彼女のこと
腕時計を見る。21時57分。夜勤は22時からだ。そろそろバイト仲間から電話がかかってくるかもしれない。
しかしバイトより重要なことがあった。
「もう夜遅くなってしまいました。そろそろ行きましょう」
「ああ、夜勤でしたね。やはり22時からですか」
彼女の言葉に、憂いや寂しさは滲んでいなかった。
「夜勤は22時からですが、それより重要なことがあります。さあ、家に帰りましょう」
私は彼女の肩に手を置く。セーラー服越しでも華奢だと分かった。小さい肩。体温は伝わってはこなかったけれど、やはり彼女は幽霊ではないと分かった。
「送ります。一緒に帰りましょう」
「…あなた、今から夜勤なんでしょう」
「しかしあなたをほうってはおけません。もしほうっておいてあなたに何か起こったら、私は後悔してしまう」
バイト仲間には侘びを入れておこう。許してもらえないかもしれないが、その時はその時だ。
「なぜそんなに心配なんですか」
「だってあなた、セーラー服でしょう。つまり若いし…セーラー服ということは学校から帰ってそのまま。なのに親が捜しに来る気配はない。もしかして一人暮らしなのでは」
「…だったらどうだというんです。確かに私は一人暮らしですが、今時学生の一人暮らしなどよくあることです」
「しかし心配ですよ。こう言っては非常に失礼かもしれないが、あなたのような人をほうっておくわけにはいかない」
人によってはかなり失礼な言い方かもしれない。実際、彼女は明らかに気分を害した様子で、肩におかれた私の手を振り払った。
「何がそんなに心配なのです。こんな田舎です。別に変質者が出るわけでもありません。ほうっておいてください」
田舎だから変質者がいないとは限らないが、それは問題ではなかった。
「駄目です。私の性分が許さないのです」
「頑固な人ですね。なにをそんなに」
彼女が本気で嫌がっているようだから、言うしかないと思った。
「あなたは目が不自由なのでしょう」
会話が途切れる。彼女の動きがピタリと止まり、やがてこくりと唾を飲んだ。
「なにを…」
訳の分からないことを、と続けたが、その言葉は弱弱しく夜の闇へ融けていってしまった。
「杖ですよ。あなたは護身用のステッキといいましたが、苦しいですね。杖を使うのは足の不自由な人か目の不自由な人だけです」
ステッキは護身用で、それを武器に異性を追い払うと彼女は言った。しかし護身用ならスタンガンや警笛あたりが妥当なところだ。わざわざステッキを持ち歩く物好きは中々居ないだろう。
「なら足が不自由なのかもしれないでしょう」
「足が不自由な人はわざわざ視界の悪い夜に舗装が不十分な公園へ散歩しには来ませんよ」
「根拠薄弱ですね。それだけで目が見えないなんて。それにステッキだって、本当に護身用の可能性もあるでしょう」
私は少々苛立った。なぜ素直に頼ってくれないのだ。
夜道は危険だ。まず不審者との遭遇確率が増える。目の見えない彼女がもし悪意ある人物に出会ったらなんて想像したくもない。それにもし倒れたり、あるいは体調を崩す等して動けなくなったらどうする。夜22時では助けも求められない。田舎の夜は人が少なく、声を上げても誰にも届かないから。
素直に私と一緒に帰れば安全なのに。
私はそんなに頼りにならない人なのか、と苛立った。出会ったばかりの私を信頼しろと言うほうが無理があるのだけれど。
確かに私と彼女は今出会ったばかりだけど。
しかし頼りにされないのは不本意だった。
―おそらく私は彼女に好意を持っていた。
だから本当のことを言おうと思った。
「ところであなた、先程なんと云いましたか?」
「先程、とは?」
彼女の声は心なしか攻撃的になっていた。
「あなたと私の出会いについてですよ。あなたは云いました。私とあなたの出会いは幽霊との邂逅ではなく―」
「―ボーイミーツガール、ですか」
「それはありえない」
「何がありえないのです」
「私とあなたとの出会いがボーイミーツガールというのはありえません。
私とあなたとの出会いはガールミーツガールなのです。
