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第五章 引き裂かれる夜

 十二月に入って、町が冷えた。

 朝、縁側から見える庭に霜が降りるようになった。


 キヨが「今年は早いねえ」と言いながら、渉に温かい茶を持ってきた。

 渉はその茶を両手で包みながら、庭の白さを見ていた。

 この町に来て、三週間が経とうとしていた。


 帰り方は、まだわからなかった。

 タイムスリップが起きたのと同じ交差点に立てば戻れるのかもしれないと思ったことがあったが、確かめる気になれなかった。

 確かめたくなかった、という方が正確だった。

 渉は自分がここにいる理由を、最近あまり考えなくなっていた。

 考えなくなったのは、答えが出たからではなかった。

 ただ、毎日澄子に会い、時折一郎と話し、キヨの家に戻って夜空を見る、その繰り返しの中に、渉はすでに深く根を張ってしまっていた。

 それがどういうことなのかを問うことを、渉は恐れていた。


 澄子との時間が、変わってきていた。

 変わった、というより、深くなった。

 言葉の数は増えていなかった。

 むしろ減った。

 二人で黙っている時間が増えた。

 しかしその沈黙は、最初のころとは質が違った。

 埋めなければならない空白ではなく、そこにいるだけでいい、という沈黙になっていた。


 澄子が渉に向ける目が、変わってきているのも渉にはわかった。

 最初は好奇心だった。

 変な人、と言いながら放っておけないという目。

 それがいつからか、もっと静かな色を帯びるようになった。

 渉を見つけた時に少し表情が和らぐ。

 渉が話すと、口元が自然にほころぶ。

 渉が黙っていると、少し待つ。

 澄子は自分の感情の変化に、気づいているのかいないのか。

 渉にはわからなかった。

 ただ、澄子が渉のそばにいることを、以前より自然に求めるようになっていることは確かだった。

 渉はその変化を、嬉しいと思う自分と、苦しいと思う自分に、毎日引き裂かれた。


 一郎との関係も、変わっていた。

 珈琲ことぶきで二人きりになった日以来、一郎は渉に対してわずかに距離を縮めていた。

 敵対はしない。

 しかし警戒を解いたわけでもない。

 ただ、渉を「測る」目が、以前より少し柔らかくなっていた。

 渉と一郎が二人きりになる機会が、偶然のように続いた。

 澄子が席を外す、澄子が遅れてくる、そういう場面で二人は並んで待った。

 そのたびに短い会話があった。


 一郎は言葉が少なかった。

 しかしその少ない言葉の中に、渉への何かがあった。

 興味、と呼ぶには静かすぎる。

 警戒、と呼ぶには温かすぎる。

 渉はその何かに、毎回少しずつ揺さぶられた。

 この男のことが、わかってきていた。

 わかるほどに、複雑になった。

 父だとわかっている。

 澄子を愛している男だとわかっている。

 渉が澄子のそばにいることへの警戒を、今も手放していないことも。

 それでも渉は、一郎のそばにいることが苦ではなかった。

 それがまた、渉を苦しくした。


 ある夜、一郎が渉を問い詰めた。

 場所は珈琲ことぶきの外、閉店後の暗い路地だった。

 澄子はその日体調を崩して早く帰っており、渉と一郎が二人で店を出た直後だった。

「少し、話せるか」と一郎が言った。

 渉は「はい」と言った。

 一郎は路地の壁に背を預けた。

 街灯の光が届かない場所で、一郎の顔が薄暗かった。

「澄子が最近、あんたのことばかり話す」

 声は低かった。

 怒りではなかった。

 しかし穏やかでもなかった。

 震えを抑えているような声だった。


「話す、というのは」と渉は聞いた。

「渉さんがこう言った、渉さんがこう思ってるみたいだ、渉さんに勧めてもらった本を読んだ。毎日、何かしら出てくる」

 一郎は続けた。

「それだけじゃない。澄子の顔が、変わった。あんたといる時間が増えてから、表情が変わった」

 渉は答えられなかった。

「俺は澄子に、うまく気持ちを伝えられない。あんたみたいに話せない」

 一郎の声が、わずかに揺れた。

「それはわかってる。昔からそうだ。ずっとそばにいたのに、ちゃんと言えないまま来た。そこへあんたが来て——」

 そこで一郎は言葉を切った。しばらく黙った。


 やがて、「澄子を、不幸にしたくない」とだけ言った。

