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第六章 譲る、という愛

 夜が明ける前に、渉は目が覚めた。


 布団の中で天井を見ていた。

 キヨの家は静かだった。

 庭の木が風に揺れる音だけが、薄い壁を通して聞こえてきた。

 

 昨夜、珈琲ことぶきで澄子に言った言葉が、まだ胸の中にあった。

 あなたには、私じゃない人が必要だと思っています。

 口にしてしまった言葉は、もう取り消せなかった。

 そしてその言葉を口にした瞬間から、渉の中で何かが動き始めていた。

 止められない場所へ、静かに、しかし確実に。

 

 今日、一郎に会わなければならない。

 そう思った時、渉の胸は妙に静かだった。

 恐れがないわけではなかった。

 しかし昨夜まで渉を縛っていた躊躇が、夜の間に少し形を変えていた。

 決意、と呼べるほど確かなものではなかった。

 ただ、行かなければならないという感覚が、迷いより少しだけ重くなっていた。

 

 渉は布団を出た。

 縁側に座って、夜明け前の庭を見た。

 霜が白かった。

 東の空が、ごくわずかに明るみを帯び始めていた。

 

 渉は自分の左手首を見た。

 傷跡が、薄く白かった。

 澄子の指が触れた場所。

 ちゃんと治ってよかった、と澄子は言った。

 

 治った傷は、渉の身体に残っていた。

 澄子が触れたことも、渉の身体に残っていた。

 それは消えない。

 消えなくていい。

 しかしそれを持ったまま、渉は進まなければならなかった。

 夜が、少しずつ明けていった。


 一郎を探したのは、昼過ぎのことだった。

 澄子から聞いていた一郎の職場——町の外れにある小さな工場——へ向かった。

 昼休みの時間を狙った。

 工場の前の空き地で、渉は一郎が出てくるのを待った。

 

 十五分ほどして、一郎が出てきた。

 作業着を着ていた。

 渉に気づいて、少し足を止めた。

 それから「何しに来た」と言った。

 声は穏やかだった。

「話があります」と渉は言った。

 一郎はしばらく渉を見た。

 それから「昼飯、食ったか」と聞いた。

 渉が「まだです」と言うと、「こっちだ」と言って歩き始めた。

 

 工場の裏手に、川の見える小さな広場があった。

 ベンチが一つ、木が一本。

 冬枯れの静かな場所だった。

 一郎はベンチに座って、弁当箱を開いた。

 渉はその隣に座った。

 

 一郎が箸を動かした。

 渉は膝の上で手を組んだ。

 しばらく黙っていた。

 川の水音が聞こえた。


 「言いたいことがあるなら、言えばいい」と一郎が言った。

 弁当を食べながら、川を見て。

 「俺は食いながら聞く」

 

 渉は、その横顔を一度だけ見た。

 それから川の方に目を向けて、口を開いた。

「澄子さんのことが、好きです」

 一郎の箸が止まった。

「でも、あなたの方が澄子さんに必要だと思う」渉は続けた。

「私がここにいることで、二人の間に余計なものが入っている。それをわかっていて、ここにいた。申し訳なかったと思っています」


 一郎はしばらく黙っていた。

 弁当箱を膝の上に置いたまま、川を見ていた。


「なぜそんなことが言える」と一郎は言った。

 静かな声だった。

 責めているのではなく、本当に聞いていた。

「澄子のことが好きで、なぜ身を引く」


 渉は答えに詰まった。

 本当のことは言えなかった。

 あなたたちの息子だから、とは言えなかった。

 

 渉はしばらく考えてから、「信じてください」とだけ言った。

「うまく説明できないけれど、あなたが澄子さんのそばにいるべきだということが、私にはわかる。それだけです」


 一郎はその言葉を聞いて、長い間黙っていた。

 川の流れを見ていた。

 風が吹いて、枯れ草が揺れた。


「……俺には、わからん」一郎はやがて言った。

「あんたが何を考えてるのか。どこから来て、何のためにここにいるのか。澄子のことをそこまで思いながら、なぜ引くのか」

 渉は「わからなくていいです」と言った。

「それでも、信じろというのか」

「はい」


 一郎はまた黙った。

 今度はもっと長い沈黙だった。

 やがて一郎が弁当箱を閉じた。

 箸を置いた。川を見たまま、低い声で言った。

「……まあ、そういうもんだろ」

 

