第一章 欠落のかたち
十一月の終わりになると、東京の空はいつも低くなる。
桐島渉は、窓の外を見るともなく見ていた。
出版社の七階から眺める新宿の街は、夕暮れの中でゆっくりと色を失っていく途中だった。
ビルの輪郭がにじみ、遠くの信号機だけが律儀に赤と青を繰り返している。
デスクの上には、ゲラ刷りが三十枚ほど積んであった。
担当している作家の新作、第四稿。
渉は今日中に読み終えるつもりでいたが、もう四時間、ほとんど手をつけていない。
「桐島さん、今日は早めに上がっていいですよ」
隣のデスクから、後輩の田村が声をかけてきた。
入社三年目、まだ何でも真剣に受け取る年齢だ。
「叔母さんのところに行くんでしょう。ゲラは明後日までですし」
「ああ」と渉は言った。「そうだな」
それだけ言って、また窓の外に目を向けた。
田村が何かを言いかけて、やめる気配がした。
渉はそれに気づいていたが、振り返らなかった。
渉が文芸編集の仕事を始めて、もう十二年になる。
他人の書いた物語を世に送り出す仕事だ。
原稿を読み、著者と言葉を交わし、どう届けるかを考える。
それ自体は好きだった。
ただ、ここ数年、何かが少しずつ変わってきているような気がしていた。
原稿を読む速度が落ちた、というわけではない。
著者との関係が悪くなったわけでもない。
ただ、読みながら、自分とは関係のない話だという感覚が、以前より強くなっていた。
人の物語を扱う仕事をしながら、自分自身の物語を持っていない。
そんなことを考えたのは、美咲のせいかもしれなかった。
三日前の夜のことだった。
渉と中村美咲は、四谷の小さなイタリア料理店にいた。
二人が初めて食事をした店で、付き合い始めてからちょうど三年が経っていた。
美咲が予約を入れたのだから、記念日として意識していたのだろう。
渉はその日になって初めて気づいた。
料理が一通り終わって、ワインのグラスが二つ空いたころ、美咲が言った。
「渉、そろそろ、ちゃんと考えてほしいんだけど」
声の質が変わった。
渉はすぐにわかった。
美咲はふだん、感情を声に出さない。
それが変わる時は、本当に言いたいことを言う時だ。
「何を」と渉は言った。
聞くまでもなかったが、聞かずにはいられなかった。
「結婚のこと」
美咲は渉の目を見て言った。
逃げることを許さない目だったが、責めている目でもなかった。ただ、待っている目だった。
「三年だから、というわけじゃないの。ただ、私、三十五になって、いろいろ考えるようになって」美咲は少し間を置いた。
「渉のこと、好きだよ。一緒にいたいと思ってる。でも、このまま、という感じもしない。わかる?」
渉はわかった。同時に、何も言えなかった。
美咲が自分を好きだということは知っている。
自分も美咲を大切に思っている。なぜ踏み切れないのか、自分でもうまく説明できなかった。
家族を作ることへの漠然とした恐れ、と言えばそれらしく聞こえるが、それが正確かどうかもわからない。
ただ、何かが足りない気がずっとしていた。
何が足りないのかさえ、わからないまま三年が過ぎた。
「少し時間をくれ」と渉は言った。
美咲は「うん」と言った。怒っていない。
ただ、少し疲れたような顔をした。
その顔を見て、渉はもっと申し訳なくなった。
翌々日、叔母から電話があった。
「渉、今月来られそう? 少し話したいことがあって」
叔母の沢田房江は、渉が三歳から引き取って育ててくれた人だ。
父方の姉にあたる。七十二になった今も、実家のある長野県の小さな町に一人で暮らしている。
物事をはっきり言う人で、渉を「渉」と呼び捨てにした。それが変わったことはなかった。
「話したいこと?」
「電話じゃ長くなるの。来られる?」
渉は手帳を開くふりをして「行けます」と言った。
手帳を見るまでもなかった。行かなければならないと思った。
