第四章 一郎という男
一郎が最初に現れたのは、澄子と川沿いを歩いていた夕方のことだった。
傷跡に触れられた夜から三日が経っていた。
渉はその三日間、澄子と会い続けた。
珈琲ことぶきで、川沿いで、商店街の端にある古本屋の前で。
二人はいつも自然に合流して、自然に別れた。
それがどういうことなのかを渉は問わないようにしていたが、澄子のそばにいることがこの時代での唯一の重力になっていた。
その日も川沿いを歩いていた。
澄子が好きな散歩道で、渉もだんだんその道に慣れてきていた。
夕暮れの川面が風に揺れ、対岸の葦が銀色に光っていた。
「あ」と澄子が言った。
渉が視線を向けると、川沿いの道の向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。
背は渉より少し低く、肩幅がある。
紺色のジャンパーを着て、両手をポケットに入れていた。
歩き方に特徴があった。
少し前傾みで、足音を立てない歩き方。
男が近づいてくると、澄子の表情が変わった。
嬉しそうでもあり、少し緊張しているようでもある。
その微妙な変化を、渉は見逃さなかった。
「一郎」と澄子が呼んだ。
男が顔を上げた。澄子を見て、口元が少しだけ動いた。
笑い方なのか、それとも別の何かなのか判然としない、小さな動きだった。
それから渉を見た。
一瞬だけ、表情が固まった。
「誰?」と男は澄子に聞いた。
渉に向けて言うのではなく、澄子に向けて言った。
「友達。渉さんっていうの。東京から来てる人」澄子が言った。
「渉さん、こちら河野一郎。同じ町内で育った幼なじみ」
「河野一郎です」と男は言った。
渉を見て、短く頭を下げた。
愛想がいいわけではなかったが、無礼でもなかった。
ただ、測るような目をしていた。
この男が、渉の何かを確かめようとしている。
それはわかった。
「桐島渉です」と渉は言った。
一郎は「ああ」と言った。それだけだった。
三人で少し話した。
といっても、一郎はほとんど話さなかった。
澄子が二人の間を取り持つように明るく話した。
渉が東京で本の編集をしていること、この町に来たのは最近であること。
澄子が話すたびに、一郎は黙って聞いていた。
渉の方を見ていた。
じきに一郎は「用事がある」と言って、来た方向へ戻っていった。
澄子に向かって「また」とだけ言い、渉には頷いただけだった。
その後ろ姿を、渉はしばらく目で追った。
引っかかるものがあった。
何が、とは言えなかった。ただ、あの男が気になった。
澄子への感情とは別の、もっと奥の方から来る、説明のできない引っかかりだった。
それから一郎は、渉と澄子が会う場に現れるようになった。
いつも唐突だった。
珈琲ことぶきに来ることもあり、川沿いで合流することもあった。
澄子は一郎の登場をごく自然に受け入れた。
三人の会話は、澄子が中心になって回った。
一郎は渉に対して敵意を見せなかった。
しかし友好的でもなかった。
ただ、そこにいた。
静かに、少し離れた場所から、渉と澄子を見ていた。
渉はその視線に気づいていた。
一郎が澄子を好きだということは、会った最初の日からわかっていた。
澄子の顔を見る時と、他を見る時とで、一郎の目の質が変わった。
それは隠しようのない違いだった。
渉は一郎のことを、最初はただのライバルとして見ていた。
澄子のそばにいたいという自分の気持ちを邪魔する存在として。
しかし日が経つにつれて、その見方が少しずつ変わっていった。
一郎には、不思議な誠実さがあった。
嘘をつかない、というより、嘘をつく必要を感じていない人間のように見えた。
思ったことを言わないことはあっても、思っていないことを言わなかった。
