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第八章 雨があがる

 目を開けた時、雨は降っていなかった。

 同じ交差点だった。

 街灯が一本、信号機が一本。

 しかし空気が違った。

 車の音が違った。

 遠くにコンビニの明かりが見えた。

 路面の舗装が、現代の質感をしていた。

 渉は現在に戻っていた。


 しばらく、交差点の中央に立ったまま動けなかった。

 身体はここにあった。

 しかし意識の一部が、まだあの時代に残っているような感覚があった。

 澄子の声がまだ耳の奥にあった。

 一郎の横顔がまだ目の裏にあった。

 川沿いの水音がまだ胸の底にあった。

 渉はゆっくりと、一度だけ深く息を吸った。


 十二月の夜の空気だった。

 冷たく、澄んでいた。

 この空気を、渉は知っていた。

 しかし今夜の冷たさは、以前とは少し違う重さを持っていた。

 信号が変わった。青になった。

 渉は交差点を渡った。

 事故が起きた場所を、自分の足で踏んで、渡った。

 足が重くなることはなかった。

 ただ、一歩ずつ、確かめるように渡った。

 向こう岸に着いた時、渉は振り返らなかった。

 前を向いたまま、歩き始めた。


 

 叔母の家に着いたのは、夜の九時を過ぎたころだった。

 玄関のチャイムを押すと、しばらくして叔母が出てきた。

 渉の顔を見て、一瞬だけ目を細めた。

 濡れたコート、乱れた髪、それでも何か変わったものを感じたのか、叔母は「上がって」とだけ言った。


 台所でお茶を淹れてもらいながら、渉は仏壇の部屋へ向かった。

 叔母は何も言わずについてきた。

 仏壇の前に座った。

 二枚の遺影が、そこにあった。

 小さく、古い写真。

 父の写真は少し色褪せていて、母の写真は父より少し鮮明だった。

 渉はいつもこの写真を、像を結ばないまま見てきた。

 顔はわかっても、それが生きた人間と繋がらなかった。


 今夜は違った。

 父の写真の中に、一郎がいた。

 不器用な笑い方をする、誠実な男がいた。

 川沿いで黙って並んで立つ、あの背中があった。

 まあ、そういうもんだろ、と言う声があった。

 母の写真の中に、澄子がいた。

 目から先に笑う人がいた。

 子守唄を作った人がいた。

 傷跡に触れた手があった。

 もっと知りたかったな、と過去形で言った声があった。

 写真の中の二人が、初めて生きた人間の顔になった。


 渉は長い間、その顔を見ていた。

 泣くつもりはなかった。

 しかし涙があふれ出た。

 声は出なかった。

 ただ静かに、止めることなく出た。


 叔母が渉の隣に座った。

 何も言わなかった。

 ただ、そこにいた。

 渉はしばらく泣いた。

 三十八年分とは言わない。

 ただ、出るだけ出た。

 出終わった時、胸の中にあったものが、少し軽くなっていた。

 軽くなった分だけ、何か別のものが入ってきた気がした。

 温かい、静かなもの。

 渉は写真に向かって、声に出さずに言った。

 会えてよかった。


 叔母に礼を言って、渉は叔母の家を出た。

 駅に向かいながら、渉はスマートフォンを取り出した。

 美咲の名前があった。

 最後に電話したのは、帰省する前の日だった。

 あの日から、いくつもの時間が経った気がした。

 実際には数日だったかもしれない。

 しかし渉の中では、もっとずっと長い時間が流れた気がしていた。


 駅のホームに立って、東京行きの電車を待ちながら、渉は美咲のことを考えた。

 美咲の笑い方を思い浮かべた。

 その瞬間、渉の胸に何かが引っかかった。

 笑い方。

 目から先に笑う、あの笑い方。

 渉はいつも好きだったその笑い方を、今夜は違う角度から見ていた。

 どこかで見た笑い方だという感覚が、ゆっくりと輪郭を持ち始めた。

 渉は記憶を辿った。

 澄子の笑い方。

 声の温度。

 話す時の間の取り方。

 渉のそばにいる時の、あの自然な安心感。


 一つずつ確かめながら、渉は静かに息を呑んだ。

 美咲と、重なった。

 笑い方だけではなかった。

 声の質、間の取り方、渉のそばで自然に落ち着いていること、渉が黙っていても待てること。

 そして渉が美咲のそばにいる時に感じてきた、説明のできない安心感。


 渉は三年間、その安心感の正体を考えたことがなかった。

 考えようとして、いつも手前で止まっていた。

 しかし今夜は止まらなかった。

 美咲は、澄子だ。


 証明はできない。

 論理でもない。

 しかし渉には、わかった。

 形を変えて、時間を超えて、また渉のそばに来た。

 それが美咲だった。


 渉は夜のホームに立ったまま、しばらく動かなかった。

 目が、熱くなった。

 泣くとは思っていなかった。

 しかし身体は正直だった。

 渉は手の甲で目元を押さえた。

 ホームに他の客が数人いたが、渉はもう気にしなかった。


 電車が来た。渉は乗った。

 窓の外を流れていく夜の景色を見ながら、渉はスマートフォンをまた取り出した。

 美咲の名前を見た。

 少しの間、画面を見ていた。

 それから電話をかけた。


 呼び出し音が二回鳴って、美咲が出た。

「あ、渉。どうしたの、急に」

 明るい声だった。

 渉はその声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに溶けた。

