イヴェットは願った
前作『婚約破棄は誰のせい?』の続き物。読んでなければわからない部分もあると思います。
よろしければそちらを先にご覧ください。
感想と誤字報告いつもありがとうございます。励みになります。
「あ………、ちが……ここまで、するつもりじゃ、ちが……。」
手を真っ赤に濡らしながら震えるその姿を、哀れだなぁと思いながら包み込む。
驚いたように、自分とそろいの瞳を揺らす哀れな人に、イヴェットはいつか、と思う。
──いつかこの人が、己を偽らずにいられるようにこの世界自体を変えてあげよう、と。
そう。
「君とは離縁する。」
パチリ、と瞳を瞬かせてイヴェットはゆるく視線を動かした。瞳がかち合った瞬間に狼狽してすぐさま顔をそらす男はイヴェットの夫である。その姿に思わずため息をつくと男はその黄色がかった象牙の肌を赤く染め眦を吊り上げた。
「…!君はいつもそうだ!!いつだって人を見下して…!公務一つ満足にしないでこの離宮に閉じこもっている身でありながらその態度…!我慢をするのも限界だ!」
「お前には………人の心というものがない…!!」
「あら、私の顔を見たら気が滅入ると追い出したのは陛下でしてよ?顔を合わせられなければ公務ができないのは当然ではなくて?」
殊の外、意識してゆったりと微笑んでみせる。その笑顔が癇に障ったのか男は頭を振って勧めてもないのに椅子に座り込んだ。
「限度がある!王妃でありながら何一つその役目を果たさず民の税を貪り怠惰に過ごすなど許されない!おまけに君は嫁いでこの6年子をなさずにいる!閨だけはしているのにもかかわらずだこの淫売め…!」
「自身の欲を持て余して恋人にも愛妾にも相手をされなかったときだけの少ない閨でしてよ?
まぁ…夫婦の義務ですから応えておりましたけれども。淫売とは随分ないい様ですね。あなたと違って私、一途ですのに。」
「黙れ……!その見目も、性格も、声も何もかも私には気色悪くて仕方ないのだ…!早く国へと帰れ!」
酷いことを言う、そう思いながらイヴェットは己の降ろしたままの髪をかき上げた。
故郷では真珠髪と謳われる滑らかな白色のそれと、星の瞬く夜のような青い瞳はイヴェットが自慢できる数少ないものだった。
「まぁ離縁は良いでしょう。」
「…………は……?」
「私もそろそろ国元に帰りたいと思っていましたの。この国の風習も、夫も、食べるものも私には合わないのですもの。何一つ私に寄り添っていただけないこの国にはほとほと愛想が尽きました。」
ゆらりと立ち上がって微笑んでみる。まさかあっさり受け入れられるとは思わなかったらしい夫は身を震わせ後ずさった。
「帰りの支度をいたしますので下がっていただいても?持って帰るものや置いていくものの選別も必要ですし、夫婦でなくなるのですからもう部屋にはいるのも遠慮してくださいますよね?あぁ……そうだあなたの愛妾である私の侍女であったものは置いていきますのでご心配なく。」
「な………?あ……????」
「ほら、陛下のお帰りよ!あぁ、あなた達ももう無理して私の世話をしなくてもいいわ。帰りの支度くらい私一人でもできますもの。」
イヴェットは笑う。心の底から軽やかに。
ようやく帰れる。大切な故郷に、引き離された家族に、イヴェットの一等大切なほうき星に会えるのだから。
「あぁ、そうだ。」
「貴方、お名前は何でしたっけ?」
呆気にとられた顔をして固まる夫だった男の顔が、ほんの少しだけ面白くてコロコロと笑ってしまったのはまぁ、ご愛嬌だと思ってほしい。
──それから、半月、イヴェットは懐かしい場所にいた。
さやさやと木々がざわめき、鳥が歌い、花は香って日がまるで宝石のように煌めく庭園。何一つ変わらない四阿ですっかり大きくなった腹を撫でながらイヴェットは一人目を閉じていた。
やっと帰ってこれたイヴェットの故郷。一等お気に入りの玻璃の小部屋。ここにもう一つ、イヴェットのお気に入りがあれば完璧なのに、そんなことを思って、
「イヴェット、今日は体調はいいのかい?」
さらり、顎先まで切り揃えた真珠の髪に触れられる。来た、そう思って顔をあげるとイヴェットと揃いの髪と瞳を持つ男がそこにいた。