渉には、それがわかった。
出版の仕事を通じて、渉は多くの人間と話してきた。
言葉の裏を読む訓練を、十二年かけてしてきた。
一郎の言葉には、裏がなかった。
そしてもう一つ、渉が一郎に対して覚えた感覚があった。
それは、引っかかり、だった。
気づいたのは、一郎が迷った時の口癖だった。
ある夕方、珈琲ことぶきで三人が話していた時のことだ。
澄子が一郎に「来年、どうするつもりなの」と聞いた。
一郎は少し黙ってから、
「——まあ、そういうもんだろ」と言って、話を打ち切った。
渉は手を止めた。
その言い方を、知っている。
自分がよく使う言い方だった。
答えを出しかねている時、あるいは深く考えるのをやめる時、渉は無意識にその言葉を使う。
美咲に指摘されたことがあった。
「渉ってよく『そういうもんだろ』って言うよね、結論を出したくない時に」と。
しかし渉には、その口癖がどこから来たのかわからなかった。
気づいた時にはもう使っていた言い方だった。
渉はコーヒーカップを持ったまま、一郎を見た。
一郎は何事もなかったように澄子の話を聞いていた。
気のせいかもしれない。渉はそう思うことにした。
しかし気のせいではなかった。
日が経つにつれて、一郎の言葉や仕草が渉の耳に、目に、引っかかり続けた。
照れた時に鼻の頭を人差し指で一度だけ触る仕草。
渉も同じことをする。
美咲が「渉の癖」と笑ったことがある仕草だ。
怒っているわけではないのに、眉間にうっすらと皺が寄る顔。
渉は鏡を見るたびに、それを自分の顔に見ていた。
感情を表す言葉が少ない代わりに、沈黙で代替する習慣。
渉が編集者として、著者から指摘された癖と同じだった。
一つ一つは偶然かもしれなかった。
しかしそれが重なるたびに、渉の胸の中で何かが積み上がっていった。
名前のつかない何かが、少しずつ形になっていく感覚。
渉はその感覚の正体を問うことを、意識的に避けていた。
澄子が母だとわかった時も同じだった。
気づく手前でずっと踏みとどまって、最後に一気に落ちた。
今もその手前に立っている気がした。
しかし今度は、落ちた先に何があるのかを、渉はうっすらと感じ始めていた。
決定的な瞬間は、ある夜に来た。
三人で珈琲ことぶきを出て、夜の商店街を歩いていた。
澄子が途中でキヨの家に近い道具屋に寄ると言い、一郎と渉は外で待つことになった。
二人きりになった。
しばらく黙って並んで立っていた。
一郎は空を見ていた。
渉は商店街の灯りを見ていた。
特に話すこともなく、しかし沈黙が重いわけでもなかった。
ただ、そこにいた。
やがて一郎が言った。独り言のような声で。
「子どもができたら、男の子がいいな」
渉は一郎を見た。
一郎は空を見たまま、少し照れたように鼻の頭を触った。
「澄子は女の子がいいって言うんだけどな。俺は男の子がいい。一緒に野球でもしたい」
「なぜ男の子なんですか」と渉は聞いた。
声が出るか確かめるように、ゆっくりと。
一郎は少し考えてから言った。
「俺、不器用だから。うまく気持ちを言葉にできない。でも男の子なら、一緒に黙って並んでるだけでも伝わる気がして」
渉は視線を落とした。
今、自分は一郎と並んで立っている。
黙って、夜の商店街を前にして。
「ちゃんと育てたいんだ」と一郎は続けた。
「俺みたいに不器用でも、正直な人間に。それだけでいい」
渉は一郎の横顔を見た。
その瞬間だった。
胸の中で、何かが崩れた。
崩れた、という表現が正確かどうかわからなかった。
壊れたのではなかった。
何かが——長い時間をかけて積み上がっていたものが、一度に形を変えた。
一郎の横顔に、幼い日の記憶が重なった。
映像ではなかった。
感触だった。
