第三章 澄子という人
翌日、渉は町を歩いた。
あてもなく、というわけではなかった。
ただ、目的を言葉にできなかった。
この町のどこかに父と母がいる。
それを知りながら、どこへ向かえばいいのかわからなかった。
名前も知らない。
顔も、古い小さな遺影の輪郭しか知らない。
会いに行くとは、どういうことなのか。
商店街を抜け、川沿いの道を歩いた。
川は細く、冬の始まりの水は黒っぽく見えた。
対岸に工場の煙突が一本、白い煙を上げていた。
渉は土手の上に立って、しばらくその煙を見ていた。
この風景を、父も見たことがあるだろうか。
母も、ここを歩いたことがあるだろうか。
同じ空気を、今日、三人が吸っている。
その事実が、渉には不思議で、苦しく、同時にどこか温かかった。
昼を過ぎたころ、渉は小さな食堂に入った。
定食屋で、カウンターに年配の女性が一人で切り盛りしていた。
渉は日替わり定食を頼んだ。
鮭の塩焼きと、味噌汁と、漬物。素朴で、しっかりとした味だった。
隣に座っていた作業着の男性が、渉のコートを見て「どこから来たの」と聞いた。
渉は「東京から」と答えた。
男性は「東京か、遠いな」と言って、定食を食べ終えて出て行った。
渉は味噌汁を飲みながら、東京という言葉が今の自分には半分正しくて半分嘘だと思った。
自分は東京から来た。しかしそれは、四十年後の東京だ。
この時代の東京では、渉はまだ存在しない。
その事実が、食堂の温かい空気の中で、静かに渉の胸に落ちた。
夕方になって、渉は珈琲ことぶきへ向かった。
昨日と同じドアを開けると、澄子はもうそこにいた。
カウンターではなく、昨日と同じ窓際のテーブルに座っていた。
渉が入ってきた気配に顔を上げて、少し目を細めた。
「来ましたね」と澄子は言った。
「来ると言ったので」
「律儀な人だ」
澄子はそう言って、向かいの椅子を足先で少し引いた。
座っていいよ、という仕草だった。
渉は座った。
マスターが何も言わずにコーヒーを二人分淹れ始めた。
昨日と同じ手順で、同じ速さで。
この店の時間は、いつもこの速さで流れているのかもしれないと渉は思った。
「今日は何してたんですか」と澄子が聞いた。
「町を歩いていました」
「一人で?」
「一人で」
澄子は少し考えるような顔をした。
「楽しかったですか?」
「楽しい、とは少し違うけど。必要な時間だったと思います」
澄子は「ふうん」と言った。それ以上聞かなかった。
その聞かなさが、渉には心地よかった。
必要以上に踏み込まない。
しかしいなくなってほしいわけでもない。
そういう距離感を、澄子は自然に持っていた。
コーヒーが来た。二人はしばらく黙って飲んだ。
窓の外が暗くなっていた。
商店街の街灯が点き始めて、ガラスに光が反射した。
澄子が窓の外を見ていた。渉はその横顔を見た。
また、あの感覚があった。
昨日から何度も感じている、説明のできない既視感。
澄子の横顔を見るたびに、何かが胸の奥で揺れる。
懐かしい、という言葉では足りない。
もっと深い場所にある何かが、澄子の輪郭に反応している。
渉は目を逸らした。
「仕事は何をしてるんですか」と澄子が聞いた。窓の外を見たまま。
「本の、編集をしています」
澄子がこちらを向いた。目が少し輝いた。
「本の編集。出版社ですか?」
「ええ」
「すごい。私、本が好きだから。どんな本を作るんですか?」
「主に文芸です。小説を書く作家と一緒に、本を作る仕事です」
澄子は「いいなあ」と言った。純粋な羨望の声だった。
「私、もし仕事を選べたら、本に関わる仕事がしたかった。今は事務の仕事をしてるんですけど、自分には向いてないなって思うことが多くて」
「向いていない、とはどんな時に思いますか」
