私のこと
星を見るために来たわけではなかった。
だから夜空を見上げて、その美しさに感動する前に、まず驚いた。
冬の夜空は綺麗だ。田舎の公園なら尚更に。
公園の中心には大きな池があり、その周りを歩道が囲み、さらにその回りには背の高い木々が植えられている。木々に囲まれた大きな公園。公園の外側は寂しいものでマンションやアパートがちらほらある程度だ。住宅以外はせいぜいコンビニが近くにあるぐらいか。公園の内側から外側を見渡すと、辺りを囲む木々の間から、少ないながら住宅の窓が見え、そこから漏れる明かりが目を楽しませる。マスクのせいで眼鏡が曇り、その明かりがしばしばぼやけるのは残念だったけれど。
しかし夜は光が映える。
池の周りを囲む歩道にはベンチが数箇所設置されており、その付近には外灯がぽつりぽつりと控えめに添えられる。田舎の公園らしく、少々頼りない光度の外灯は、夜の闇を壊さない程度に周辺をぼんやりと照らしていた。
公園といっても遊具は置いていない。隅に公衆トイレがあるくらいで、大時計すらありはしない。
しかし池は中々に立派だ。
公園の中心にある円形の池。円周2km弱と広く、この辺りでは珍しい。1周するのに徒歩20分といったところか。一見散歩やジョギングコースに最適とも思えるが…ランナーは見当たらない。理由は幾つかある。歩道が少々凸凹しており走り辛いこと。自販機すら置かれていないから、喉が渇いたら近くのコンビニへ行く必要があること。
これらが災いして、この公園はあまり人気がない。
私にとってはそれがありがたかった。
頼りない外灯を頼りに私は歩道を進んでいく。
アスファルトで舗装された歩道。しかし先述した通り隅々まで整備されているわけではない。また若干の高低さがあるため、あまり早足で歩くと危うい。下手に足を滑らせ池にでも落ちたら、ただ事ではすまないだろう。池の周囲は転落防止の柵に覆われてはいるが、老朽化が進んでおり心もとない。加えて時刻は夜だ。腕時計を見ると21時40分。こんな時間では助けも期待できない…実際、池の周りを半周しても誰ともすれ違わない。女の私としては、変質者とすれ違わないことに感謝すべきかもしれない…余計な心配だろうか。
気まぐれに足を止めて、ベンチに座りボディバッグを隣に置く。バッグの中に入った財布が揺れて、かちゃりと硬貨の擦れる音がした。
一つ息を吐く。
吐いた息はマスクで自分に返ってきてしまい、自分自身の眼鏡を曇らせる。
ベンチからは柵に囲まれた池と、公園全体が見渡せる。周りの木々と、さらにその周りを囲む住宅が見える。
住宅から漏れる明かりが夜の池に反射する。住宅といっても高層マンションは皆無で、せいぜい5階建て程度のマンションが1棟、2階建ての個人住宅が数軒あるに過ぎない。だからそれら住宅から漏れる明かりは決して派手ではない。そもそもこの公園は木々に囲まれている上、外灯も少なく、光源そのものが乏しい。
だから決してイルミネーションなんて呼べる代物ではなかったが。
しかし池に反射した控えめな明かりは、少しだけ非日常を感じさせてくれるほどには美しかった。女にしてはロマンチストではない私だが、美しいものを美しいと感じる心は失っていない。
思わず、見入ってしまう。
その美しさに眼を奪われていたからか。あるいは夜の暗闇が感覚を鈍らせたのか。
私は隣に座る存在に気付かなかった。
バッグを挟んだ右隣から微かな気配を感じて。
そこで私は初めて、同じベンチに誰かが座っていることに気が付いた。
そちらを向こうとして…ためらって正面に向き直る。
夜の公園。そのベンチに座る何者か。それがもし、人ならざるものだったら…
―まさか。何を考えているのだろう。夜の公園だから幽霊が出るかもなんて、子供じゃあるまいし。私は少しだけ羞恥を覚えて苦笑する。
ぽちゃりと。
池で水の跳ねる音がした。
大きな音ではない。おそらく魚が跳ねた音だろう。その程度の音でも深夜の静寂の中では存外目立つ。
だから私は音のした方に首を向けた。意識的にではなく、反射的に首が動いた。音がしたからそちらを向く。そんな自然な反応だ。
音のした方…池の、右の方…
前方斜め右を向くと、隣に座るその人が、視界の片隅に入った。
