第3章 さよならは言わない 7
渋々納得した馬渕と睦美を連れて、俺はグラウンドへと向かった。部活は昼過ぎから始まるので、まだ邪魔にはならない。
馬渕が制服姿のままマウンドに立った。足元に五球ほどボールを置いている。俺もスカートをはいたままバットを持って打席に立つ。睦美はハラハラした様子で、やや離れた位置で見守っている。
「キャッチャーはいらないのかよ」
馬渕の言葉に俺は、
「いらないよ。全部打つから」
さすがにムッとしたようだ。
「なめんなよ!」
と言いながら、大きく振りかぶって俺にボールを投げてきた。お、けっこう速いな。だが。
キィン、という音とともに、ボールはセンター前に飛んだ。野手がいないので、グラウンドの隅まで転がっていく。
当然、俺が打ったのだ。馬渕も睦美も呆然としている。
何球投げても、結果は同じだった。津軽さんのきゃしゃな体なので飛距離はないが、ボールを当てて前に飛ばすくらいのことはできる。
「……もういい」
俺が六球目を打ったところで、馬渕がつぶやいた。ずいぶんへこんでいる様子だ。
「津軽の運動音痴はクラスでも有名なんだ。そんな女子に俺の球を打てるわけがない」
「おお、じゃあ信じてくれるのか」
「仕方ないだろう」
苦々しげな顔をしている。へへへ、プライドを崩しちゃったか。
(悪趣味ですねえ)
頭の中で津軽さんのため息交じりの声が聞こえた。
そうだ、打つのに夢中になってしまっていたが、睦美はどうしたんだろう。そう思って睦美のいた方向を振り向くと、
「お兄ちゃぁぁん!」
睦美が助走をつけてものすごい勢いで抱きついてきた。ついよろめいてしまう。
「お兄ちゃん! 体は冥紗ちゃんでもお兄ちゃんなんだよね!」
「ああ」
「会いたかったっ……!」
そう言ってむせび泣く冥紗の体温を感じながら、俺も泣きそうになっていた。
「あんまりわんわん泣くなよ。子どもじゃないんだから」
「だって……。あ!」
睦美は思い出したように俺から離れると、
「あたし、お兄ちゃんに謝らなきゃいけない……」
暗い顔になった。睦美が何を言いたいかはわかっている。ここで、もう気にするな、とあっさり言ってやることもできる。だけど、それでは睦美のためにならない気がする。
まずは睦美が自分の言葉で、気持ちを整理することが必要だと思うのだ。それをしっかり受けとめてから、俺は俺の気持ちを伝えればいい。俺はまっすぐに睦美を見すえて、口を開くのを待った。
「……あの日のことを謝りたいの。お兄ちゃんが死んだあの日。あたしのドジのせいで、お弁当忘れたせいであんなことになっちゃって……。ごめんなさい、ごめんなさい……」
涙声になっている。
「あたしのせいで死んじゃって、お別れもできずに、あたしのせいで……」
睦美はそれ以上話すことができないようだった。
「睦美、そんな風に全部自分で抱え込んじゃダメだ」
そう言って俺は睦美の頭を軽く叩いた。
「俺だって間抜けだったんだ。気にしなくていいんだよ。それに、睦美はもうじゅうぶん苦しんだ。この二年、ずっと見守ってきたから俺にはわかってるんだよ。睦美は知らなかっただろうけどさ」
「お兄ちゃん……」
「もう罪の意識から解放されていいころだ。この高校を受験して、野球部に入ったのだって俺のためなんだろう?」
「それは……うん」
睦美がちらっと馬渕を見た後で、少し気まずそうな顔をしてうなづく。
「そうだったんだ……」
マウンドを下りてこちらに近づいていた馬渕がつぶやく。
俺は続けて、
「変にこだわらず、自分のやりたいことをやればいい。睦美は睦美の人生を大事にするべきなんだ。俺のことは、たまに思い出してくれるくらいでいいんだ」
「……ありがとう、お兄ちゃん。でもね」
ようやく泣き止んだ睦美が、今度は笑顔で言った。
「今ではあたし、この学校も、野球部も、大好きよ。あたしは、あたしの意志でこれからもマネージャーをやっていく」
明るく、強い気持ちが感じられた。
「そうか。なら、それでいい。馬渕くん」
「なんだよ……じゃなかった、なんですか」
わざわざ敬語に言い直したということは、俺のことを先輩として見てくれているということかな。
「昨日はごめんな。睦美に告白なんてしやがるから、ついカッとなって」
「言い方に悪意を感じますけど、もういいです」
「それと、睦美のことを頼む」
「え……は、はい!」
馬渕が急に元気を出した。調子のいいことで。と、そこで俺は急に強烈なめまいを感じた。
「あれ……?」
(すいません、そろそろ限界が近づいてきているようです)
津軽さんの声が頭の中に響く。
(むっちゃんと話せたことで、先輩のこの世への執着が弱まったからでしょう。先輩の意識が消えかかっています)
「そうか……」
頭を抱えながら、俺は睦美たちに言った。
「悪い、もう時間切れみたいだ」
「ええっ?」
「もっといろいろ話したかったんだけどなあ。そうも言ってられないみたいだ」
「そんな、お兄ちゃん!」
津軽さんの言うとおり、意識が消えかかっているのが自分でもわかる。すごく眠いときの感覚に近い。
俺は気力を振り絞り、