「お兄様…!ええ、今日は天気もいいし、たまには動かないとこの子にも悪いもの。動けるときに動かないといざというとき大変よ。」
「…何ヶ月だっけ?」
「そろそろ八カ月ね。…そんな不安そうなお顔をなさらないで。私も、この子も、元気なのだから。」
へちょり、と音がなりそうなほど情けなく眉を下げて兄が笑う。どこか不安にさせる焦点の合わない青い瞳が淡く瞬いて、顔立ち自体は芙蓉の花を思わせるほど美しいのに、ひどく頼りない。
「そうか……八ヶ月。あと二月で生まれるのだね。」
そのころ私はもう船の上かな。そうつぶやく彼の顔は、どこか安堵しているように見えた。
「もう!またそんなことをおっしゃって…。……せめてこの子の顔をみてからでも遅くはないのではないでしょうか?」
「そういうのは君だけだよイヴェット。この王宮では俺はもう婚約者と父を斬り殺した気狂いなのだからあまり気を許してはいけない。」
そう言って男──イヴェットの兄、アルバートは向かいの椅子に座り込む。
イヴェットとは違う、チョコレートのような肌はどこか異国情緒じみていて周囲の景色からひどく浮いて見えた。
「あら、私の護衛をすべからく気絶させて会いに来てるお兄様がそれを言いますの?」
くすくす、そう笑うと兄は顔をしかめて目をそらす。その姿がまるで子供のようで懐かしく、笑いは止まらなかった。
「最後の挨拶くらいさせてくれない者たちが悪い。…というよりも、あんなにも弱くて君を守れるのか不安だ。」
「まぁ!では気絶した罰としてしごき直してもらいましょう。」
自分もまた子供のようにはしゃいで、さらに声を立てて笑うと兄はまた困ったように首を傾げて身を乗り出しイヴェットの首をなぞる。
「髪、どうして切ったんだい?…きれいだったのに。」
「あちらの国では目立ちますもの。切ったあと染めもしたんです。あちらではよくある黒髪に。…おかげで見つからずに済みましたわ。」
あの日、離縁を切り出された日。イヴェットは夫が出ていった瞬間に髪を切り落とし用意していた髪染めで染め、肌を土で汚し服を引き裂いてから着替えて離宮から脱出した。
ご丁寧に自分を亡き者にしようとしたのだろう、馬車に仕掛けを施している従者たちを尻目に馬を盗んだらあとは簡単。馬で移動するのが当たり前のあの国はとても走りやすく、また人払いをしたため自分がいなくなったことを知らず、追っ手を出すのも遅かった彼らを撒いて砂漠地帯を遮る森まで逃げるのは容易いことだった。
「そう……黒髪の人間が見慣れているのなら今のうちに何人か見繕っておけばあちらの王族を目立たず暗殺できるかもしれないね。」
ふむ、と考え込む兄の手を軽く叩いてイヴェットはその顔を覗き込む。相変わらず目線の合わないそれに口を尖らせながら。
「あら、素敵。でも殺すなら男にしてね。女はもうみんな不妊になっているはずだから放置しても平気よ。」
「…帰る前に、何か混ぜたのかい?」
「いいえ?私、持ち物をほとんど置いていったから…欲深い王家の女と国王の女達はきっと奪い合ったと思うの。…あいつらが盛った薬がたっぷり染み込んだドレスやカップ、宝石のすべてを。」
どうしても私に子どもを産んでほしくなかったみたいだから。そう呟いて腹をなでる。
──夫のことは好きではなかったけれど、この胎にいる生き物は大切なので。
「不確定だね、でも、確信している。」
兄は言う。まるで神に祈る信徒のように。
「『そうなったらいいな』、と私が思ったことでかなわなかったことなどありませんもの。」
イヴェットは言う、その言葉に応える女神のように。
ふっ、と、どこか張り詰めた空気が霧散するのは想像よりも早かった。
「至言だね。──やはり君たちは神に愛されている。」
その言葉にイヴェットは無言ですっかりぬるくなった果実水に口をつける。
甘く、苦く、酸味がつよいそれは『後悔』の味がした。
彼──兄は昔からおかしかった。
何がおかしい、ということをイヴェットはうまく説明できない。イヴェットはただ己の望むものを手に入れることが得意なだけの、それ以外は凡庸な女だったから。
でも、兄がよく懐いていた祖母の兄である公爵は多分兄のことをほんのすこしだけわかっていたのだと思う。
兄は、公爵のおじさんと会うとほんの少しだけ眉を下げるのをやめるから。
