ただ、いるだけの仕事
「失礼しまーすっと……」
とある昼下がり、男はアパートの部屋に入って辺りを見回した。殺風景で狭い部屋だ。畳の床に机が一つ、その上にノートパソコンが置かれている。
男は指示通り、パソコンを立ち上げ、指定されたサイトにアクセスした。
「これで、よし……ああ、着替えなきゃ……」
彼は小声でそう呟いた。不安からくる癖で、無意識に独り言を口にしてしまうのだ。着替えながら、彼は数日前の出来事を思い出していた。
『ねえ、ちょっといいバイトがあるんだけどさ』
街を歩いていると、不意に柄の悪い男に声をかけられ、少し身構えた。怪しい仕事に違いない。そう、きっと最近話題の「闇バイト」の勧誘だ。麻薬の運び屋や強盗、いずれにせよすぐに警察に捕まってしまうだろう。首謀者は知らん顔のトカゲの尻尾切り。こちらだけが損をする。
そんな予感がしたが、同時に彼は内心の高揚も感じていた。男が声をかけたのは、彼が金に困っていると察したからだろう。それは事実だった。
ひとまず喫茶店へ移動し、男から詳しい話を聞くことになった。
「まさか、アパートの部屋にただいるだけのバイトだったとは……」
着替えを済ませ、壁際に正座した彼は再び独り言をもらした。この部屋で数時間じっと過ごす。それがバイトの内容だった。
後ろをちらりと見て、壁掛け時計に目をやる。前に向き直ると、ふと学生時代の教室を思い出した。ただそこにいるだけ。存在感を消して、何事もなく一日を終える。それが彼の青春時代の記憶だった。
この生き方はこれからも変わらないのだろう。彼は諦め半分にそう思っていたが、現実は悪い意味で違っていた。社会に出ると、当然のようにコミュニケーションが求められ、それが苦手な彼は、どの職場でも馴染めず弾かれた。唯一、優しい顔をしてくれたのは消費者金融だけだった。実際は優しくないとわかっていたが、生活のためには仕方なかった。
「しかし、これからどうしようか……」
彼は呟き、ふと訪れた静寂に、時計の針の音が際立った。窓の外から聞こえるのは、学生らしい男女の楽しげな声。仄かに湧いた嫉妬心は、その自由さに向けられたものか。
おれの人生ってなんなんだろうか……。今やっていることのように、何か意味があるのだろうか……ないんだろうな……。まあ、このバイトは一日で数万円も貰えるからよかっ――
そう考えかけたとき、ふと彼は思った。
「このバイトって、なんなんだ……?」
今さらながら疑問が湧いてきた。もちろん、男から話を聞いたときも不審に思った。ただ部屋で座っているだけという仕事とはどういうことだ、と。
あの男の目的はなんだ? 少額だが前金を貰ったので悪戯ということはないだろう。やはり、犯罪絡みのものなのだろうか……。
そう思うと吐き気を催したので、彼は時計の針の音に耳を澄まし、落ち着きを取り戻そうとした。
そうだ、ただそこにいるだけで報酬を得られる仕事などあるはずがない。いや、追い出し部屋とかいって、あえて仕事を振らないで辞めさせようとする例もあるが、これはそれとは違う。ここにいること自体が仕事なのだ。もっとも、自分が役に立たない人間であることは否定できないが……。
「はあ……」
ため息をついた彼は前を見つめ直した。
無能を自覚しているのが自分の長所だ。言われたことだけをする。それも難しい指示じゃない。何も考えず、ただこの部屋にいればいい。
彼は無心で正面の壁を見つめ、やがてシミの数を数え始めた。何もしないというのも、難しいものだ。
……今、あのシミが動かなかったか?
彼はふとそう感じた。それにより脳は再び思考を始めた。
そうだ、この部屋にいることに何か理由があるはずだ。たとえば……事故物件。
アパートやマンションの入居者が亡くなった場合、大家は次の入居者にそのことを説明する義務があるため、なかなか借り手がつかず、仕方なく家賃を安くするらしい。だから、バイトを住まわせ、ワンクッション置いて通常の部屋として貸し出すと聞いたことがある。ここがそうなのか。あのシミは、まさか心霊現象……。
そう思い、彼は目を凝らした。しかし、シミは動いておらず、先ほどのはただじっと見つめ続けていたから目が疲れただけだった。
そうだよな……。ここに何日も住むわけじゃない。それとは別の話だ。じゃあ、いったいどんな理由があるんだ? ずっと部屋にいることになんの意味が……ずっと、部屋に……もしかして、アリバイ作りか?