高い場所から見た景色、大きな手の温かさ、前傾みに揺れる肩。
渉が三歳まで確かに持っていて、その後ずっと持っていなかったもの。
渉はゆっくりと、一郎の顔の輪郭を確かめた。
仏壇の古い遺影に写っていた、色褪せた輪郭。
あの写真の男の、若い頃の顔。
渉は「そうですね」とだけ言った。それ以上、何も言えなかった。
一郎は「まあ、そういうもんだろ」と言って、空を見上げた。
渉はその口癖を聞きながら、視線を商店街の灯りに戻した。
目が、かすかに熱くなっていた。
澄子が店から出てきて、「お待たせ」と言った。
二人の間の空気に気づいたのか、「何話してたの?」と聞いた。
「子どもの話」と一郎が言った。
「子どもの話?」澄子が少し驚いた顔をした。
「急ね」
「渉さんが聞いてきたんだ」
渉は否定しなかった。
澄子が渉を見て、少し首を傾けた。
渉は「なんとなく」と言って、歩き始めた。
三人で並んで夜道を歩いた。
渉は真ん中を歩いていた。
右に澄子、左に一郎。
この並び方を、渉は一歩踏み出すたびに意識した。
自分の右に母がいて、左に父がいる。三人で並んで夜道を歩いている。
渉は三歳になる前に失ったものを、今夜初めて持っていた。
その事実は、温かくて、痛かった。
その夜、キヨの家に戻ってから、渉は縁側に座った。
月のない夜だった。
星が多かった。
この時代の夜空は、現代より暗く、だから星がよく見えた。
渉はしばらく星を見ていた。
考えなければならないことが、増えた。
澄子が母だということを知っていた。一郎が父だということを、今夜知った。
二人は今、まだ結ばれていない。
付き合っているのか、いないのか、渉にはまだわからなかった。
ただ、一郎が澄子を好きなことは明らかだった。
そして澄子は——澄子の一郎への感情が何なのか、渉にはまだ見えていなかった。
渉は自分の手を見た。
この二人が結ばれなければ、渉は生まれない。
それは論理として明快だった。
しかし今の渉が苦しいのは、そういう論理の問題ではなかった。
澄子が母だとわかった後も、渉の感情は変わらなかった。
いや、変わらなかった、という表現も正確ではない。
より深くなった、と言う方が近かった。
母だとわかったことで、澄子への渇望に新しい層が加わった。
会いたかった。
知りたかった。
失いたくなかった。
そのすべてが混ざり合って、渉の胸の中にあった。
そして今夜、一郎が父だとわかった。
ライバルだと思っていた男が、父だった。
その二重の衝撃は、今もまだ渉の胸の中で揺れていた。
鎮まる気配がなかった。
渉は星を見ながら、一郎の言葉を思い出した。
俺みたいに不器用でも、正直な人間に。それだけでいい。
その言葉が、今は別の意味で胸に刺さった。
一郎は渉のことを知らない。
自分が夢見ている息子が、今隣に立っていることを知らない。
知らないまま、正直な人間に育てたいと言った。
渉は、自分が正直な人間かどうかを考えた。
答えは出なかった。
翌日、一郎が渉に話しかけてきた。
澄子がいない場所でのことだった。
珈琲ことぶきで渉が一人でコーヒーを飲んでいると、一郎が入ってきた。
渉を見て少し止まったが、そのまま向かいに座った。
「澄子と、どういう関係なんですか」
単刀直入な問いだった。
一郎らしい切り出し方だと渉は思った。前置きがない。遠回しにしない。
「友人です」と渉は言った。
一郎は少し黙ってから「そうか」と言った。
それ以上追及しなかった。マスターがコーヒーを持ってきた。
一郎はそれを受け取って、一口飲んだ。
しばらく沈黙が続いた。
渉は一郎を見ていた。
一郎はカップを見ていた。
「澄子はあんたといる時、楽しそうだ」と一郎が言った。
「俺といる時とは違う顔をしてる」
