感情市場
朝日が薄く部屋を照らす。
窓の外には無機質なビル群が広がり、遠くからかすかに響く機械の音が聞こえる。
街は今日も変わらず、感情を売り買いしている。
幸福や喜び、怒りや恐怖――どれもこの世界では商品にすぎない。
感情を抽出してエネルギーとして使い、それを売買することが当たり前になって久しい。
人々は必要に応じて感情を売り、時には感情を買い戻す。
それが、この「感情市場」の日常だ。
俺は鏡に映る自分の顔を見つめる。
ぼんやりとした無表情。
もう長い間、俺の目に感情が浮かぶことはなかった。
かつて、俺は自分の「幸福」を売った。
家族を支えるために、それが一番高く売れる感情だったから。
あの時は仕方がないと思っていた。
だが、幸福を手放した瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
それ以来、喜びを感じることもなくなり、俺はただの抜け殻のようになった。
「空虚者」と呼ばれる人々がいる。
彼らは、すべての感情を売り払った結果、完全に感情を失ってしまった者たちだ。
感情がないということは、人間らしさの欠如でもある。
空虚者になれば、もう何も感じることはなく、まるで機械のように生きるしかない。
俺も、そうなりかけているのかもしれない。
けれど、まだ俺にはある。
少しだけ残っている「感情の欠片」が、俺を辛うじて人間らしく保っている。
感情を売った後、俺は「感情商人」として生きる道を選んだ。
皮肉な話だ。
自分の感情を失ってなお、他人の感情を取引する仕事に手を染めるなんて。
けれど、感情を商品として扱うことに対して、俺は何も感じない。
むしろ、それは単なるビジネスだ。
依頼人が求める感情を探し出し、適切な価格で取引する。
それだけのこと。
感情に価値があるのか、それを手放すことが倫理的にどうなのか――
そんなことを考える余地は、俺にはもうない。
通りを歩くと、冷たい風が頬に当たる。
感情市場の近くでは、活気があるように見えても、空気にはどこか無機質な香りが漂っている。
大通りには、感情を売買する大きなスクリーン広告があちこちに掲げられている。
「喜びを、1時間3,000クレジット」
「怒りで意欲を増幅! 30分1,200クレジット」
そんな売り文句が乱立している。
人々が感情を買い求める様子は、まるでスーパーマーケットで野菜や果物を選ぶかのようだ。
だが、それらは本物ではなく、すべて作られたものだ。
生の感情、本物の人間の感情は、もっと高額で取引される。
俺のような「感情商人」たちは、本物を売り買いする。
感情の抽出には特殊な技術が必要だし、売る方もそれなりの覚悟がいる。
感情のエネルギーを吸い取られるということは、自らの一部を失うことだからだ。
市場の中心には、巨大な取引所がある。
ガラス張りのモダンな建物で、内部では商人たちが取引の駆け引きをしている。
俺はその取引所に頻繁に出入りするが、誰かと深く関わることはない。
俺の仕事は簡単だ。
顧客が求める感情を見つけ、正確な取引を行うこと。
そこに感情や倫理など、何の余地もない。
取引所に入ると、馴染みの受付嬢が俺に軽く微笑んだが、俺は何の反応も示さなかった。
彼女は慣れている様子で、すぐに俺に資料を手渡す。
今日の取引先だ。
依頼人は、感情取引の大手に属する大富豪だった。
彼の名前を聞いたことは何度もあるが、直接会うのは初めてだ。
表紙には「極秘依頼」とだけ書かれている。
少し嫌な予感がしたが、深く考えることもなくエレベーターに乗り込む。
感情を扱う商人として生きていくうちに、こうした予感や直感も次第に鈍っていった。
目の前の数字が上昇し、やがて最高階に到達したところでドアが開く。
「来たな」
広々としたオフィスに通されると、スーツを着た初老の男が窓際に立っていた。
彼は振り返り、俺を一瞥する。
感情商人にしては若い、というような表情を浮かべたが、口に出すことはなかった。
「ヴィクター・カーライル、君の評判は聞いている」
俺の名前を口にするその声は淡々としているが、その中に潜む支配力を感じる。
彼が望むものは一つだ――
俺に「未知の感情」を手に入れてもらうこと。
「市場に出回っていない感情があるらしい。君にはそれを探し出してほしい」
「未知の感情?一体、何を探せというんですか?」
彼は少し考えるように間を置いて、低い声で続けた。
「それは私にもはっきりとはわからない。だが、この感情がまだ市場に現れていないことだけは確かだ。誰も明確にそれを経験していないか、あるいは自覚していない感情…そう考えている」
俺はその言葉に眉をひそめる。
何かが曖昧だ。
だが、彼の目には確かな期待が込められていた。
「もしそれを手に入れることができれば…市場に革命が起こる。価値のない感情など存在しないはずだ。あとは君の腕次第だよ」
革命。
俺の中でかすかに動揺が走るが、それを表情に出すことはない。
彼が提示する報酬は驚くほど高額だった。
だが、その金額よりも、依頼の内容そのものが異常だ。
感情市場に出回っていない感情など存在するのだろうか?