今頃、あの男は犯罪を犯しており、あとでアリバイを証明するために……。でも、どうやって? 誰かがここを訪ねてくるとは聞いていない。それとも、それくらいのことは言わなくても対応しろということなのだろうか。いや、隣人にずっと部屋にいたと思わせるだけでいいのか。でも、それならテレビを点けろなど、存在を匂わせるような指示がされているはずだ。
では違うか……なら、おれか? 捕まるのはおれなのか? この部屋のどこかに犯罪の証拠が隠されていて、そしてその情報を流し、警察に踏み込ませる計画なのだ。正座をしていろとは、逃げるな、部屋の中を物色するな、ということ。
おれはそれをただ待っている。とんだ間抜け野郎だ……しかし、そんなことで罪を被せることができるのだろうか。ただいるだけだというのに……。
そう、ただいるだけだ。ただいることに意味なんてないんじゃないだろうか。これは哲学か? 哲学だ! ……いや、違うな。何を考えているんだ、おれは……。暇すぎて変になってきたみたいだ。
彼は考え続けた。部屋の空気を読み、壁の沈黙を聞き、床の温もりを感じ取った。日が暮れ始めると、彼は一足先に夜空を、そして宇宙を思い浮かべた。
「我いる、ゆえに我あり……」
ただここにいることに意味はある。それは、『意味がない』ことだ。
彼は自らが存在することに存在価値を見出し、彼が存在することにより、この彼がただいるだけの部屋が存在し、その仕事も存在する。それが彼の存在証明である。
「Q.E.D」
そう呟き、彼はまた黙った。しばらくしてバイト終了の時間になると、静かに立ち上がり、パソコンを閉じた。そして……
「やあ、どうもどうも、ありがとね!」
少し経ってから、バイトを頼んだ男が現れた。彼はただ一言「いえ……」とだけ応じた。目の前の男と自分を見比べ、自分が俗世の人間とはかけ離れた存在だと彼は感じていた。
「はいこれ、バイト代ね! しんどかったでしょ、俺もやったことあるからわかるよ」
「いとありがたし……え? あなたもやったことがあるんですか?」
男は洗面所でうがいを始めた。その様子から、この部屋の主であることは確かだが、『ただいるだけ』の仕事をやったというのはどういうことなのだろうか。
「そうそう、十日間くらいね。連日じゃないけど」
「すごい……あなたも哲学者だったんですね……」
「哲学? それはちょっとわからないけど、いやあ、助かったよ。今日はどうしても外せない用事があってさ。まさか街で似てる人に出会うなんてラッキーだったな」
「似てる……? 僕とあなたがですか?」
「うん、似てるでしょ? まあ、そっちはちょっと太めで髪も短いけどね。でも、反省して髪を切ったように見えるから、それはそれでよかったかも」
「反省?」
「うん。いやあ、刑務所もリモートの時代なんて、笑えるよね、ははは!」
「リモート……刑務所?」
「え? 知らない? ほら今、闇バイトとかで悪い奴がたくさん捕まってるじゃん? 景気が悪くて犯罪をやる人が増えて、刑務所が満員なんだって。だから、俺みたいな軽犯罪者はリモート監視ってわけ。君が今着ているその地味なスウェットに着替えて、向こうからパソコンのカメラでチェックされてさ」
「あ、じゃあ替え玉ということ……え、ちなみにあなたは何をやったんですか?」
「それこそ、闇バイトだよ。まあ、下っ端だし、指示役の逮捕に協力したから軽い罪で済んだんだけどね。じゃ、ありがとね! 着替えて帰っていいよ」
「あ、はい……あと」
「ん?」
「どうしても外せない用事って?」
「彼女とデートォ」
「そっすか」
アパートの部屋を後にした彼は、どこか釈然としない気持ちで帰路についた。
自分ではそうは思わないが、監視者に気づかれなかったということは、あの男と自分は似ているのだろう。金がなく、仕事がないところも似ている。ただ、あの男には彼女がいるし、今後は真面目に働くらしい。
そこは決定的な違いだ……でも、似てるなら、自分だって……。それに、もう刑務所は御免だ。
自由への鍵は常に手元にある。それに気づくかどうかだ。
彼はそう感じ、夜空の下を軽い足取りで歩き出した。