「もう時間がないから言いたいことをいうぞ。睦美、夜更かしはやめなさい。お菓子食べるのも。太るぞ。あと、野球部の男たちはみんなケダモノだから気をつけろ。馬渕だってスケベなことばかり考えてるに違いないんだ」
「最後に何言ってんの!」
「ムードぶち壊しだ!」
睦美と馬渕にそろってつっこまれてしまった。
「それから、睦美」
「なに?」
「津軽さんと、ずっと友達でいてあげてくれ」
「……もちろん」
睦美が笑顔で答えてくれた。だから俺も笑顔で言うのだ。
「じゃ、睦美。また会おう」
「また……会えるのかな」
「会えるさ。うまく説明できないけど、なぜだかそんな気がする」
本当にそんな予感がするのだ。不思議とさびしくはない。
「それじゃ、またな」
「うん……またね、お兄ちゃん」
睦美の返事を聞いてから、俺は津軽さんの体から出た。とたんに、津軽さんがその場に崩れ落ちる。
「ちょっと、大丈夫?」
「大丈夫よ。めまいがしただけ」
睦美たちに体を支えられながら津軽さんが答える。
「ええと、今はもう冥紗ちゃんなのかな」
「ええ。先輩は今、そこで心配そうに私を見てくれてるわ」
そう言う津軽さんの声は苦しそうだった。すまない、俺のせいでこんなに負担をかけて。津軽さんには本当に迷惑をかけっ放しで……。
「いいんですよ。気にしないで下さい。それより、先輩。もう消えかかっています」
ああ、わかってる。津軽さんにもう一度お礼を言っておかないとな。今までありがとう、津軽さん。君に会えて良かった。
「……私は、生きている先輩と会いたかったです。そしたら……」
そしたら、何?
「……なんでもありませんよ、もう! 早く成仏して消えちゃってください!」
ははは、ひどいな。
たぶん、お互いに気持ちは通じ合っている。それが実ることは永遠に無いということもお互い理解している。
だけど、悲しくはないのだ。睦美と同じように、津軽さんともまた会えそうな気がするんだよね。
「私も、なんとなくそんな気がしています」
いつかまた、睦美と三人で会おう。
「ええ」
じゃ、またな。
「……また、会いましょう」
津軽さんの声を聞いたところで、唐突に意識が遠のいていくのがわかった。どうやら完全にこの世への未練がなくなったらしい。
最後に津軽さんたちに笑いかける。と言っても、それが津軽さんにも見えたかどうか。眠るように安らかに、そこで俺の意識は途切れた。
* * *
制服姿の少女が二人、墓地を歩いている。三月上旬、もう少しで桜が咲こうかという時期だ。ある墓の前で、二人は立ち止まった。
「お兄ちゃん、卒業おめでとう」
そう言って睦美はカバンから色紙を取り出し、墓に立てかけた。その場にしゃがみこみ、語りかける。
「一緒に卒業したいからって、三沢先輩と十和田先輩の呼びかけで寄せ書きを書いてもらったんだよ。あの二人、うまくいってるみたいだねえ」
墓に向かって楽しそうに話す睦美を、背後に立つ冥紗は微笑んで見ていた。
彼が消えてから、半年以上が過ぎた。あの時、彼は「また会える気がする」と言っていたが、未だに冥紗の前に現れはしない。
それでも、特にさびしさは感じなかった。半年程度で再会できるとは思っていなかったし、あれから環境が変わって、いろいろ忙しくなったということもある。
何より、今でも彼がそばにいるような気がするのだ。彼が近くにいれば冥紗には見えるはずなのに見えない、というのも変な話なのだが。
「あ、冥紗ちゃん、あのことも報告しなきゃね」
睦美が冥紗のほうを振り向いた。
「弟のこと?」
「そう!」
睦美が嬉しそうに笑った。今年初め、冥紗の父と睦美の母は結婚した。
「あの時はびっくりしたねえ。四〇歳過ぎてできちゃった結婚かよ、と思ったけど」
「私もこの歳で弟ができるとは思わなかったわ」
「冥紗ちゃんとも姉妹になっちゃったし」
「本当、予想外の展開だったわね……」
一目惚れをした睦美の母の猛烈なアタックの末、そういうことになったのだった。今は津軽家の屋敷に四人で暮らしている。
「ま、みんな仲良くやってるからいいんじゃないの。夏には新しい家族も増えるしさ」
「ええ」
冥紗がそう言った瞬間、彼の声が聞こえた気がした。あわてて周囲を見回すが、彼の姿はどこにも見えなかった。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないわ」
睦美にはそう答えたが、恐らく気のせいなどではない。
「その時には会いに行くよ」
彼の声が、確かにそう言ったように聞こえたのだ。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
この話を書きあげたのは確か2008年ごろだったかと思います。懐かしい!
今読み返すと、いろんな作品の影響を受け過ぎだとか、展開を急ぎ過ぎだとか、つっこみどころ満載だ……。
それでも初めてまともに完結させた話なので、思い入れはかなりあります。少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。