「王太子殿下の御心は此処にはないのですよ。」
そう、少しのやっかみで押しかけたまだ8つのイヴェットに嗜めるように公爵は言った。救われているのは己の方だと。
「私はおおよその人の考えていることは見ただけでわかりますが…王太子殿下の御心を読めたことはありません。」
「あの方は、霧の中をさまよう子供が飢えて飢えて、最後に見る救いの夢のようなもの。」
「あの方は……叶うことのない夢の中で生きている。」
「この世に生きておらぬ人の心を、私は読めない。」
「だから、唯一私はあの方と話すときだけ、平穏でいられるのです。」
イヴェットは、よくわからなかった。
でも、兄と話すときだけ平穏でいられるということはわかる気がした。
兄は頼りない。それはもう。でも兄は一度だってイヴェットをうらやむこともなければ疎むこともなかった。
女王である母のように、イヴェットに対して高圧的ではなく、王配である父のように、イヴェットに意地悪することなく、それ以外の人間のようにおもねることもない。
ただ、そこにいて、イヴェットの言葉を黙って聞いて、イヴェットを否定もしなければ不必要に触れることもない。
「イヴェットは、それが嫌だったんだね。」
そう、いつものように合わない視線のまま、困ったように眉を下げている兄のことがイヴェットは結構好きだったのだ。
兄は周囲の人間からあまり尊敬されていなかった。率直に言えば見下されていたと思う。
周囲の誰一人、兄を理解などしていなかった。父も、母も、公爵も、イヴェットも、もしかして、兄自身すら。
兄が初めて人を殺したのはイヴェットが8歳、兄が13の時だった。
雨だった。イヴェットは退屈で仕方なくて、2年後に控えた輿入れのための授業から抜け出して兄に会いに行ったのだ。
兄は一人、寝室でぼうっと宙を眺めていた。
いつも通りだった。兄はいつもどこか遠くを眺めていたから、それだけならいつものことだとイヴェットは駆け寄ることができた。──足元に、メイドが一人血まみれで倒れていたのは、いつもと違っていた。
おにいさま、そう声をかけた瞬間、兄は急に振り返って、空気を切り裂くように息を呑んだ。
でも、はじめてその日イヴェットは兄と目があったのだ。……あって、しまったのだ。
メイドはいなかったことになった。詳しいことは誰一人イヴェットに教えてくれなかったけれど、閨教育を受けていたからなんとなく想像がつく。
兄の身はひどく荒れていて、メイドの服もはだけていた。そして、メイドは兄に恋焦がれていたことをイヴェットは知っていた。……つまり、そういうことだったのだろう。
イヴェットにとっての問題はただ一つ、兄が、女性のことをその日から怖がるようになってしまったということ、それだけだった。
合わない視線がさらに合わなくなった。母や自分すら、近づくと震えるようになった。そして、
なにより兄は、人を殺すことを覚えてしまった。人殺しという行為に、とらわれてしまった。
──求めていたことの答えを、知ってしまったのだ。
「お兄様。」
ふと、視線が浮く。兄の変わらない茫洋とした眼差しは今やどこかひどく熱を帯び、抑えられないほどの狂気の光がチラチラと瞬いている。
「わたし、がんばりましたの。………本当にがんばりましたの。」
いつか兄を自由にする。それがイヴェットの生きる目的になっていた。
輿入れした先の男が凡庸であることを利用して、野心深い自身の侍女に一言二言失言して嫌われて夫の愛妾になるように誘導して。
イヴェットは運がいいけれど、それは別に不思議なことでもなんでもない。
だって、イヴェットにとって『自分に都合のいいように』場を整えることは息をするようにできてしまうことだから、結果としてイヴェットの望むことが叶ってしまうと言うだけのこと。
月のものがひどく不安定で、止まりやすい女は子を孕みにくいことをイヴェットは知っていた。だから、侍女にしたその女にさらに月のものを止める薬を飲ませて愛妾にした。
夫が子を欲しがっていたことを知っていたから、恋人を作るのをとめなかった。──愛妾が毒を盛るのを知ってて止めなかった。
愛されない后を見に来る恋人達をもてなした。子宮に悪い青いお茶に柑橘を入れて振る舞って、その茶葉で作った菓子を土産に渡した。