「なんか、もっと好きなことと繋がっていたいな、っていつも思うんです。毎日、同じことを繰り返してる感じがして。渉さんは、好きな仕事ができて羨ましい」
渉は澄子の言葉を聞きながら、胸の中に何か重いものが生まれるのを感じた。
好きな仕事をしたい、好きなものと繋がっていたい——そう言う澄子の顔が、なぜか無性に切なかった。
その感情の理由が、渉にはわからなかった。
ただ、この人にはもっと好きなことをしてほしい、と思った。
なぜそう思うのか、それもわからなかった。
渉は「好きな仕事でも、うまくいかないことはたくさんありますよ」と言った。
当たり障りのない言葉だと思いながら、それしか言えなかった。
「でも、好きだから続けられるでしょう」と澄子は言った。
「それが大事だと思う」
渉は頷いた。
澄子の言葉が、思いがけず胸に刺さった。
その日以来、渉と澄子は毎夕、珈琲ことぶきで会うようになった。
特に約束をするわけではなかった。
ただ、渉が夕方になると店に向かい、澄子がそこにいた。
あるいは澄子が先に来ていて、渉を待っていた。
どちらでもなく、二人が同時に着くこともあった。
マスターはいつも何も言わずにコーヒーを二人分用意した。
澄子はよく本の話をした。
好きな作家、好きな場面、気に入っている言葉。
渉は聞き役に回ることが多かったが、時折口を挟むと、澄子は決まって「それ、わかります」か「それは違う気がします」のどちらかを言った。
その率直さが、渉には心地よかった。
澄子の話し方には、独特のリズムがあった。
大事なことを言う前に少し間を置く。
笑う時は目から先に笑い始める。
何かを思い出す時、右上に視線が動く。
渉は気づかないうちに、それらを覚えていた。
そして毎日、あの既視感があった。
澄子の声を聞くたびに、澄子の笑い方を見るたびに、澄子のそばにいる時間が長くなるたびに、渉の胸の奥で何かが揺れた。
落ち着く。安心する。懐かしい。
その三つが混ざり合って、渉には正体がわからなかった。
ただ、一つだけわかっていることがあった。
澄子のそばにいると、自分がここにいていい気がした。
三十八年間、どこか宙ぶらりんだった自分が、初めてどこかに根を張れるような気がした。
その感覚の意味を、渉はまだ問わないことにしていた。
五日目の夕方のことだった。
その日は珈琲ことぶきが定休日で、渉と澄子は川沿いの道を並んで歩いていた。
澄子が「たまには外がいい」と言って、店の前で合流した二人はそのまま川の方へ歩いた。
十一月の夕暮れは早い。五時を過ぎると空が急速に暗くなり、川の水が黒みを増した。
対岸の街灯が、水面に細長い光を落としていた。
澄子がコートのポケットに手を入れて歩きながら、鼻歌を歌い始めた。
渉は聞き流しかけた。
止まった。
メロディーが、耳に引っかかった。
知っている。
そう思った瞬間、身体が先に反応した。
胸の奥で何かが動いた。
映像ではなかった。
音でもなかった。
もっと古い、もっと深い場所にある何か——暗い部屋、温かい重さ、揺れる感触。
渉は気づいたら、小さな声で続きを口ずさんでいた。
澄子が立ち止まった。振り返った。
「渉さん、今、何を歌ったの?」
その声に、驚きがあった。
渉は自分が何をしたか気づいて、言葉に詰まった。
「あの、今の歌の続きを」
「なんで知ってるの」澄子の声が、いつもと違った。
低く、静かな声だった。
「この歌、私が作ったんです。誰にも教えてないのに」
渉は答えられなかった。
澄子が一歩、近づいた。
薄暗い中で、澄子の目が渉を見ていた。
不思議そうな顔ではなかった。
何かを確かめているような、探しているような顔だった。
「渉さん」と澄子は言った。
「あなた、何者ですか」