「今、帰ってる」と渉は言った。

「うん、知ってる。明日帰るって言ってたじゃない」

「そうじゃなくて」

 美咲が少し黙った。

「そうじゃなくて?」

「会いたい。今夜、会えるか」


 美咲がまた黙った。

 今度の沈黙は、最初のものと質が違った。

 何かを受け取っている沈黙だった。

「……うん」と美咲は言った。

 短く、しかし確かに。

「ありがとう」と渉は言った。

 美咲が小さく笑った。

「なんのお礼?」

 渉は答えなかった。

 窓の外に目を向けたまま、ただ微笑んでいた。

「渉、なんか」と美咲が言いかけた。

「なんか、なんですか」

「声が、違う」

「違いますか」

「うん。なんか、遠くから帰ってきた人みたいな声」

 渉は少し笑った。

「遠くから帰ってきたんです。想像できないくらい遠くから」

 美咲が「またそういうこと言う」と笑った。

 その笑い方が、澄子と同じだった。

 目から先に笑う、あの笑い方が、声の中にあった。


 渉はその笑い方を、受け取った。

 今夜は、ちゃんと受け取った。

「着いたら連絡する」と渉は言った。

「うん。待ってる」

 電話が切れた。


 渉はスマートフォンを膝の上に置いた。

 窓の外を見た。夜の景色が流れていた。

 街の灯りが、川の上を渡る時に水面に反射して、揺れた。

 その光の揺れ方が、あの時代の川沿いと同じだった。

 渉はその光を、ただ見ていた。


 東京に着いたのは、夜の十一時を少し回ったころだった。

 美咲が待っていたのは、渉のアパートの前だった。

 コートの前を合わせて、ポケットに両手を入れて、少し寒そうに立っていた。

 渉が近づいてくるのを見て、表情が少し変わった。

 嬉しそうでもあり、少し戸惑っているようでもあった。


「遅かったね」と美咲は言った。

「待たせた」と渉は言った。

「すまなかった。今夜だけじゃなくて、ずっと」

 美咲が少し目を見開いた。

「ずっと、って」

「三年間」と渉は言った。

「答えを出せないままでいた。それが申し訳なかった」

 美咲は何も言わなかった。

 渉の顔を見ていた。

 渉は美咲の顔を、まじまじと見た。


 目から先に笑う人だ。

 声の温度が柔らかい人だ。

 渉のそばで自然に落ち着ける人だ。

 渉が黙っていても待てる人だ。

 渉がうまく言葉にできない時、言葉にならなくていいと言える人だ。


 渉はずっと、この人のそばが安心する理由を知らなかった。

 しかし今は知っている。

 知った上で、この人のそばにいたいと思っている。

 それは以前より、ずっと確かな気持ちだった。


「結婚しよう」と渉は言った。

 美咲が、止まった。

 一秒、二秒、三秒。

「……え?」

「結婚してほしい」渉は繰り返した。

「うまく説明できないけれど、今夜、はっきりわかった。あなたのそばにいたい。あなたと、家族になりたい」

 美咲はしばらく渉の顔を見ていた。

 何かを確かめるように、じっと見ていた。

 それから「どうしたの急に」と言った。

 声が、少し震えていた。


「急じゃないです」と渉は言った。

「ずっと、ここにあった。ただ、気づくのに時間がかかっただけで」

 美咲の目が、潤んだ。

 それをごまかすように、美咲は空を見上げた。

 渉も同じ方向を見た。星が出ていた。

 冬の夜の、鋭い星だった。

「泣くつもりじゃなかったのに」と美咲は言った。

「すみません」と渉は言った。

「謝らないでよ」美咲はまだ空を見たまま言った。

 それから渉の方に顔を向けた。

 目が潤んでいたが、笑っていた。

 目から先に笑う、あの笑い方で。

「……うん」

 渉はその笑い方を見た。

 澄子の笑い方と、同じだった。

 渉の胸の奥で、何かが静かに完成した。

 痛みではなかった。

 悲しみでもなかった。

 長い旅を終えた者の、静かな安堵だった。


 二人は並んでアパートの前に立っていた。

 美咲がコートのポケットから手を出して、渉の手に触れた。

 渉はその手を握った。


 冷たい手だった。ずっと外で待っていたのだ。

 渉は両手で包んだ。温めるように。

「冷たい」と渉は言った。

「待ってたから」と美咲は言った。

 それだけだった。それだけで、十分だった。


 風が少し吹いた。

 美咲の髪が揺れた。

 その揺れ方を、渉は目に焼き付けた。

 空を見上げると、星が動かずにあった。

 この星を、三十八年前の父も見たはずだ。

 この星を、三十八年前の母も見たはずだ。

 星は変わらない。

 ただそこにある。

 時代が変わっても、人が生まれ死んでも、星はただそこにある。

 渉は美咲の手を握ったまま、星を見ていた。


 澄子のことを、思った。

 一郎のことを、思った。

 珈琲ことぶきのコーヒーの苦さを、思った。

 川沿いの水音を、思った。

 雨の中で重なり合った二つの傘を、思った。


 それらは遠くなっていくのではなく、渉の中に静かに沈んでいた。

 沈んで、根になった。

 渉という人間の、根の一部になった。


 美咲が渉の肩に、そっと頭を預けた。

 渉はそのままでいた。

 動かなかった。

 ただ、そこにいた。

 夜の空気が冷たかった。

 しかし渉の胸の中は、温かかった。


 雨は、もうとっくに上がっていた。

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