夫が嫌悪をこらえながらも閨に来るのを利用した。自分が子を孕みやすい時に来るように調整するのは苦労したけれど、それでも来るのをやめないのはわかっていたから。
愛妾や恋人が盛る毒はわざと零したり、あちらが用意した侍女に分け与えた。食事にはこだわりがあるとうそぶいて、口に運ぶものは全て己で確認した。
信頼する医師や薬師の家族を保護し、彼らだけをあちらに残した。
他にも色々やったけれど、イヴェットは子を孕んでここにいる。イヴェットとは入れ替わりにあちらの国には今頃宣戦布告の使者がついていることだろう。
どこまでも予想通り。予想通りでないことなんて今まで生きてて一つもなくて、……だからこそ、
「……わたし……お兄様を自由にしてあげたかったの……。」
兄を傷つけることだけは、予想外だった。
「……イヴェット。」
兄の声はいつも、その茫洋とした眼差しとは正反対に苛烈で、夏の日差しのように厳しかった。
でも、このときは一等強く、熱く、肌がひりつくような圧で満ちていた。
「俺は、お前を許さないよ。」
「………俺は、ずっとずっと……死ぬまで……どれほど苦しくとも人間で居たかったんだ。」
「俺を、英雄になんてしようとしたお前のその行為を俺は死ぬまで、いや死んでも恨み憎み続ける。」
「……そのことをずっと覚えていなさい。」
「お前がしたことは、無辜の民を犠牲にしただけのただの自己満足だ。」
その言葉にイヴェットは一つ頷いて、それを見て兄はようやく安堵したかのように微笑んで席を立った。
──残されたイヴェットは果実水を机に置き、ぼんやりと空をみる。
きっと兄は戻らないだろう。二度と、イヴェットの前に姿を現すことはないのだろう。そんな事を考える。
イヴェットは、イヴェットは──ただ、兄に英雄になってほしかった。兄を馬鹿にして軽んじるすべてを蹴散らしてほしかった。
本当の兄は、自分たちがおよびもつかないほど高潔で美しく、苛烈で自由な人なのに、それを隠して周りの人に必死に合わしてくれていただけなのだから。だから、兄がそんなことしなくてもよいようにしてあげたかったのだ。
兄の心を置き去りして、自分のそんな浅ましい願いを優先させた結果がこれなのだとイヴェットはもう理解している。
『お前には………人の心というものがない…!!!!!』
今更すぎる元夫の声が脳に響いて、思わずくっと口端を上げる。彼は正しかった。真に疎まれるべきは自分であったのにと、そんな後悔が寄せては消えじわじわと脳髄に染み込んでいく。
ならば、せめて善き王にならなくてはいけない。
兄の心を踏みにじり、いらぬ戦火を大地にくべたその罪を贖うほどに、偉大な女王に。
人間の運命とか人生とか、そういう大切なものをいじくり回したことを後悔はしていないけれど、それでも罪だと思うから。
───これからもきっとイヴェットは、国を守るためにこれまでと同じことをし続けるのだから。
イヴェットは知っている。
イヴェットが望んだことで叶わないことなどないことを。
イヴェットは知っている。
イヴェットが望まないことは、どうあってもかなわないということを。
イヴェットはわかっている。
ここまできてもなお、後悔は兄を傷つけたことにたいしてだけという己の残酷さを。
──イヴェットは、わかっている。
そんなイヴェットを、兄は本当に嫌いだということを。
──イヴェットは思う。
それでも、いつか地獄でまた兄と笑いあえたらいいと、そう。
イヴェットは心の底から願っている。
イヴェット…夢見るようにお姫様。残酷で冷酷で、甘えたがりで王子様に幸せになってほしかった女の子。
世界を手のひらで転がせるだけの器量と運の強さを持って生まれてしまったから王子様を自由に突き落としてしまった。
帝国の母と呼ばれる偉大な王になるが同時に傾国の魔女と呼ばれ疎まれることになる。
公爵…イヴェットの同類。『王子様』に幸せになってほしかったからイヴェットの思惑に乗ってしまった。人の心は読めるけど理解はできない。王子様の心は読めすらできない。本当は王子様と一緒に海にいきたかったけどイヴェットの側で支え続けた。
王子様…一生許さない、死んでも許さない。でも不幸になってほしいとはおもわない。自由になった。