なぜなら私は女性だからです。
あなたは、私を男性だと思っているのでしょう?」
彼女は口を半開きにして固まった。虚ろな瞳は、今までになく大きく見開かれていた。
そんな彼女の表情がとても人間的で。
私は幽霊ではない彼女と出会えてよかったな、と場違いにも思った。
彼女は私を男性だと勘違いしていた。違和感は所々に存在した。
―彼女は杖を持っていた。彼女はその杖を護身用と偽り、武器を持った女性に男は敵わないのだと豪語した。続けて、「あなたも例外ではない」と言った。どういう意味だろうか。なぜ「男に勝てる」という話しの後に、女性である私を、その例外ではないと言ったのだろうか。
―恋人が居るいないの話になった時。私に恋人が居ないことを、彼女は当ててみせた。それは彼女曰く「女の勘」であった。そして彼女は女の勘を「あなたには分からないでしょうが」と言った。なぜ分からないのだろう。私も女なのだから、女の勘は分かるはずではないか。
―なぜ夜の公園にきたのか。私はコンビニ夜勤へ行くついでによった。そして彼女は深夜徘徊の癖があるから、と言った。彼女は「女が深夜徘徊してはいけませんか?」と訊いた。私に訊く言葉ではないだろう。私もまた、夜の公園に来ている女性なのだから。
もし彼女が、私のことを男性と勘違いしているのなら、以上の会話の齟齬も納得できる。
―ステッキを使えば男性にも勝てる。あなたは男性なのだから、例外ではない。
―あなたに恋人が居ないことは女の勘で分かった。男性のあなたには分からないだろうが。
―自分には深夜徘徊癖がある。男性のあなたは、女の深夜徘徊を非難するだろうか。
こう言い直せば、違和感はないだろう。
加えて、ボーイミーツガール。彼女は私との出会いをボーイミーツガールと言った。ボーイミーツガールとは当然、男性と女性が出会う物語を指す。
しかしそれはありえない。彼女も私も、女性だから。ここまでの物語は、ガールミーツガール。二人の女性が出会う物語に違いないのだ。
なぜ彼女は私を男性と勘違いしたのか。
その疑問から、彼女は目がほとんど見えないのではないかと思い至った。
夜の公園は美しい。夜に映える僅かな光が美しいのだが、私の場合、眼鏡が曇ってしばしばぼやけてしまう。そう、私はマスクをしている。マスクをしていると、声も篭る。加えて喉を痛めている。普段より低い声しか出ない。だから彼女は、声から私の性別を判断することは出来なかった。
また私は彼女と違い大柄な体型である。だから、彼女が全盲ではなく多少は目が見えていたにしても、多少、では私の体型から性別を判断することは出来なかった。
加えて私の髪型は、彼女と正反対のショートボブ。ショートボブは基本的に女性の髪型だから、もし目が見えていたら、私を見て男性だとは思わないだろう。しかし目が不自由なら、短髪であるショートボブという髪型から性別を判断することは難しかっただろう。
まして今は夜22時の公園である。夜の公園で女性と男性のどちらと出会う確率が高いか考えれば、どうしても男性の確率が高くなるだろう。このシチュエーション自体も、彼女の勘違いを手助けしてしまった。
彼女は目がほとんど見えていない。思えば、彼女の推理にも少々不思議なところがあった。彼女は私の腕時計とバッグから私がコンビニ店員だと推理したのだが、その存在の指摘が少々ぎこちなかった。
腕時計は「言ってましたよね『私の時計だと22時近い』って」。
バッグは「先程バッグを置く音がしました」。
私は腕時計をしているし、バッグは私と彼女の間に置いてある。にも拘らず彼女は「その腕時計」「ここに置いてあるバッグ」と言わず、わざわざ私の言葉と物音から腕時計とバッグの存在を指摘している。目の見えない彼女は、私が腕時計をしていることも、隣にバッグが置いてあることも、視覚情報として知覚できなかったのだ。だからどうしても視覚ではなく聴覚、音の情報しか推理に使うことが出来なかった。
杖を持っていること、推理に視覚情報を使用していないこと、そして、私を男性だと勘違いしていること。
