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第二章 雨と光

 最初に気づいたのは、音だった。

 雨の音は同じだった。

 細かい雨粒が路面を叩く、あの均一な音。

 しかしその下に流れている何かが、違った。

 車のエンジン音が、違う。

 遠くで鳴っているクラクションの響きが、違う。

 渉は目を閉じたまま、その違いを確かめようとした。


 目を開けた。

 交差点は、そこにあった。

 街灯も、信号機も。

 雨に濡れた路面が光を反射しているのも、同じだった。

 しかし渉が今朝まで知っていた交差点と、何かがずれていた。

 信号機の形が古い。

 街灯の色が、心なしか黄みがかっている。

 そして——対角線上にあるはずのコンビニが、ない。


 渉はゆっくりと一回転した。

 コンビニの場所には、古い薬局があった。シャッターが下りている。

 その隣の空き地には、見覚えのない木造の建物が建っている。

 川沿いの道に続く方向を見ると、電柱の広告看板の字体が、どこか懐かしいデザインをしていた。


 渉は自分の手を見た。濡れている。震えている。

 しかし手そのものは、自分の手だった。

 三十八歳の、傷の一つや二つある、自分の手。


 ここはどこだ。いつの時代だ。

 頭の中で声が響いた。

 しかし答えを出す前に、別の問いが割り込んできた。

 どうすれば、帰れる。


 渉は交差点を渡り切って、歩道に上がった。

 とにかく雨宿りをしなければならなかった。

 身体が冷えていた。コートは着ていたが、ずぶ濡れだった。

 渉は川沿いの道を避けて、商店街の方向へ歩き始めた。

 叔母の家はあの方向のはずだが、今見えているこの町が、自分の知っている町と同じ場所なのかどうか、まだ確信が持てなかった。


 歩きながら、周囲を観察した。

 すれ違う人の服装が、どこかくすんでいた。

 色が少ない。女性のコートの形が、今の流行りとは違う。

 男性が被っている帽子の型が古い。

 渉は視線を落として、足元を見た。

 自分が履いているスニーカーは、明らかにここでは浮いていた。


 商店街に差し掛かった。

 街灯の間隔が現代より広く、暗い場所がある。

 開いている店は少なかった。肉屋、八百屋、小さな電器屋。

 電器屋のショーウィンドウに、テレビが並んでいた。

 ブラウン管のテレビだった。

 渉は立ち止まった。

 ブラウン管。

 渉が子どものころでさえ、薄型テレビへの移行が始まっていた。

 ブラウン管が当たり前だった時代は、もっとずっと前だ。


 どういうことだ。

 いつの時代に来てしまったのか。


 渉は雨の中、電器屋のショーウィンドウの前に立ちつくした。

 テレビの画面の中で、ニュースキャスターが何かを話していた。

 音は聞こえない。

 ガラス越しに、画面の隅にある日付のテロップを読もうとした。

 にじんでよく見えない。渉はガラスに額がつくほど近づいて、目を細めた。

 昭和五十八年。十一月。


 渉の頭の中で、数字が動いた。

 昭和五十八年は西暦で言えば、一九八三年。渉が生まれたのは——

 渉は計算した。

 自分が生まれたのは一九八六年だ。

 今が一九八三年なら、自分はまだ生まれていない。

 三年後に生まれる。

 そして三年後に生まれて、三歳になったころ、父と母はこの町の交差点で死ぬ。

 渉は額をガラスから離した。

 雨が強くなっていた。


 商店街の端に、小さな喫茶店があった。

 手書きの看板に「珈琲 ことぶき」とあった。

 ドアの上に庇があり、そこだけ雨が当たっていなかった。

 渉は庇の下に駆け込んだ。ずぶ濡れのコートから水が滴り落ちた。

 息を整えながら、渉は考えた。

 一九八三年。

 父と母が生きている時代。

 父は今ごろ二十五か二十六歳のはずで、母は二十三か二十四歳。

 渉が生まれる、三年前。


 この町に、二人はいる。

 その事実が、じわりと胸に広がった。

 いる、というのがどういうことか、渉にはまだうまく飲み込めなかった。

 遺影の中でしか知らない二人が、今この町のどこかで生きている。

 呼吸して、歩いて、笑って。

「すみません、中に入りませんか」

 声をかけられて、渉は振り返った。

 喫茶店のドアが開いていた。

 中から顔を出しているのは、女性だった。

 二十代の前半に見えた。

 明るい色のセーターを着て、少し濡れた前髪を片手で押さえながら、渉を見ていた。

「びしょ濡れじゃないですか。入った方がいいですよ、風邪ひきますよ」

 渉は少し戸惑った。

 見知らぬ人間に声をかけられる心の準備ができていなかった。

「あ、はい」と渉は言った。

「でも、濡れてるので」

「そんなの気にしないで。私もさっきまで外にいて、濡れてたんです。マスターは気にしないから」

