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第七章 知っていた愛

 雨は夜通し降り続けた。

 渉はキヨの家に戻らなかった。


 交差点に向かいかけた足が、途中で止まった。

 まだだ、という感覚が、身体の奥から来た。

 帰れる。

 帰れる気がする。

 しかし今夜ではない。

 もう少しだけ、この時代にいなければならない何かが、残っている。

 渉は濡れたまま、町を歩いた。


 深夜の商店街はすべてのシャッターが下りていた。

 街灯だけが雨の中に光っていた。

 渉は軒先に入って雨宿りをしながら、自分がまだここにいる理由を考えた。

 澄子に別れを告げた。

 一郎に澄子を頼んだ。

 それで終わりのはずだった。

 しかし終わらなかった。


 渉には、まだ知らないことがあった。

 父と母が、渉のことをどう思っていたか。

 三歳で失った両親の記憶は、渉の中でずっと空白だった。

 愛されていたはずだ、とは思っていた。

 しかしそれは想像に過ぎなかった。

 証拠がなかった。

 声がなかった。

 言葉がなかった。

 渉はその空白を抱えたまま、三十八年を生きてきた。

 それを、知りたかった。

 ただそれだけのために、渉はこの時代に来たのかもしれなかった。


 翌朝、雨が上がった。

 空が白く澄んでいた。

 冬の朝特有の、冷たく透明な光が町に満ちていた。

 渉は近くの公衆電話の脇で夜を明かして、夜明けとともに歩き始めた。

 濡れたコートが重かった。

 しかし身体は不思議と疲れていなかった。


 午前中、渉は町をゆっくりと歩いた。

 この町のすべてが、今日は少し違って見えた。

 街灯の形、商店の看板、川沿いの道の曲がり方。

 渉はそれらを、目に焼き付けるようにして見た。

 この景色を、もう見ることはないかもしれない。

 この空気を、もう吸うことはないかもしれない。


 昼過ぎになって、渉は珈琲ことぶきの近くまで来た。

 中に入るつもりはなかった。

 ただ、その前を通った。

 ドアの上の庇を見た。

 最初の夜、雨宿りをした場所。

 澄子が渉に声をかけた場所。

 渉はその庇の下に少し立って、それから歩き始めた。


 澄子の声が聞こえたのは、その午後のことだった。

 珈琲ことぶきから少し離れた、町の古い路地に面した家の縁側から、声がした。

 澄子の声だった。渉は足を止めた。

 塀の向こうから、もう一人の声が聞こえた。

 年上の女性の声だった。


 渉は塀のそばに立った。中には入れなかった。

 しかし声は聞こえた。

 澄子の声は、いつもより少し柔らかかった。

「あの人、もうすぐいなくなるみたいなの」と澄子が言った。

 渉は息を止めた。

「いなくなる?」と年上の女性が聞いた。

「ええ。遠くに帰るって。どこだかわからないけど」

 澄子の声が続いた。

「変な人なんだけど、なんか、放っておけなかった。最初に会った時からずっと」

「好きだったの?」

 澄子はしばらく黙った。

「好き、とはちょっと違うのかな。なんていうか——もし私に子どもが生まれたら、ああいう人になってほしいなって思ってた」


 渉は塀に手をついた。

「子どもみたいに、ってこと?」

「そういうわけじゃないんだけど」澄子は少し笑った。

「うまく言えないな。ただ、そう思ったの。なんでかわからないけど、最初に顔を見た時から。この人には、長く幸せでいてほしいって。ちゃんと生きていてほしいって」


 渉は目を閉じた。

 澄子は知らない。

 渉が自分の息子だということを、欠片も知らない。

 それでも澄子の中に、何かが届いていた。

 言葉にならない形で、血の記憶のような形で。


「一郎くんのこともあるし、いろいろ複雑ね」と年上の女性が言った。

「そうね」と澄子は言った。

 少し間があった。

「でも、一郎のことは、ちゃんと向き合おうと思ってる。昨日、手を握られて——なんか、やっとわかった気がして」

「何が?」

「あの人は、ずっとそこにいたんだって」

 澄子の声が、少し温かくなった。

「私が気づいてないだけで、ずっとそこにいた。それがわかったら、なんかほっとした」


 渉は塀から手を離した。目を開けた。

 空が高かった。

 雨上がりの、澄んだ青だった。