これらから、彼女は目が不自由なのだと推察した。
私の考えは当たっていたらしい。
私の指摘に、彼女はしばらく口を開いて固まっていたが、やがてもとの無表情に戻ると。
「悪い人ですね。性別を誤認させるなんて」
と小さい声で呟いた。彼女の頬が上気していて、羞恥を感じているのだと察した。
「あなたが勝手に勘違いしていただけでしょう」
「これは冷たい。おかげで恥ずかしい思いをしました」
と言いつつ、赤みを帯びた頬は既にその色味を失い、元の純白を取り戻していた。
「しかし、バイトには行ってください」
彼女は思いのほか頑強だった。
「私はあなたが心配です」
「心配してくれるのはありがたいですが、仕事をサボタージュするのはよくありません。やるべきことはやるべきです」
しかし、と反駁しようとする私に、彼女は言葉を重ねる。
「それに、私を理由に仕事を休まれるのは気が引けます。私はあなたに迷惑をかけたくありません」
「迷惑なんて思っていませんよ」
と言ったが、確かに、あまり気を使うと逆に相手に気を使わせてしまう。そんな現象はよくある。
しかし気を遣いあう関係は嫌だった。
彼女との間では。
スマートホンのバイブレーションが夜の闇に鳴り響く。私はスマートホンを手に取り、電話に出て、謝った。バイト仲間に謝り。
今から行くと伝えて電話を切った。
「分かりました。あなたはこの公園まで一人できたんだ。一人で帰るのも問題ないでしょう」
「当たり前です」
「だからこれは妥協案だ」
私はスマートホンで通信のアプリケーションを起動した。
「私の連絡先を教えます。そしてあなたが家に着いたら私に電話をください。そしたら私は安心して寝られると言うものです」
目の不自由な彼女でも、おそらく通信機器は持っていると思った。彼女は一人暮らしだ。ならば、外部と連絡を取る何かしらの手段は持ち合わせているはずだ。
「私の連絡先を手に入れて、何か悪巧みでもするのですか」
「…懲りない人ですね。言ったでしょう。私は女性ですよ。そんなに警戒しないでください」
彼女はまた正面を向き、しばらく逡巡した後、携帯電話を取り出した。スマートホンではなく、所謂ガラケーのようだ。そちらの方が何かと都合がいいのかもしれない。
「分かりましたよ」
いかにも渋々といった声音。しぶしぶながらも、彼女は取り出した携帯電話を操作する。音声ガイドというのだろうか。携帯電話から流れる音声を聞きながら、彼女は私の連絡先を自分の携帯電話へと打ち込んだ。失礼だが、目がほとんど見えないはずなのに器用なものだと感心した。
彼女は本当に一人暮らしなのだろう。だから一人で生きていける知恵を持っているはずで。だから私の心配は本当に「余計なお世話」なのかもしれない。今出会ったばかりの私が、彼女の身の心配をするのは、無意味で、僭越ですらあるだろう。
しかし私は、彼女と連絡先を交換できて、安心した。正直に言えば嬉しかった。彼女も苦々しげな表情を作りつつ、それが作った表情であることは、少しだけ上がった口角でうかがい知ることが出来た。
「連絡、忘れないでくださいよ」
「しつこいです」
「また暇な時にでも会いましょう」
「…本当にしつこい」
なんていう彼女の頬は少しだけ紅潮していて、ベンチを立って杖を頼りに歩き出す様も、どこか楽しげに見えた。
聞けば彼女の家は歩いて5分程度のところにあるらしい。本当に付き添ってもよかったが、彼女の意思を尊重して、彼女が公園から出るまで見届けるだけに留めた。
彼女が公園を離れて、私もまた公園を出る。バイトへ行く。少し遅刻だ。バイト仲間には申し訳ないことをした、謝って、なにかおごって。
なんて考えながら、私は気持ちが浮ついているのを確かに感じた。
そこで私は分かった。今度こそ本当に分かった。
私が夜の公園に寄った理由。それは非日常を見つける為でもあり、ただのバイトのついででもあった。
でも本当は、友達が欲しかったんだ。
ーつまり私は、誰かと出会いたかったのだ。