 女性はそう言ってドアを大きく開け、渉が入れるように空間を作った。

 渉は少し躊躇してから、中に入った。


 店内は小さかった。

 カウンターに四席、テーブルが三つ。

 煙草とコーヒーの混ざった匂いがした。

 カウンターの奥に、白髪の男性が一人立っていた。

 渉を見て、軽く頷いた。それだけだった。

 渉は窓際のテーブルに座った。

 女性は渉の向かいではなく、一つ隣のテーブルに戻った。

 テーブルの上には、文庫本が一冊、開いたまま伏せてあった。

「コーヒーにしますか? 温まりますよ」と女性が言った。

「はい、お願いします」


 カウンターの男性が黙ってコーヒーを淹れ始めた。

 渉はコートを脱いで、椅子の背にかけた。

 ポケットの中を確認した。財布があった。

 ここで通用するかわからないが、あるだけましだった。


 女性が伏せていた文庫本を手に取り、また読み始めた。

 渉はその表紙を横目で見た。

 見覚えのある作家の名前があった。

 渉が学生のころ好きだった作家で、今は絶版になっている本だった。

 ここでは新刊か、あるいは出たばかりのものかもしれない。


 コーヒーが運ばれてきた。

 渉は両手でカップを包んだ。温かかった。

 その温かさが、少しだけ渉を現実に引き戻した。

「旅行ですか?」と女性が聞いた。本から目を上げずに。

「え?」

「この町の人じゃないかな、と思って。服が、なんか違うから」

 渉はコートを見た。確かに、ここでは浮いている。

「少し、遠くから来ました」と渉は言った。

「遠くって、どのくらい?」

 女性が顔を上げた。悪気のない、純粋に気になっているという顔だった。

 くりっとした目で、少し頬に赤みがあった。

 雨に当たっていたせいかもしれない。

 渉は答えを探した。

「想像できないくらい遠くから」

 女性は一瞬だけ不思議そうな顔をして、それから「そっか」と言った。

 それ以上聞かなかった。本に目を戻した。

 渉はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。深く、古い焙煎の苦さだった。

 店内に、しばらく沈黙が続いた。

 雨の音が、庇を叩いていた。


 女性が先に口を開いた。

「この本、好きですか?」

 渉は女性が手にしている文庫本を見た。

「読んだことがあります」

「どうでした?」

「好きでした。特に後半の、主人公が結局何も変えられないまま終わるところが」

 女性は少し目を見開いた。

「同じです。あそこが好きな人、あまりいないんですよね。変えられないのが悲しいって言う人が多くて」

「変えられないから、美しいんだと思います。どうにもならないものが、どうにもならないまま終わる。それが本物に近い気がして」

 女性は渉の顔をしばらく見た。

 それから「うん」と言って、小さく頷いた。

「そういう感じ、わかります」

 渉はコーヒーカップを持ったまま、女性の顔を見た。


 何かが、引っかかった。

 初めて会う人のはずなのに、どこかに既視感があった。

 顔の輪郭、というより、もっと漠然とした何かだった。

 雰囲気、とも少し違う。

 ただ、この人のそばにいると、何か落ち着く気がした。理由はわからなかった。

「名前、聞いてもいいですか?」と渉は言った。

 自分でも少し唐突だと思いながら。

 女性は少し笑った。

「澄子です。佐々木澄子」

 渉は「桐島です」と言った。

 下の名前は咄嗟に出なかった。苗字だけ言って、止まった。

 桐島という苗字は、ここでは使えない気がした。

「あ、渉といいます。桐島渉」


 桐島という苗字を名乗ることに、わずかな迷いがあった。

 しかし父の苗字でもあり、自分の苗字でもある。

 今更変えることもできなかった。

「渉さん」と澄子は言った。

「変わった人ですね」

「そうですか」

「ええ。想像できないくらい遠くから来て、びしょ濡れで、でも本の話になると急に饒舌になる」澄子は笑った。

「嫌いじゃないですけど」

 渉はその笑い方を見た。

 また、あの感覚があった。

 既視感、という言葉では足りない何か。

 懐かしい、という言葉とも少し違う。

 ただ、この笑い方を、どこかで知っている気がした。

 渉はその感覚の正体を探ろうとして、やめた。

 今は、それよりも先に考えなければならないことがある。


 雨は一時間ほどで上がった。

 渉と澄子は、気づけば二時間近く話していた。

 本の話、この町の話、澄子が勤めている小さな会社の話。

 澄子はよく笑い、よく話した。

 渉は聞き役に回ることが多かったが、それが自然だった。

 店を出る前に、渉はマスターに財布から小銭を出して支払いを申し出た。

 マスターは金額を言った。