 渉はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。

 不幸にしたくない。

 自分が幸せにしたい、ではなかった。

 不幸にしたくない。

 その言葉の選び方に、一郎という人間の全部が入っていた。

 大げさな愛の言葉を言えない代わりに、この男はこういう言い方をする。

 渉には、それがわかった。


「わかりました」と渉は言った。

 一郎が渉を見た。

「あなたの気持ちは、わかりました」

 渉はもう一度言った。

 それ以上は続けられなかった。

 一郎は少しの間、渉の顔を見ていた。

 それから「そうか」と言った。

 声から力が少し抜けていた。


 二人は路地を出て、それぞれの方向へ歩いた。

 振り返らなかった。

 渉はその夜、キヨの家への道をずいぶん遠回りした。

 冷たい風の中を歩きながら、一郎の言葉を繰り返した。

 澄子を、不幸にしたくない。

 その言葉は、渉への牽制であると同時に、渉の中の何かに向かって、静かに語りかけていた。


 翌日の夜、澄子から声がかかった。

「散歩しませんか」と澄子は言った。

 珈琲ことぶきの前で待っていた渉に、店には入らずに。

「今日は、外がいい」

 一郎はその日いなかった。

 二人は川沿いの道へ向かった。

 十二月の夜は暗く、川の水が街灯を鈍く反射していた。

 風はあったが、強くなかった。

 澄子はコートの前を合わせて、ポケットに両手を入れて歩いた。


 しばらく黙って歩いた。川の水音だけが聞こえた。

 澄子が口を開いた。

「渉さん、なんか最近、遠くなった気がする」

 渉は少し驚いた。

 昨夜の一郎との会話の後、渉は意識して澄子との距離を測るようになっていた。

 それが伝わっていたのかもしれなかった。

「そんなことないですよ」と渉は言った。

「ある」澄子はあっさりと言った。

「三日くらい前から、どこか遠い。いる場所は同じなのに、いる場所が違う気がする」

 渉は何も言えなかった。

「何か、あった?」

「いいえ」

「嘘だ」


 澄子が立ち止まった。

 渉も止まった。

 川沿いの街灯が、澄子の輪郭を淡く照らしていた。

「渉さんって、悲しい目をしてる時がある」と澄子は言った。

「前にも言ったけど。最近また、その目になってる。何かを抱えてて、でも言えなくて、一人で持ってようとしてる目」

 渉は澄子の顔を見た。

 澄子の目が、真剣だった。

 責めているのではない。

 ただ、渉のことを、本当に見ている目だった。


「言えない、というより」渉はゆっくりと言葉を探した。

「うまく言葉にならないんです。自分でも、整理がついていないから」

「整理がつかなくていいと思う」澄子は言った。

「言葉にならなくていい。ただ、遠くにいかないでほしい」

 その言葉が、渉の胸に刺さった。

 遠くにいかないでほしい。

 澄子は今、そう言った。

 渉に向かって。

「澄子さん」と渉は言った。

「なに」

「あなたといると」渉は続けた。

 言葉が出てくる前に止めようとして、止められなかった。

「不思議と、落ち着くんです。昔から知ってる場所にいるみたいな感じがして」


 澄子は何も言わなかった。ただ、渉を見ていた。

「それが何なのか、自分でもよくわからなくて」渉は続けた。「わかろうとすると、もっとわからなくなる」

「私も」と澄子は静かに言った。

「渉さんといると、不思議と安心するの。昔から知ってるみたいな気がして」

 川の水音が聞こえた。風が止んでいた。

「最初に会った時から、ずっとそう思ってる」澄子は続けた。

「なんでかわからない。でも、そばにいたいと思う。それだけはわかる」

 渉は澄子の顔を見た。街灯の光の中で、澄子の目が静かに渉を見ていた。


 どちらが動いたのか、わからなかった。

 気づいた時には、距離が縮まっていた。

 風もなく、水音だけがあって、渉と澄子の間の空気が変わった。

 渉には止める理由があった。

 いくつも、いくつもあった。

 しかしその理由が形をなす前に、身体が先に動いていた。

 一秒か、二秒か。時間の感覚がなかった。

 先に離れたのは、渉だった。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 澄子が小さく「……ごめんなさい」と言った。