渉は澄子の目を見た。
この目を、自分は知っている。ずっと知りたかった目を、今、正面から見ている。
「うまく、説明できないんですが」
「説明しなくていいです」澄子は静かに言った。
「ただ、変な人だなって、また思った」
それだけ言って、澄子はまた歩き始めた。渉も並んで歩いた。
澄子はもう鼻歌を歌わなかった。
しかし渉の耳には、そのメロディーがまだ残っていた。
自分の身体の奥底にずっとあったものが、今夜初めて外に出てきた気がした。
渉の確信は、その夜、静かに固まった。
澄子は自分の母だ。
その事実は、渉が予想していたよりずっと静かに、そして取り返しのつかない重さで、胸の中に落ちた。
その夜、渉はキヨの家の六畳間で、布団の上に座っていた。
長い時間、何も考えられなかった。
考えようとすると、言葉が形にならなかった。
澄子は母だ。
三歳で失った、顔も声も匂いも覚えていない、仏壇の古い遺影の中にしかいなかった人が、今この町で生きている。
毎夕、向かいに座ってコーヒーを飲んでいる。
本の話をしている。
鼻歌を歌いながら川沿いを歩いている。
渉は自分の胸に手を当てた。
そこに何があるのか、正直にはわからなかった。
母だとわかった安堵なのか、三十八年分の渇望が満たされていく感覚なのか、あるいはそれとは全く別の何かなのか。
渉には、まだ整理できなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
澄子が母だとわかった今も、明日また澄子に会いたいという気持ちは、消えていなかった。
それがどういうことを意味するのか、渉はその夜は考えないことにした。
考えてしまったら、もっと深いところへ行ってしまう気がした。
布団に横になって、目を閉じた。
暗闇の中に、澄子の顔があった。
笑い方があった。
川沿いの風の中で揺れた髪があった。
渉はその顔を、消そうとしなかった。
翌日、渉は珈琲ことぶきへ行かなかった。
代わりに一日、キヨの家の縁側に座って、庭を見ていた。
キヨは何も聞かなかった。
昼に茶を一杯持ってきて、それだけで奥に引っ込んだ。
渉は庭の枯れた草を見ながら、自分に問い続けた。
澄子が母だとわかった上で、あのそばにいることは、何を意味するのか。
この時代に来た理由を、渉はまだ知らなかった。
帰り方も、わからなかった。
しかし今この瞬間、渉が感じているのは、帰りたいという焦りではなかった。
もっと長く、ここにいたいという、静かな願いだった。
澄子のそばにいたかった。
母として、ではなかった。
それが何として、なのかを言葉にすることを、渉はまだ恐れていた。
翌々日、渉はまた珈琲ことぶきへ行った。
澄子はいた。
渉を見て、何も言わなかった。
ただ、さりげなく向かいの椅子を引いた。
渉は座った。
マスターがコーヒーを淹れた。
しばらく黙って飲んだ。
「昨日、来なかったですね」と澄子が言った。
「少し、考えることがあって」
「解決しましたか?」
「いいえ」と渉は正直に言った。
「もっとわからなくなりました」
澄子は「そういうことありますよね」と言った。
慰めでも、共感でもなく、ただ事実として言う口調だった。
「考えれば考えるほど、遠くなることって」
「そうです」
「そういう時は、考えるのをやめた方がいいんじゃないかな。私はそうしてます」
「やめられないんです」
澄子は少し笑った。「頑固な人だ」
渉も笑った。力の抜けた笑いだった。
澄子の前でこんな笑い方をしたのは初めてだった。
澄子がコーヒーカップを両手で包みながら、少し声を落として言った。
「渉さん、あなたのこと、なんか放っておけないんですよね。なんでかわからないけど」
渉は澄子を見た。