 その口癖を聞いた瞬間、渉は視線を川に落とした。

 目が熱くなった。

 一郎はそれに気づかなかった。

 あるいは、気づいていて、見ないふりをした。

 

 二人はしばらく並んで川を見ていた。

 何も言わなかった。

 しかしその沈黙の中に、何かが渡った気がした。

 言葉にならない何かが、渉から一郎へ、あるいは一郎から渉へ、静かに渡っていった。


 一郎が立ち上がった。

「仕事に戻る」と言った。

 渉も立ち上がった。

 一郎が工場の方へ歩きかけて、立ち止まった。

 振り返らずに言った。

「澄子のこと、俺に任せろ」

 それだけだった。

 振り返らなかった。

 そのまま工場の建物の陰に消えた。

 渉は一郎の消えた方向を、しばらく見ていた。

 頼んだぞ、と渉は声に出さずに言った。


 澄子に会いに行ったのは、その夕方だった。

 珈琲ことぶきではなく、澄子の好きな川沿いの道で待った。

 澄子が仕事帰りにここを通ることを、渉は知っていた。

 

 しばらくして、澄子が来た。渉に気づいて、少し足を速めた。

「待ってたの?」と言った。

「少し、話したくて」


 二人で川沿いを歩いた。

 昨夜と同じ道だった。

 昨夜と同じ水音がした。

 しかし昨夜とは、空気が違った。

 渉の中に昨夜まであった揺れが、今夜は少し鎮まっていた。

 鎮まった、というより、何かを決めた後の静けさがあった。


 澄子は渉の横顔を時折見た。

 何か気づいているようだったが、聞かなかった。

 渉は歩きながら、澄子のことを見ていた。

 コートの前を合わせて、前を向いて歩く横顔。

 時折髪が風に揺れる。

 口元が少し結ばれている。

 この人の顔を、渉は目に焼き付けようとしていた。

 

 川沿いの道の途中、街灯と街灯の間の暗い場所で、渉は立ち止まった。

 澄子も止まった。

「澄子さん」と渉は言った。

「なに」

「あなたは幸せになりますよ」

 

 澄子は一瞬きょとんとした。

 それから「なにそれ、急に」と笑った。

 その笑い方が、子守唄を歌っていた時と同じだった。

 目から先に笑う、あの笑い方。

「なんか、お別れみたいな言い方ね」と澄子は言った。

 笑いながら、目が少し揺れた。

「そんなことないですよ」と渉は言った。

 嘘だった。

 澄子がゆっくりと笑いを収めた。

 渉の顔をまじまじと見た。

 何かを言おうとして、やめた。

 また言おうとして、またやめた。

 

 やがて澄子が、静かに言った。

「渉さん、あなたって——」

 そこで止まった。

「あなたって、なんですか」渉は聞いた。

 澄子は少し目を伏せて、首を横に振った。

「うまく言えない。ただ——」澄子は渉を見た。

「あなたに会えて、よかったと思ってる」


 渉は息を、ゆっくりと吐いた。

「私も」と渉は言った。

「あなたに会えて、よかった」

 澄子の目が、わずかに潤んだ。

 それをごまかすように、澄子は川の方に顔を向けた。

 水面に街灯の光が揺れていた。

「元気でね」と澄子は言った。

 川を見たまま。

 渉は「はい」と言った。

 その一言が、声になるかどうか、わからなかった。

 しかしなった。わずかに震えていたが、声になった。


 澄子と別れた後、渉は一人で歩いた。

 どこへ向かうとも決めずに、ただ歩いた。

 商店街を抜け、路地を曲がり、また別の路地を曲がった。

 灯りの少ない夜道を、渉は黙って歩いた。

 泣くつもりはなかった。

 覚悟していたつもりだった。

 しかし路地の角を曲がった瞬間、足が止まった。

 

