのですね。」
「何?」
「ずっとお部屋に閉じ籠って全然顔も見ませんでしたから。声を聞くのも暫く振りですよ。」
確かに、ここ暫くは部屋に閉じ籠って本ばかり読んでいて。この婆やは稚い頃からの付き合いで。そんな人にまで心配を懸けて、自分は何をやっていたのだろうと思うと、少しばかり情けなくなりまして。
「その……済まなかったね。」
「なあにを云ってるんですか、水臭いですねえ坊ちゃんは。」
「坊ちゃんは止してくれよ。」
この婆やは未だに私の事を子供扱いするのです。
でも、その日は機嫌が良くて、久し振りに笑いました。
井筒は、度々私の所へ来るようになりました。
「まだ猫の名前考えてないの?困るなあ。読書家なんでしょう、早く何か含蓄深い格好い名前を付け下さいよ。」
「煩いなあ。急ぐ事はないって。」
その頃には井筒の調子にも馴れ、可成り親しくなっていました。元より私も格式張った事は苦手な質です。
「煩いって事はないでしょう、せっかく土産を持って来たのに。」
そう、彼は家に来る度に何か土産を持って来るのです。それは猫のための玩具だったり、珍しい洋書だったり、今日のように手作りの菓子だったりします。
「これはなに。」
「Schwarzwalder Kirsche Torte、『黒い森のお菓子』です。ああ、こらKatze、手を突っ込むなよ。」
彼の作る菓子は確かに美味しく私の楽しみになっていました。
「この前のも美味しかったな、あまり甘くなくて。あの丸くて穴が空いているやつ。あれも何とかくへんだったろう。」
「Baum Kuchenですか?それともPfann Kuchen?」
「さあ、よく分からないなあ。」
「まあいいや。じゃあ、お菓子切り分けますね。本当はこんな暑い日は氷菓子が好いんですけど。買ってくれば良いのに、戀助さんってば気が利かないなあ。」
そう云う位なら井筒君が作れば良いだろう、云う言葉を聴いているのかいないのか。
「君、そんなに暇なのかい?」
「だって、家じゃあ話す人がいないんだから。こいつだって心配だし。」
「分かった、誰もかまって貰えなくて淋しいんだろう。案外、子供なんだな。」
冗談めかして私が云うと、彼はふと黙り込みました。
「……可笑しいですか?」
「え?」
「別に良いけれど。嘲笑われるのは何時もの事だし。」
「いや、そういう意味じゃ……」
「大丈夫。」
なにがだ。
「いや、だからそういう事じゃないよ、嘲笑ってなんかいないよ。」
こんな大事な時に言葉が出てこなくて。
井筒は上目遣いで僕を見ました。なんだか泣きそうに見えて、こっちも泣き出したい気持ちになって来て。
「何であんたが泣くんです。大人がみっともないなあ。」
そう云った彼は何時もの彼に戻っていました。
「お菓子切りましたよ。食べたらどうです。」
私は黙ったまま菓子の入った皿を受け取りました。
それからも井筒は何度も訪れました。その時の違和感は残ったものの、それまでと同じようにお互いに付き合っていました。気が合ったのです。何事もなければ、或いは、未だに友人として付き合っていたに違いありません。しかし真実は、最初に云ったようにたった一夏の間しかなかったのです。
なにがあったか?それは突然やって来ました。
ある日の事。その日は出だしから普段とは異なった始まり方をしました。
「どうしたんだい、何時もの麦藁は冠ってないじゃないか。」
「いえね、何処かにいっちまったみたいで、何処を探しても見付からないんですよ。」
「まあいいや、さ、家に上がって……」
かささぁ、と生け垣の葉群を誰かが鳴らしたのが聴こえました。
そちらに目を向けると、そこには真新しいリボンの他は、まったく見慣れた麦藁帽子を目深にかぶった少年がいました。帽子の下の小作りな顔は包帯でぐるぐる巻きになっており、目も塞がれているらしく、頼り無い足取りで近くまで寄ってきます。
「何でお前がここにいるんだ!」
急に井筒が叫びました。彼の知り合いでしょうか。いつもとは違った様子で、異様な表情を浮かべています。
少年はその声を聞いて、むしろ安心したらしく、こちらに顔を向け、静かに云いました。
「そこに居るんですね、井筒さん。貴方、何をしたのか解っているのですか?早くそれを返して下さい。」
「五月蝿いんだよっ!お前、誰に向かって命令してんだ。
」
「僕が命令しているのではなくて、博士の命令です。