「来月の命日の前に来てちょうだい。その前後は、あなたもいろいろあるでしょうから」
命日。
十二月七日。父と母が亡くなった日だ。
「わかりました」と渉は言った。
「今週の週末に行きます」
金曜の夜、渉は長野行きの特急に乗った。
車窓の景色が都市から郊外へ、郊外から山へと変わっていく。
渉はその変化をぼんやりと眺めながら、両親のことを考えていた。
正確には、考えようとしていた。
いつもそうなのだ。意識的に思い出そうとすると、何もない。
映像がない。声がない。匂いがない。
父と母という存在は、渉の記憶の中で、ずっと輪郭だけの何かだった。
三歳だった。
事故が起きたのは十二月の夜で、雨が降っていたと叔母から聞いた。
父と母が散歩から帰る途中、実家の近くの交差点で車に轢かれた。
二人とも即死だったと聞かされたのは、渉が十五か十六のころだった。
叔母はあまりそのことを話したがらなかった。渉も、それ以上聞けなかった。
仏壇には遺影が二枚ある。
叔母の家の奥の部屋に置かれた小さな仏壇で、渉は帰省のたびにその前に座った。
写真は古く、小さかった。
父の写真は少し色褪せていて、表情がはっきりとわからなかった。
母の写真は父より少し鮮明で、若い女性が映っていることはわかった。
でも顔の細部は、長年見てきたはずなのに、記憶の中ではいつも滲んでいた。
生きた人間の顔ではなく、「父母」という概念の象徴として、その写真はそこにあった。
渉はそれを、空白と呼んでいた。
自分の中心にある、どうすることもできない空白。
叔母の家は、駅から歩いて十五分ほどの静かな住宅地だった。
玄関を開けると、味噌汁の匂いがした。
叔母は台所に立っていて、振り返りもせずに「上がって」と言った。
渉は靴を脱ぎながら、この家の匂いをしばらくぶりに肺に入れた。
畳と古い木材と、叔母が好んで使う石鹸の匂い。
子どものころから変わっていない匂いだった。
夕食を済ませてから、二人は居間のこたつに入って茶を飲んだ。
叔母はしばらく世間話をした。
近所の話、体の話、あとはぽつぽつと渉の仕事の話。
渉は相槌を打ちながら、叔母が本題に入るのを待った。
しばらくして、叔母が茶碗を置いた。
「渉、あなた、事故現場に行ったことある?」
渉は少し間を置いてから「ない」と言った。
「なぜ」
「なぜ、って」
渉は答えに詰まった。
なぜ行ったことがないのか。考えたことがなかったわけではない。
ただ、いつも何かが足を向けさせなかった。
意識的に避けていたわけでもないが、自然に遠ざかってきた。
まるで、そこだけ地図から消えているかのように。
「行けなかった、というか」渉は言葉を探した。
「なんとなく、近づけなかったんだと思います」
叔母は黙って渉を見た。責めている顔ではなかった。
何かを確かめているような顔だった。
「あなたのお父さんとお母さんが亡くなったのは、この町の外れにある交差点。今もあの交差点はそのままよ。信号機が新しくなって、周りの家が少し変わったけど」叔母は続けた。
「私は毎年、命日に花を持って行くの。あなたは一度も来なかったでしょう。それでもいいと思っていた。でも最近、それでいいのかしら、と思い始めて」
「どういうことですか」
「あなた、このまま行かないかもしれないでしょう。でも私も、いつまでも元気でいられるわけじゃないし」叔母は静かに言った。
「場所だけでも、教えておこうと思って」
渉はこたつの天板を見た。木目が細かく走っている。
「駅の方から来ると、商店街を抜けて、突き当たりを左に曲がった先にある交差点よ。川沿いの道に出る手前。わかる?」
「わかります」
渉はその道を知っていた。子どものころ、何度も通った道だ。
ただ、その先の交差点を、意識したことがなかった。
あるいは、意識しないようにしていたのかもしれなかった。
叔母は「行ってみなさい」とは言わなかった。