その人も今の音が聞こえたらしい。私が右を向くのに数瞬だけ遅れて、右を向いた。
だから今、右を向いた私の視界の片隅には、その人の…彼女の、後頭部が見えている。
長く艶のある黒髪が小さい背中へと流れている。私と同じ、女性。しかし女性にしては大柄な私とは対照的な、細く頼りない後ろ姿。
今は後ろ姿しか見えないけれど、彼女がそちらを向いたのは私とほとんど同時だったから、一瞬だけ、彼女の横顔が見えた。
ちらりと見えただけでも記憶に残るほど、白い頬。すっと線のように細められた眼。
今は後頭部しか見えていないから。もう一度彼女の顔を見たいと思って、私は、音のした方の暗い池を見ながらも、視野の中心を徐々に彼女へと移動させていった。
美しいものをもう一度みたいというよりも、怖いもの見たさという気持ちが勝っていた。
だから彼女がこちらを振り向いた時。
歓喜や羞恥よりも寒気の方が先に来た。
「鯉、でしょうか」
彼女と正対して。何か口にしなければと思った。この池に鯉が生息しているかどうかは知らなかった。
彼女はさあというように小首を傾げると。
「人が落ちたのでなければいいですが」
と無表情で言った。
「人ではないでしょう」
そんなに大きな音ではなかった。それに。
「私の時計だと、もう22時近い。こんな夜に、人はいません」
「冗談ですよ」
彼女は薄い唇を少しだけ吊り上げた。
彼女の声音があまりにも平坦だったから。彼女が微笑んでいるのだと気付くまで、数秒の時間がかかった。
さらりと風に揺れる艶やかな黒い長髪。肌は白く夜の闇によく映える。どこを見ているか定まらない細い目と、赤ともピンクともつかない淡く薄い唇は、どこか神秘的である。それでいて、頬から顎にかけての輪郭がすっと通っており、全体としては極めて鋭利な印象を受けた。
服装はセーラー服。どこの制服だろう。私は学生ではないしこの辺りで育ったわけでもないから、どこの学校の制服かは分からない。おそらく近所の学校の学生なのだろう。
まさか遠くから深夜の公園に来ることもあるまい。
ところで、私は容姿の整った同性を見ると、しばしばコンプレックスを覚えることがある。
しかし彼女に対してそんな感情は抱かなかった。それは彼女の年齢が私よりおそらく5,6ほど若いからではなく、またショートボブの私と黒髪ロングの彼女ではタイプが違いすぎるから…でもなかった。
彼女は現実から浮き出た存在のように思えたから。
彼女の姿形はそれほど人間離れしていたわけではなかったけれど。
夜の公園と制服の少女という組み合わせや、初対面の私に対して威嚇はおろか警戒の色すら微塵も見せない彼女の雰囲気が、そんな印象を抱かせた。
「幽霊みたい」
思わず呟いた。その呟きはほんの微かに違いなかったが、目の前の彼女には聞こえたらしい。
「幽霊?私がですか?」
「…すいません。自分でも何を言っているのか…」
「幽霊。いいじゃないですか。
私は本当に幽霊なのかもしれませんよ」
「…そんなはずはない。現に私はあなたを見ている」
生憎私には霊感などないから。
「幽霊だって、見える人には見えるものです」
「私は見える側の人間ではないので」
「私とは霊的な波長が合うのかもしれませんよ」
「…でたらめです」
波長が合ったら見えないものが見えるなんて、テレビやラジオじゃあるまいし。
「では逆に、私が幽霊でないと証明することが出来ますか」
幽霊でないことの、証明…幽霊とは不可思議な存在だ。存在自体があやふやでぼんやりしている。あやふやでぼんやりしているからこそ「そうでないこと」を証明するのも、また難しそうだった。
私が口をつぐんでいると、薄く微笑んだままこちらを向いていた彼女は、視線を池に戻した。
彼女は、幽霊なのだろうか。
そんなはずはないと確信しながらも、そうでないとも言い切れない神秘的な雰囲気を、彼女は持っていた。
それに…たとえ幽霊であったとしても、それはそれでいいのではないか。
目の前の少女は幽霊かもしれない。もし幽霊だとしたら…面白いではないか。
彼女と同じように、私も池のほうへ向き直った。彼女が人だろうが人ならざるものだろうが、夜の池の暗い美しさに変わりはない。