 壁に手をついた。

 声は出なかった。

 ただ、身体が泣いていた。

 肩が震えた。

 息が乱れた。

 涙が出た。

 渉は壁に額を押し当てて、それをやり過ごそうとした。

 しかしやり過ごせなかった。


 澄子が好きだった。

 母として出会い、一人の人として知り、取り返しのつかない感情を持ってしまった。

 それを知りながら手放した。

 手放したことは、正しかったと思う。

 しかし正しいことをしたからといって、痛みが消えるわけではなかった。


 渉はしばらく壁に寄りかかっていた。

 やがて、雨が降り始めた。

 細かい雨だった。

 この町に来た最初の夜と同じような、静かな雨だった。

 渉は顔を上げた。

 雨が頬に当たった。

 冷たかった。

 しかしその冷たさが、渉を少し落ち着かせた。


 渉はコートのポケットに手を入れた。

 左手に、傷跡の感触があった。

 ちゃんと治ってよかった、と澄子は言った。

 渉は今、治っているだろうか。

 この痛みが、いつか治ると言えるだろうか。

 わからなかった。

 しかし渉は、この痛みを消したいとは思わなかった。

 澄子を知った証として、この痛みはここにあっていいと思った。

 

 雨の中を、渉は歩き始めた。

 濡れた路面に、街灯の光が反射していた。

 その光景を、渉はどこかで知っていた。

 この町に来た最初の夜、交差点に立った時に見た光景と、同じだった。

 

 渉は足を止めた。

 タイムスリップが近い。

 根拠はなかった。

 しかし渉には、わかった。

 身体の感覚として、わかった。

 この時代での時間が、終わりに近づいている。

 街の輪郭が、わずかに揺れているような気がした。

 音が、少し遠くなっているような気がした。

 まだだ、と渉は思った。

 まだ、見ておかなければならないものがある。


 渉は急いで、川沿いの道へ向かった。

 雨の中を走った。

 息が白くなった。

 靴が濡れた。

 それでも走った。

 

 川沿いの道に出た時、渉は立ち止まった。

 息を整えた。

 少し先に、二つの傘が見えた。

 澄子と一郎だった。

 並んで歩いていた。 

 二人は渉に気づいていなかった。

 澄子が何か話していた。

 一郎が黙って隣を歩いていた。

 

 渉はその場から動けなかった。

 澄子が話し終えたのか、少し間があった。

 それから一郎が、不器用な動作で澄子の手を握った。

 澄子が少し驚いた顔をして、それから笑った。

 目から先に笑う、あの笑い方で。

 

 一郎が何か言った。

 渉には聞こえなかった。

 澄子がまた笑った。

 二人の傘が、雨の中でわずかに重なり合うようにして、歩いていった。

 

 渉は声に出さずに言った。

 頼んだぞ、と。

 今度は一郎だけに向けた言葉ではなかった。

 二人に向けて、言った。

 頼んだぞ。

 ちゃんと生きてくれ。

 三年後に生まれてくる息子のために、今から愛を積んでおいてくれ。

 二人の後ろ姿が、雨の中に溶けていった。

 渉は濡れたまま、その場に立ちつくした。


 胸の中に、静かなものがあった。

 痛みはまだあった。

 しかしその痛みの奥に、もっと深い場所に、温かいものがあった。

 二人が歩いていった。

 笑っていた。

 これでいい、と渉は思った。

 これが正しい。これでなければならなかった。


 雨が、少し強くなった。

 渉は交差点の方へ歩き始めた。

 この時代に来た場所へ、同じ道を逆に辿るように。

 雨の中を歩きながら、渉は振り返らなかった。

 しかし、胸の中に、澄子と一郎の後ろ姿が、消えずに残っていた。

 雨に濡れた二つの傘が重なり合う、その光景が。

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