ただ、場所を伝えた。それだけだった。
その夜、渉は客間に布団を敷いて横になったが、眠れなかった。
天井を見ながら、美咲のことを考えた。
「そろそろ、ちゃんと考えてほしい」という言葉が、まだ耳に残っていた。
渉は考えようとした。
しかし考え始めると、いつも同じ場所で止まった。
家族を作るということが、どういうことなのか、自分にはわからないのだ。
父と母と、三人で暮らした記憶がない。
家族というものの手触りを、渉は知らないまま大人になった。
それが、どこかに響いている気がしていた。
美咲への気持ちは本物だと思う。ただ、踏み出すための何かが、どこかに欠けている。
渉は目を閉じた。
暗闇の中で、仏壇の遺影が浮かんだ。
小さく古い、滲んだ写真。
母の写真の、輪郭だけのような女性の顔。
渉はその顔を思い浮かべようとして、やはりうまくできなかった。
いつもそうだ。どれだけ見てきても、その顔は自分の中で像を結ばない。
翌朝、渉は叔母に言った。
「明日、帰る前に行ってみます」
叔母は何も言わなかった。ただ、少し目を細めた。
翌日の夕方、渉は一人で家を出た。
空は重く垂れ込めていた。十一月の終わり、この町の夕暮れは早い。
商店街を歩き、叔母に教えてもらった道を辿った。
歩きながら、なぜ自分がこれまでここに来なかったのかを考えようとした。
しかし考えるほど、答えがわからなくなった。
怖かったのかもしれない。
見てしまったら、何かが変わってしまう気がしたのかもしれない。
あるいは、何も変わらないことが怖かったのかもしれない。
商店街を抜けて、突き当たりを左に曲がった。
川沿いの道に出る手前に、交差点があった。
渉は立ち止まった。
小さな交差点だった。
信号機が一本、街灯が一本。周囲に古い家が数軒、それだけの場所だ。
特別な場所には見えなかった。
しかし渉は、そこに近づくにつれて、胸の奥に何かが重くなっていくのを感じた。
言葉にできない感覚だった。
悲しみとも、恐れとも、少し違う。もっと古い、もっと深いところにある何かが、そこに向かって引き寄せられているような感覚。
雨が降り始めた。
細かい雨だった。
傘を持っていなかった。
渉はそのまま、交差点に向かって歩き続けた。
信号が変わる。赤から青へ。
渉は横断歩道を渡り始めた。
交差点の中央まで来た時、足が止まった。
ここだ、と思った。
父と母が死んだのは、ここだ。
雨の夜に、ここで。
渉はびしょ濡れになりながら、交差点の中央に立っていた。
街灯の光が濡れた路面に反射している。
渉は空を見上げた。雨が顔に当たった。
その瞬間だった。
世界が、静かになった。
雨の音が遠のいた。
街灯の光がにじんで広がり、周囲の輪郭が溶けていくように揺れた。
渉は足元を見た。
路面が光っている。
いや、光が揺れている。
全身が重くなり、次の瞬間、軽くなった。
意識が、途切れた。
気づいた時、渉はまだ交差点の中央に立っていた。
雨は降っていた。街灯もあった。
しかし何かが、違った。
渉はゆっくりと周囲を見回した。
さっきまでそこにあったはずのコンビニが、ない。
川沿いに続く道路の舗装が、違う質感をしている。
遠くに見える建物の輪郭が、どこか見慣れない形をしている。
走り去っていく車の形が、古い。
渉は路面を見た。
濡れたアスファルトに、街灯の光が反射している。
その光景は同じだった。
しかし空気が違う。匂いが違う。
この町の空気から、自分が知っているはずの何かが、抜け落ちている。
渉は自分の手を見た。震えていた。
ここはどこだ。いつの時代だ。
答えは出なかった。
ただ、雨が降り続けた。
渉は交差点の中央に立ちつくしたまま、どこかへ向かう足が出なかった。
さっきまで確かにそこにあったものが、消えている。
そしてここには、まだ知らない何かが、始まろうとしていた。