「綺麗な池ですね」
正直な感想だった。
彼女は黙ったまましばらく返事をしなかった。無視されたのかと思ったけれど。
「そうですね、夜の池も、綺麗です」
と応えた彼女の声は、決して不快ではないように思えた。
夜の池は確かに綺麗だ。池の水面は、まるで鏡のように空の景色を反射させる。朝は青空を、夕方には夕日を反射させるはずで、きっとその景色は見応えがあるのだろう。
しかし今は夜。池の水面に反射するのは、深い闇とわずかな住宅の光だけ。
一見地味なようだが。
水面に映った漆黒の闇はまるで底のない穴のようにどこまでも暗い。だからこそその暗さの中に点々と灯る光は鮮やかに煌いている。
見上げると、美しい田舎の夜空が見渡せる。
けれども。星々に彩られた夜空ほどの華はないにしても。
夜の池もまた美しいと言えるのかもしれなかった。
「確かに、綺麗ですね」
彼女の言葉に答えてから、私は自分で自分の言葉に頷いた。
夜の池は美しく、そして夜の公園は闇と静寂が支配する。
私の言葉に、彼女は返事をしなかった。私も言葉を重ねることはしなかった。
何か話さないと、間が持たない。
などとは思わなかった。
少しだけ言葉を交わしただけで、私は隣に座る彼女に安心感を覚えていた。それは「夜の池が綺麗」という認識を共有できたからだろうか。あるいは、夜の公園に同性と二人きりというシチュエーションが共犯者のような連帯感を生んだのかもしれない。
いずれにしても私は、なぜだか心が穏やかになっていた。穏やかな気持ちでベンチに座りながら夜の池をじっと見つめる。
沈黙も気にならない。おそらく隣の彼女もそうなのだろう。彼女は立ち去る気配を見せず、物音をたてずじっと座っている。
バッグを間に挟み、二人並んでベンチに座っている。
太腿には、ひんやりとしたベンチの感触。木で出来たベンチは決して格別に座り心地がいいわけではないけれど、その木の僅かに冷たい感触は、冬にも拘らず不思議と気持ちよくすら感じた。この気持ちよさという程でもない気持ちよさを、隣の彼女も感じているのだろうか。そう考えると、何だか可笑しい気がした。
ふいに風が吹いた。
冬の風は鋭く冷たい。風が服の上から肌を撫でて。
私は思わずくしゃみをした。
「風邪ですか」
彼女が訊いた。
「いいえ。ただ、つい最近まで風邪で、今は治りかけなのです」
その風邪で喉を痛めてしまい思ったように声が出ない。普段の声より低いから、彼女には聞き取りづらいかもしれない。
「風邪の流行る季節です」
「確かに。あなたも気をつけないといけませんよ」
「忠告ありがとうございます。
こんな夜は特に冷え込みますね」
冬の夜。気温は一桁だろう。服の上からでも冷たさがじんわりと全身を包んでいる。
「寒さもそうですが。夜は人も怖いですよ。あなたも気をつけないと」
「寒さより、人の方が怖いですか」
「結局人間が一番恐ろしいとよく言いますから」
人間の歴史は自然との戦いの歴史である。なんて言葉をどこかで聞いたことがある。どうかな、と思う。自然も怖いけれど、人が最も恐れるべきはやはり人なのだ。
「そうでしょうか。人の怖さとはつまり暴力でしょう。暴力は暴力に負けるものですよ」
そう言うと、彼女はステッキのような棒を手に取った。ベンチの脇に置いてあったのだろうか。手首と指を駆使して軽快にくるくると回している。
「なんですかそれは」
「護身用ですよ。杖術をご存知ありませんか?武器を持った女に素手の男は適いません」
あなたも例外ではないですよ?なんて続けるからおっかない。確かに、こんなステッキで叩かれたら痛そうだ。
「冗談ですよ」
彼女は言った。夜の静寂に響く声音は淀みなく、本当に冗談なのか判断が付かない。
「冗談ばかり言っていると、そろそろ行きますよ」
本気で言ったわけではなかったが。
「すねないで下さい。あなたがいないと寂しいじゃないですか」
などと、また感情を込めずに言う。
今出会ったばかりの私たちだ。寂しいも何もないだろう。
「それも冗談でしょう」
特に敵意を込めたわけではなかったが、彼女の返答はなかった。
会話のテンポが一旦止まる。