 澄子は一郎を選ぶ。

 それが渉にはわかった。

 一郎の不器用な手が、昨夜澄子の手を握った。

 その一つの動作が、長い時間をかけた愛の証明だった。

 渉がいなくなった後も、一郎はそこにいる。

 ずっとそこにいる。

 渉は静かに路地を離れた。

 澄子には気づかれなかった。


 夕方になって、渉は一郎と偶然に行き合った。

 工場からの帰り道だったのか、一郎は作業着のまま川沿いを歩いていた。

 渉を見て、少し足を止めた。

「まだいたのか」と一郎は言った。

 驚いた様子ではなかった。

「もう少しだけ」と渉は言った。

 一郎は頷いて、また歩き始めた。

 渉も並んで歩いた。

 特に示し合わせたわけではなかった。

 ただ、自然にそうなった。


 川沿いを二人で歩いた。

 言葉は少なかった。

 一郎は川を見ながら歩いた。

 渉も川を見ながら歩いた。


 やがて一郎がぽつりと言った。

「子どもができたら、一緒に釣りもしたい」

 渉は一郎を見た。

 一郎は川を見たまま、少し照れたように続けた。

「野球の話をしたら、澄子に笑われてな。釣りなら一緒にできるかもしれないって言ったら、それもいいねって言われた」

「澄子さんと、話したんですか」

「ああ。昨夜」一郎は少し間を置いた。

「ちゃんと話した。初めてかもしれない、ちゃんと」

 渉は「そうですか」と言った。それだけで、十分だった。


 一郎が続けた。

「子どもには、釣りを教えたい。あとは——」

 一郎は少し考えた。

「黙って並んで、同じものを見る時間の良さを、教えたい。言葉がなくても、一緒にいられるということを」


 渉は川を見た。

 水が光っていた。

 夕暮れの光が、水面を金色に染めていた。

 今、自分は一郎と並んで、川を見ている。

 黙って、同じものを見ている。


「いい父親になりますよ」と渉は言った。

 一郎が渉を見た。

 不思議そうな顔だった。

 それから少し笑った。

 一郎が笑うのを、渉は初めて見た気がした。

 不器用な笑い方だったが、温かかった。


「なんでそんなことわかる」と一郎は言った。

「わかります」と渉は言った。

「信じてください」

 一郎は「また、その言葉か」と言って、川に目を戻した。

「まあ、そういうもんだろ」


 渉は一郎の横顔を、最後にもう一度だけ見た。

 不器用で、言葉が少なくて、それでも誠実なこの男の顔を。

 黙って並んでいる時間の良さを教えたいと言った、この男の顔を。

 渉は前を向いた。

 川が、静かに流れていた。


 夜になって、渉は最後の時間が来たことを感じた。

 身体の奥から来る感覚だった。

 街の輪郭が、昨日よりさらに薄くなっている気がした。

 音が、もう少し遠かった。

 街灯の光が、わずかに滲んで見えた。


 渉は川沿いの道に戻った。

 そこに、澄子と一郎がいた。

 二人は並んで川を見ていた。

 渉には気づいていなかった。

 一郎が澄子に何か言った。

 澄子が笑った。

 一郎がまた何か言った。

 澄子が一郎の腕に軽く触れた。

 その動作が、ごく自然だった。


 渉は少し離れた場所で、その二人を見ていた。

 声は聞こえなかった。

 何を話しているのか、わからなかった。

 しかし渉には、わかることがあった。


 二人が笑っていた。

 自分が生まれる前の、父と母が笑っていた。

 渉の知らなかった二人の時間が、確かにここにあった。

 この二人は、笑える人たちだった。

 この二人は、愛せる人たちだった。

 渉を産む前から、愛することを知っていた。


 渉はずっと、父母の記憶がないことを空白と呼んでいた。

 自分の中心にある、どうすることもできない空白。

 しかし今、渉にはわかった。

 空白だったのではない。


 渉が来る前から、愛はここにあった。

 二人はちゃんと生きていた。

 笑っていた。渉を知らないまま、渉を待っていた。

 その愛が、渉の中にある。

 最初から、ずっとある。

 記憶がなくても、顔を知らなくても、声を覚えていなくても、その愛は渉の中に届いていた。

 渉がここまで生きてきたことの、どこかに溶け込んでいた。

 渉は目を閉じた。

 涙が出た。

 声は出なかった。

 ただ、静かに泣いた。