 自分でも理由がわからないように。渉も「すみません」と言った。

 川の水音だけが続いた。


 澄子が夜空に目を向けた。

 渉も同じ方向を見た。

 星が出ていた。

 冬の星は鋭く、青白かった。

 二人の間に、さっきまでとは違う空気があった。

 重くはなかった。しかし何かが、取り返しのつかない形で変わっていた。

 澄子がやがて、ぽつりと言った。

「あなたのこと、もっと知りたかったな」


 渉は息を呑んだ。

 過去形だった。

 知りたい、ではなく、知りたかった。

 澄子は無意識にそう言ったのだ。

 しかしその過去形には、二人の間にある何かの終わりの気配が、静かに含まれていた。

 澄子自身がどこかで感じているもの——渉には限りがある、この時間には終わりがある、という予感。

「私も」と渉は言った。

 声が、わずかに震えた。

「あなたのことを、もっと知りたかった」

 澄子が渉を見た。

 その目が揺れた。何かを言いかけて、やめた。


「帰りましょうか」と澄子はやがて言った。

 いつもと変わらない声で。しかし、いつもと変わらない声を出すために、少し時間がかかった気がした。

「はい」と渉は言った。

 二人は並んで歩き始めた。

 距離は変わらなかった。

 しかし渉には、その距離の中身が変わったことがわかった。


 その夜、渉はキヨの家に戻ってから、布団に入ることができなかった。

 縁側に座って、暗い庭を見ていた。

 霜が降りていた。月明かりの中で、庭の白さが静かに光っていた。

 触れてしまった。

 それだけのことが、今の渉にはひどく重かった。

 取り返しのつかない場所に来てしまった、という感覚。

 澄子が母だとわかっている。

 一郎が父だとわかっている。

 それでも、止められなかった。


 渉は自分を責めようとした。

 しかし責める言葉が形にならなかった。

 代わりに、澄子の顔が浮かんだ。

 街灯の光の中の澄子の目。

 渉さんといると、不思議と安心するの。

 その声。

 あなたのこと、もっと知りたかったな。

 その過去形。

 渉は膝を抱えた。

 この感情に、名前をつけてはいけないとずっと思ってきた。

 名前をつけた瞬間に、取り返しのつかない何かになる気がしていた。

 しかし今夜、渉はその手前に立っていた。

 名前をつける、つけないの問題ではなく、すでにそこにあるものを、渉はもう知っていた。


 澄子が好きだった。

 母として、ではなかった。

 出会った時から、ずっとそうだった。

 匂いに懐かしさを覚えた時も、子守唄に身体が震えた時も、傷跡に触れた指の温度を手放せなかった時も、渉の中にあったのはそれだった。

 そしてそれは、澄子が母だとわかった後も、消えなかった。

 渉は夜空を見た。

 星が動かずにあった。

 一郎の言葉が蘇った。

 澄子を、不幸にしたくない。

 もし渉がこのまま澄子のそばにいたら、どうなるのか。

 一郎と澄子は結ばれない可能性が出てくる。

 そうなれば、——渉は生まれない。

 しかしそれより前に——澄子が不幸になる。


 一郎がいなくなった後の澄子が、どうなるかを、渉は考えた。

 澄子には、一郎が必要だ。 

 それは論理として知っていたことだった。

 しかし今夜初めて、渉はそれを感情として知った。

 一郎の、澄子を不幸にしたくないという言葉の重さを、自分のこととして受け取った。

 渉は額を膝の上に乗せた。

 どうすればいいのかは、わかっていた。

 わかっていたから、苦しかった。

 わかっている答えに向かって、自分を動かすことができるかどうかを、渉はまだ信じられなかった。

 庭の霜が、月明かりの中で白く光っていた。

 渉は長い時間、そこにいた。


 翌朝、渉は久しぶりに澄子に会わなかった。

 珈琲ことぶきへ行く足が、出なかった。

 代わりにキヨの家の縁側で一日を過ごした。

 キヨは何も聞かなかった。

 昼に漬物と飯を持ってきて、それだけで奥に引っ込んだ。


 渉は庭を見ながら、自分の中を整理しようとした。