言葉がなくなると、静寂がうるさく感じるものだ。冬の夜は静寂と寒さが支配する。会話が止まり静けさが訪れると寒さもまた増すようだった。
どこかでまたぽちゃりと水の音。やはり魚の跳ねる音なのだろう。
この池に鯉がいるかは、やはり分からなかったけれど。
「冗談でも、ないのですよ」
彼女がぽつりと呟いた。その言葉には感情というものが込められてはいなかった。
「私がいないと寂しいのですか?」
「特別あなたが、というわけではないです」
つれない返答だ。
「しかし夜はさみしいものです」
確かに夜はさみしいかもしれない。こんな寒いと尚更に。
「夜だからさみしいのでしょうか」
「そうかもしれないけれど、違うかもしれません」
「夜は寂しいと言ったのは、あなたでしょう」
「それはそうですが」
また言葉が止まる。ふと右を向く。彼女の横顔が見える。白い頬が闇に良く映えていた。
彼女は一つ自分で頷く。
「訂正しましょう。人はいつでも寂しいのかもしれません」
そう言う彼女の横顔は、憂愁を帯びているようにも見えたけれど。
同時に、この状況を楽しんでいるように見えなくもなかった。
夜の公園で、取り留めのない会話をしているこの状況。確かにあまり経験できないことかもしれなかった。
「寂しいのなら恋人でも作ればいい」
我ながら俗っぽい発想だ。
「あなたこそ、恋人を作ればいいのに」
「大きなお世話ですよ。それに、私には恋人がいるかもしれないではないですか」
彼女とは正真正銘の初対面に違いなかったから、私に恋人がいるかどうかは知らないはずだ。いないけど。
「いないでしょう」
「なぜ分かるのですか」
「女の勘というやつですよ」
「非科学的ですね」
「案外当たるものですよ。あなたには分からないでしょうが」
少しむっとしたが。
「外れていますか?」
確かに当たっているのだから文句はつけられなかった。
「しかし恋人も、いたらいたで面倒かもしれませんよ」
「そうなのですか?」
素直に疑問を返す彼女が少々憎らしかった。こちらが聞きたいくらいだったから。
「例えば、恋人じゃなくても、友達とか、同じグループの仲間とか、人は集まると、何かと面倒なものです。経験ありませんか?」
隣の彼女は一つ溜め息を付いた。
「私には分かりません」
「それは残念だ」
「あなたにはそういう経験があるのですね」
「経験というか、今もずっとそんな状況ですよ。人間関係は、煩わしい」
何も私だけが特別ではないだろう。人間はたくさん集まると煩わしい。
しかし逆に一人だけだと寂しい。そういうものなのだ。
「わがままですね」
と彼女が苦笑を零しながら言った。
その通りかもしれなかった。
人間は面倒くさがりで、寂しがりで、そしてわがままなのだ。
―会話が途切れる。
夜の池。水面に反射する光。それを見ながら流れる会話。誰とも知らない少女と話す、取り留めのない会話。
唐突に気が付いた。
私が夜の公園に求めていたのはこれだったのだと。
まさに今、この状況。日常的とまでは言えず、無為で、惰性で、意味のない、この状況。日常から切り離されたこの状況こそ、私の望んだものなのかもしれない、と、そう思った。
だから彼女の次の質問にはぎくりとした。
「ところで、あなたはなぜこんな夜に公園へ来たのですか」
「…それはお互い様でしょう」
「私の場合はそういう癖なんですよ。深夜徘徊癖。それとも女が深夜徘徊してはいけませんか?」
それこそお互い様だから非難は出来ないが。
―なぜ夜に公園へ来たのか。
しかしその答えは、今出たところだったのだ。
「私の場合は…こんな状況を楽しむためですよ。非日常的な、この状況を」
「では良かったですね。たまたま私に会えて」
「随分大柄な物言いですが…感謝ぐらいはしてもいいかもしれません」
「素直に感謝してくれていいのに」
「それほどではないので」
彼女はそこでふふっと声を上げて笑った。今のやり取りで笑ったのかなと思ったが。
違った。
「自分で訊ねておいてこういうのも可笑しいですが。
嘘はよくないですね。
あなたが公園に来たのは、ついで、でしょう」
「…ついで?なんのですか」
「しらばっくれますね。
そろそろ22時なのでしょう。行かなくていいのですか。コンビニ店員さん」