 渉が立ち去ろうとした時、澄子が振り返った。

 偶然だった。澄子が何かの気配を感じたのか、川と反対の方向に顔を向けた。

 そして、遠くに立っている渉に気づいた。

 澄子が手を振った。

 小さく、しかし確かに。

 渉も手を振った。


 澄子がその場から駆けてきた。

 コートを揺らしながら、息を切らして渉のそばまで来た。

 一郎が少し後ろで待っていた。

「また会えるよね」と澄子は言った。

 息を整えながら。

 渉は答えなかった。

 澄子の顔を、最後にもう一度だけ見た。

 子守唄を作った人。

 傷跡に触れた手の持ち主。

 もっと知りたかったな、と過去形で言った人。


「……ありがとうございました」と渉は言った。

「なんのお礼?」と澄子は笑った。

「いろいろ」

 澄子はしばらく渉の顔を見ていた。

 何かを言おうとして、やめた。

 それから「こちらこそ」と静かに言った。


 その言葉の意味を、澄子自身はわかっていなかった。

 しかし渉には届いた。

 ありがとう。

 生んでくれて。

 育てようとしてくれて。

 あの短い時間に、ちゃんといてくれて。


 渉は声に出さなかった。

 声にする必要はなかった。

 澄子には届かない言葉だった。

 しかし渉の中で、その言葉は確かに存在した。


「元気でね」と澄子は言った。

 その目が、少し潤んでいた。

「はい」と渉は言った。

「お二人とも、元気で」

 澄子が少し首を傾けた。

 お二人とも、という言葉の意味を、測るような顔をした。

 しかし何も言わなかった。


 渉は澄子に背を向けた。一歩、踏み出した。

 振り返らなかった。

 振り返ったら、動けなくなる気がした。

 それだけではなかった。

 振り返らなくても、二人の顔は渉の胸の中にあった。

 それで十分だった。


 交差点へ向かう道を、渉は歩いた。

 雨はもう降っていなかった。

 路面は乾きかけていた。

 しかし街灯の光が路面に反射している場所があって、渉はその光を踏みながら歩いた。

 この町に来て、何日経ったのか、渉は数えなかった。

 数える必要がなかった。

 長くもあり、短くもあった。

 しかし確かに、ここで生きた時間だった。


 澄子と並んでコーヒーを飲んだ。

 川沿いを歩いた。

 本の話をした。

 子守唄を聞いた。

 傷跡に触れられた。

 キスをした。

 それでも手放した。

 一郎と川を見た。

 弁当を食べながら話した。

 口癖を聞いた。

 笑顔を見た。

 父だと知りながら、一度も父と呼ばなかった。


 しかし渉の中に、それらは全部、ある。

 空白が、満たされた。

 三十八年間の欠落が、消えたわけではなかった。 

 しかしその欠落の中身が変わった。

 何もなかった場所に、今は何かがある。

 父母の顔を知っている。

 声を知っている。

 笑い方を知っている。

 それだけでいい。

 それだけで、もう十分だった。


 商店街を抜けた。突き当たりを左に曲がった。

 交差点が、見えてきた。

 街灯が一本、信号機が一本。

 周囲に古い家が数軒。

 小さな交差点だった。

 この時代では、まだ何も起きていない場所だった。

 三年後に、父と母がここで死ぬ。

 渉が三歳の時に。雨の夜に。


 渉はその事実を、今は違う形で受け取っていた。

 二人は死んだ。

 しかしその前に、笑っていた。

 愛していた。

 渉を待っていた。

 それを渉は今、知っている。

 知った上で、現在へ戻る。


 交差点の中央に立った。

 街灯の光が、乾いた路面に静かに落ちていた。

 風はなかった。町の音が、遠かった。

 渉は目を閉じた。

 暗闇の中に、澄子の顔があった。

 一郎の顔があった。

 笑っている二人の後ろ姿があった。

 雨の中で重なり合った二つの傘があった。

 それから、もっと遠い記憶があった。

 映像ではない。

 温度だった。

 温かい腕の中にいた感触。

 頬に当たる息の温かさ。

 誰かが歌っていた、あの子守唄。


 渉はその温度の中に、しばらくいた。

 やがて、身体が軽くなった。

 世界が、静かになった。

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