声に怒りはなかった。
嫉妬、というより、観察を口にしている声だった。
「俺は澄子に、うまく気持ちを伝えられない」
一郎は続けた。カップを見たまま。
「あんたみたいに話せない。それはわかってる」
渉は黙って聞いていた。
「でも」
一郎は少し間を置いた。
「身を引くつもりはないけどな」
そう言って、照れたように鼻の頭を触った。
渉はその仕草を見て、目を逸らした。
「澄子が、あんたのそばで楽しそうにしてるのはわかる」
一郎が続けた。
「だからって、引く理由にはならない。俺が澄子を好きなのは、あんたが来る前からだ」
その言葉には、静かな力があった。
声を荒らげているわけではない。
しかし揺るがない芯があった。
渉には、その芯の正体がわかった。
一郎は澄子を、本気で好きなのだ。
口下手で、不器用で、言葉が少ない。
しかしその分だけ、この感情は深いところにある。
「わかりました」と渉は言った。
「何が」
「あなたが澄子さんを好きだということが」
一郎は渉を見た。
不思議そうな顔だった。それからまた視線を落として、「そうか」と言った。
しばらく二人で黙ってコーヒーを飲んだ。
渉は一郎の横顔を、盗み見るようにして見た。
この男と並んで座っている。
この男が、渉の父だ。
不器用で、言葉が少なくて、それでも好きな女性に向かって真っすぐに立っている。
渉は、この男のことが嫌いになれなかった。
むしろ——この男のことを、知りたいと思い始めていた。
ライバルとしてではなく。
別の何かとして。
その「別の何か」に名前をつけることを、渉はまだためらっていた。
珈琲ことぶきを出て、渉は一人で川沿いを歩いた。
冬の川は冷たく、水音が低かった。枯れた葦が風に揺れていた。
渉は歩きながら、今の自分の状況を整理しようとした。
澄子が母だ。
一郎が父だ。
この二人はまだ結ばれていない。
渉は澄子への感情を止められないでいる。
一郎は渉を、澄子の「友人」として認識している。
そして一郎は、身を引くつもりはないと言った。
整理すればするほど、渉の立場は奇妙な形をしていた。
父と母の間に、息子が立っている。
しかしその息子は、母への感情を持て余している。
そして父のことを、憎めない。
渉は土手に腰を下ろした。
冷たい風が川の上を渡ってきた。
一郎が言った言葉が、まだ耳に残っていた。
俺みたいに不器用でも、正直な人間に。
渉は今、正直ではなかった。
澄子にも、一郎にも、自分自身にも。
何かを決めなければならない時が、来る気がした。
まだ今日ではない。
しかしそれほど遠くない場所に、その時は待っていた。
渉は川の流れを見た。
水は静かに下流へ向かっていた。
この川も、四十年後にはまだここを流れているだろうか。
父と母が死んだ後も、この水は流れ続けたのだろうか。
渉が叔母の家で育った間も、誰も見ていない夜も、この川は黙って流れていたのだろうか。
そう思うと、水の流れが少し違って見えた。
ただの川ではなくなった。
渉の知らない時間をずっと流れてきた、何か大きなものに見えた。
渉は立ち上がって、土手を降りた。
夕暮れが近かった。
もうすぐ澄子が珈琲ことぶきに来る時間だ。
渉の足は、その方向へ向かっていた。
考えより先に、身体が動いていた。
その夜、渉は澄子の顔を見ながら、一郎の言葉を思い出した。
——俺が澄子を好きなのは、あんたが来る前からだ。
その言葉は、渉への牽制だったはずだ。
しかしなぜか、その言葉が今は、渉に別のことを伝えていた。
この男に、澄子を頼めるかもしれない。
その考えが渉の中に生まれたのは、まだかすかな、輪郭のない感触だった。
しかしその感触は、この夜から、渉の胸の奥に静かに根を張り始めた。