 渉には見慣れない硬貨が混じっていたが、何とかなった。


 外に出ると、空が少し明るくなっていた。

 雨上がりの匂いが、冷たい空気に混じっていた。

「渉さん、泊まるところはあるんですか?」と澄子が言った。

 渉は答えに詰まった。

「ない、ですね」

「ない?」

 澄子が少し驚いた顔をした。

「それは困った。この町、旅館は一軒しかないんですけど、今の時期は泊まれるかどうか」

「なんとかなります」と渉は言った。根拠はなかった。

 澄子はしばらく渉の顔を見ていた。

 それから少し考えるような表情をして、

「うちの近所に、一部屋だけ貸してる家があるんですよ。お婆さんの一人暮らしで。もし良かったら聞いてみますか?」と言った。

「そんな、迷惑では」

「お婆さんの方が喜びますよ。話し相手になるから」澄子はあっさりと言った。

「行きましょう、まだ明るいし」

 渉は断る言葉を探したが、出てこなかった。

 それより、澄子についていくことに、渉の足が先に動いていた。


 澄子が案内した家は、商店街からほど近い路地の奥にある古い平屋だった。

 インターホンを押すと、中から「はあい」という声がして、しばらくしてから白髪の小柄な女性が出てきた。

 澄子の顔を見て「あら澄ちゃん」と言った。

 それから渉を見て「まあ」と言った。

 澄子が事情を話した。

 女性(高橋キヨという名前だった)は渉の全身をじろじろと見てから、

「変な格好ね」と言った。

 それからすぐに「まあいいわ、入って」と言って、奥に引っ込んだ。

 渉は澄子を見た。澄子が「良かった」と小声で言って笑った。

 その笑い方を、渉はまた、どこかで見た気がした。


 高橋キヨの家の一室を借りることになった。

 六畳の和室で、押し入れに古い布団が入っていた。

 窓から小さな庭が見えた。

 キヨは「いつまでいるの」と聞いた。

 渉は「わかりません」と正直に答えた。

 キヨは「変な人ね」と言ったが、嫌そうではなかった。

 澄子が「じゃあ私は帰りますね」と言って玄関に向かった。

 渉は見送りに出た。

「今日は助かりました」と渉は言った。

「どういたしまして」澄子は言った。

「渉さん、明日もここにいますか?」

「たぶん」

「だったら、明日の夕方、また珈琲ことぶきにいます。もし良かったら」

 渉は少し迷ってから、「行きます」と言った。

 澄子は軽く手を振って、路地を出て行った。

 渉はその後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、玄関に立っていた。

 夜の空気が冷たかった。

 渉は自分の両手を見た。まだ少し震えていた。

 しかし今は、さっきとは別の理由で震えているような気がした。


 その夜、渉は布団の中で眠れなかった。

 天井を見ながら、一九八三年という時間の中に自分がいることを、改めて確かめようとした。

 父はまだ生きている。

 母もまだ生きている。

 二人はこの町のどこかにいる。そしてさっきの澄子という女性は、——

 渉は考えを止めた。


 まだわからない。わかりようがない。

 ただ、あの既視感の正体が何なのかを考え始めると、心臓が妙な速さで打ち始めた。

 それが何を意味するのかを、渉は今夜は考えないことにした。

 目を閉じた。

 暗闇の中に、澄子の笑い方が浮かんだ。

 どこかで見た、あの笑い方。

 渉は眠りに落ちる直前、仏壇の古い写真の輪郭と、澄子の横顔が、静かに重なるような感覚を覚えた。

 しかしそれが何を意味するのか気づくより先に、意識が遠のいた。


 翌朝、渉は目を覚ました。

 窓から光が入っていた。

 庭の木が風に揺れていた。

 しばらくの間、ここがどこかわからなかった。

 それからゆっくりと、昨日のことを思い出した。

 一九八三年。

 長野の小さな町。

 雨の交差点。そして、澄子。

 渉は起き上がって、窓の外を見た。青い空があった。

 雨はすっかり上がっていた。


 この時代に来てしまったことの理由も、帰り方も、まだ何もわからなかった。

 しかし奇妙なことに、渉の胸の中には今、何か静かなものがあった。

 恐れでも、焦りでもなく、もっと根の深いところにある、落ち着き。


 この町に、父と母がいる。

 今日、この時代のどこかで、二人は生きている。

 渉はゆっくりと息を吸った。冷たく、澄んだ空気だった。

 まだ名前も知らない父と母のことを考えながら、渉は立ち上がった。

 夕方まで、この町を歩いてみようと思った。

 もし今日、澄子と会ったら——渉はその先を考えて、また止めた。

 ただ、会いたいと思っていた。

 それだけは確かだった。

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