博士、大変お怒りですよ。なにせ、誤って逃がしたと嘘をついて、こんな処に匿ってるんですから。さ、返してくれますね?」
「厭だ。」
私は何の事についての話をしているのかはさっぱり理解出来ませんでしたが辛うじてその少年が井筒の家の者だと云う事は理解りました。
少年は、聞き分けのない子供をあやす様に重ねて語りかけます。
「ねぇ我が儘云わないで下さいよ。どうしようもない事なんですから。」
「……厭だよう…」
井筒は弱々しく頸を振り、
「大体その帽子、僕のじゃないか、泥棒だろ、そんなの。そんな奴に渡せるかい。朝から探してたんだぜ、僕。」
「これ?盗んでませんよ、人聞きの悪い。これは博士が僕に呉れたんです。ほら、見て下さいよ。新しいリボンを付けたんですよ。こっちの方が、ずっと良い。」
嗤って。
「人の物を先に盗ったのは井筒さんでしょう。文句言えないですよね。」
「…盗んだんじゃあ…ないんだよう……」
井筒は俯き小さな声で囁くように云いました。
「だって、こいつは僕の物だろ。」
その視線はKatzeに向けて云いました。
「違いますよ。」
しかし、少年ははっきりと否定しました。
「いいですか、井筒さん。あの場所に、貴方の物なんて、何一つ、ありはしないんです。
さあ、帰りましょう。今なら未だ間に合いますよ、僕からも博士に取り成して上げますから。」
酷く狼狽した様子を見せ、井筒は目を伏せました。
そうして暫くの時が経ちました。
やがて井筒はおもむろに、酷く身体が重いようにゆっくりとした動作で猫へ手を差し伸べ、
「……御出で、Katze。」
呼んだ声に、その猫は尻尾を振って嬉しそうに井筒に抱え上げられました。
「……御免なさい。御免なさい、ごめんなさい。……」
小さな声で呟く声。
「……あいつなんか、大嫌いだ。」
そのまま。
盲目の少年と彼は猫を連れて行ってしまったのです。
その後、一度だけ、たった一度だけです、井筒に遇ったことがあるのです。
「今日は。」
久し振りに逢った井筒は、一層窶れていて痛々しい程です。
「久し振り、正直もう会えないかと……」
「でも最後です。此所に来るのを禁止されましたから。」
酷く淋しく思いました。
「手、出して下さい」
云われた通りに片手を差し出すと、そっとその手に井筒の手が触れてきました。熱く、柔らかな、熱の篭った掌でした。
「これ…差し上げます。」
りん。
手を除けた後にはひとつの鈴。
それは、あの猫の首輪についている鈴。
「貴方が持っていた方が、多分善いんだ。」
小さな鈴は、掌のなかで転がすと涼しいちりちりと鳴りました。
「あの猫はどうなったんだい?」
「聞かないほうが善い。」
「じゃあ、あの少年は何者なんだ。」
「あれですか?」
帽子を冠っていないのでよく分かる、奇妙に歪んだ表情。笑っているよな、怒っているよな。
「あれはねえ、あなた、人じゃあないんですよ。」
「ひと、じゃ、ない?」
「あれはねぇ、愛玩動物なんですよ。造り物。」
顔の歪みはさらに酷くなり、深い皺が刻まれ、顔の瑕が醜く盛り上がり、彼は、まるで老婆のような顔に変わりました。
一瞬のこと。
ふと元の表情に戻ると、さよなら、と一言告げ、さらりと背を向け去っていきました。最初に会った日のように。今度はもう、振り返りません。
彼が去った後、ふっとある本の一節を思いだしました。
……二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠を、一つずつ私の眼蓋にあてがう……
結局できなかったな。とふと思い。
り…ぃん
私は温かいはずの蹠の代わりに、冷たい金属の塊を目蓋に乗せたのです。
「その後私は普通に暮らしました。なにか変わらなかったか、と?別に。人並みにはなりましたが。
ああ、こういう事はありましたね。
或る日町で少年を見掛けました。あの包帯を巻いていた少年です。その時彼の顔には包帯はなく、はっきりと顔が見えました。小作りな端正な顔立ちで、切れ長の大きな眼は、確りと私を捉えていました。始めて見たにも拘らず、その瞳は前に見た記憶が有りました。
既視感?いいえ、そうではありません。
それは、私の好みからすると少しばかり冷淡過ぎる印象で、いっそ禍々しい。けれども、とても綺麗な、
あの猫の眼だったのです。」
まるで怪談の様な話だと、その人が語った話。