 しかし整理とは、感情を言葉に直すことだと渉は知っていた。

 言葉にした瞬間に、それは動かしがたい事実になる。

 渉はその作業を、できる限り引き延ばしてきた。

 しかし引き延ばせる時間が、残り少なくなっていた。


 夕方になって、渉は縁側から立ち上がった。

 コートを着て、外に出た。

 川沿いの道を歩いた。

 昨夜と同じ道だった。

 昨夜と同じ水音がした。

 しかし昨夜と今夜では、渉の胸の中にあるものの重さが違った。

 渉は昨夜二人が立ち止まった場所に来た。

 街灯がある。

 その下の路面が、昨夜と同じように光っている。

 渉は立ち止まった。


 澄子が好きだ。

 それは変わらない。

 しかし渉がここにいることで、

 澄子と一郎が結ばれない可能性が高まっている。

 それも変わらない。

 ならば、渉はどうするのか。


 答えは、もうわかっていた。

 わかっていて、まだ動けないでいた。

 動けないのは、弱さなのか、それとも人間として当然の躊躇なのか、渉には判断できなかった。

 ただ、このままでいる時間が、あとわずかしか残っていない気がした。


 川の水が、黙って流れていた。

 渉は空を見た。昨夜と同じ星があった。

 明日、澄子に会おう。

 そして一郎にも、会おう。

 それだけを決めて、渉は来た道を引き返した。

 背中に、川の水音が続いた。


 翌日の夕方、珈琲ことぶきに入ると、澄子がいた。

 渉を見た澄子の表情が、一瞬だけ揺れた。

 それからすぐに、いつもの顔になった。

「来ましたね」と言った。

「来ると言ったわけじゃないですけど」と渉は言った。

「でも来た」

「来ました」

 マスターがコーヒーを淹れ始めた。

 渉は澄子の向かいに座った。


 しばらく黙っていた。

 コーヒーが来た。

 二人で飲んだ。

「一昨日のこと」と澄子が言った。

「はい」

「私、後悔してないです」

 澄子は渉を見て、真っすぐに言った。

「ただ、渉さんを困らせたなら、ごめんなさい」

「困ってないです」と渉は言った。

「困れたら、楽だったかもしれない」

 澄子が少し首を傾けた。

「困るより、もっと深いところで、動けなくなってる」

 渉は言葉を続けた。

「澄子さんのことを大切に思ってる。それは本当のことです。だから、動けない」

 澄子は黙って聞いていた。

「ただ」渉は続けた。

「あなたには、私じゃない人が必要だと思っています。それも、本当のことです」


 澄子の顔が、少し変わった。

 傷ついた顔ではなかった。

 何かを、静かに受け取っている顔だった。

「一郎のこと?」と澄子は静かに聞いた。

 渉は答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 澄子はしばらくコーヒーカップを見ていた。

 それから「渉さんって」と言いかけて、止まった。

「なんですか」

「なんか、急いでるみたい。時間がないみたいな顔をしてる。前から思ってたけど、最近特に」

 渉は「そうかもしれません」と言った。

「どこかへ行くの?」

 渉は即答できなかった。

「いずれ、戻らないといけない場所があります」

「遠くって、どのくらい」

「想像できないくらい遠く」

 最初に会った夜と同じ言葉だった。

 澄子も気づいたのか、少し目を細めた。

「そっか」澄子は静かに言った。

「それでも、今日ここにいる」

「いられる間は、いたい」渉は言った。

「それだけです」


 澄子はしばらく渉の顔を見ていた。

 その目に、何かが揺れていた。

 悲しみとも、温かさとも、どちらとも違う、複雑な光だった。

「わかった」と澄子はやがて言った。

「それでいい」

 その言葉の意味を、渉は全部は受け取れなかった。

 受け取ってしまったら、もっと深いところへ行ってしまう気がした。


 渉はコーヒーを飲んだ。

 苦く、深く、温かかった。

 窓の外で、冬の夜が静かに深まっていた。

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