「最初に会った時から、ずっとそう思ってる。変な人なのに、放っておけない。悲しい目をしてる時があるから、かな」
「悲しい目」
「ええ。何かを、ずっと探してるみたいな目。
見つからないままずっと歩いてきた人の目」
渉は澄子の言葉を、胸の中で繰り返した。
見つからないままずっと歩いてきた人の目。
そうかもしれなかった。
三十八年間、渉はずっとそうだった。
何を探しているかもわからないまま、ただ歩いてきた。
渉は「そうかもしれません」とだけ言った。
澄子は何も言わなかった。
ただ、渉の顔をしばらく見ていた。
その目が温かかった。
責めていなかった。
ただ、そこにいていいよ、と言っているような目だった。
渉はその目を、真正面から受け取れなかった。
視線を落として、コーヒーカップを見た。
その日の帰り際、路地に差し掛かった時のことだった。
澄子が渉の左手首に触れた。
何気ない動作だった。
渉がコートの袖を直そうとした時、袖がめくれて手首が見えた。
澄子が「あ」と言って、手を伸ばした。
渉の左手首の、小さな傷跡に指先が触れた。
「これ、どうしたの?」
澄子の声が、柔らかかった。
指の触れ方が、柔らかかった。
渉の手首を、ごく自然に、迷いなく取った。
まるでずっとそうしてきたかのように。
渉は、動けなかった。
この手を、知っている。
転んで泣いていた時、この手が自分の手を取った。
この指が、傷口に触れた。
夜中に目が覚めて泣いていた時、この手が背中を撫でた。
渉の記憶の中に映像はなかった。
しかし身体が、この手の感触を覚えていた。
「ちゃんと治ってるね」と澄子は言った。
傷跡をそっと指でなぞりながら。「いつの傷?」
「子どもの頃の」と渉は言った。
声が出るか、わからなかった。
「そっか」澄子は小さく言った。
「ちゃんと治ってよかった」
その言葉が、渉の胸の深いところに落ちた。
ちゃんと治ってよかった。
それだけの言葉だった。
しかし渉には、その言葉が三十八年分の何かを含んでいるように聞こえた。
治ってよかった。
生きていてよかった。
ここまで来てよかった。
渉は手を引っ込めることができなかった。
澄子も、まだ渉の手首を持っていた。
二人の間に、しばらく沈黙があった。
やがて澄子が、そっと手を離した。
「帰りましょうか」と澄子は言った。いつもと変わらない声で。
「はい」と渉は言った。
二人は並んで歩き始めた。
渉の左手首に、澄子の指の温度が残っていた。
夜の冷たい空気の中で、その温度だけが消えなかった。
渉はコートの袖を下ろしながら、その温かさを閉じ込めるようにした。
確かめるまでもなかった。
しかし渉の中で、この夜に、すべてが決定的になった。
澄子は、母だ。
その事実を知った上で、渉はこの温度を手放したくなかった。
それがどういうことなのか——答えは出なかった。
出すことができなかった。
ただ渉は、答えが出ないまま歩き続けた。
澄子の隣を、夜の町を、どこまでも歩いていけるような気がしながら。
その夜、キヨの家に戻った渉は、縁側に一人で座った。
月が出ていた。
細い月だったが、冬の澄んだ空気の中で、光は鋭かった。
渉は左手首を見た。
傷跡は小さく、白かった。
ずっとそこにあった傷跡。
誰がどうつけたかも、どう治してもらったかも、記憶の中にない傷跡。
澄子の指が触れた場所を、渉はもう一度、自分の指で押さえた。
明日、また澄子に会う。
その事実だけが、今の渉には確かなことだった。
それ以上を考えることを、渉はまだ自分に許していなかった。
しかし——その夜、渉の胸の奥では、もうとっくに何かが始まっていた。
止められない場所へ、ゆっくりと動き始めていた。
渉はまだ、そのことに気づいていないふりをしていた。