「承諾する前に、一つ質問があります」
俺は言葉を選びながら訊ねた。
「もし、その感情が手に入ったとして、誰がそれを買うのでしょうか? 誰が経験したこともない感情を欲しがるのか」
その言葉に、依頼主は初めて薄い笑みを浮かべた。
「『欲しがらない者』などいないだろう。人は常に未知を求め、手に入らないものを欲するものさ」
その言葉には、どこか冷たい確信が感じられた。
取引所を出て、冷たい風が再び顔に当たる。
未知の感情を探す――
その言葉が、頭の中でぐるぐると回っている。
俺のような感情を失いかけた者には、依頼の意味すら掴みかねるが、商人として仕事を断る理由はない。
「仕事だ、やるしかない」
そう呟いて、俺は足早に歩き出す。
かすかな感情の欠片が俺の中で波立った気がしたが、それが何だったのかは、まだわからなかった。
未知の感情を探すための手がかりはまったくない。
大富豪からの依頼を受けたものの、その感情がどこにあるのか、どんなものなのか、まるで霧の中を歩くような手探り状態だった。
取引所から出た俺は、まず市場に関わる古参の専門家たちに接触を試みることにした。
これまで彼らが扱ってきた感情の中に、新しい感情の兆しや、忘れ去られたものがあるかもしれないと思ったからだ。
最初に訪れたのは「感情抽出技術」の開発に携わっていた博士のもとだった。
彼女は感情市場が本格的に機能し始めた初期から携わっていた一人で、今は退職して田舎でひっそりと暮らしている。
俺が彼女の家に到着すると、古びた木製のドアをノックした。
しばらくして、白髪交じりの細身の女性が現れ、俺をじっと見つめた。
「どちら様?感情商人か……その目を見ればわかるわ。あなたにはもうあまり感情は残っていないようね」
彼女の声には微かに同情の色が含まれていた。
だが、今の俺にはそれをどう受け取るべきかもわからなかった。
ただ、事実を告げられたような気がしただけだ。
「未知の感情を探している。今まで市場に出回っていないものだ。何か手がかりがあれば教えてほしい」
簡潔に伝えると、彼女はしばらく黙って考え込んだ。
「未知の感情ね…。実験的に感情を抽出していた時期に、いくつか奇妙な現象を見たことはあるわ」
彼女は、俺を家の中に案内し、昔の記録を引っ張り出した。
埃をかぶった書類の山の中に、彼女が言う「奇妙な現象」の詳細が記されていた。
それは、人々が通常の感情を失ったときに感じる「違和感」や、感情の喪失そのものに対する微かな「不安」といった、感情そのものの欠落による感覚についての研究だった。
「これらは確かに興味深いが、依頼人が求めているのはもっと強烈で、明確に定義されたものだろう。感情市場に革命を起こすと言われているぐらいだからな」
「そうでしょうね。ただ、感情を失うこと自体が、ひとつの感情を生む。皮肉なことに、完全に空っぽになることなんて人間にはできないのよ。心のどこかに、その『無』そのものを嘆く何かが残る。それが何であるかは、わからないけれど」
彼女は意味ありげに言った。
俺はその言葉を受け止めながら、心の中に特に何も感じなかった。
「無」を嘆くものが残る――
その「何か」に触れたことがあったかどうかも、正直わからない。
ただ、彼女が言うことには、どこか一抹の真実が含まれているような気がした。
部屋の中の埃臭さと、書類をめくる音だけが妙に際立って聞こえた。
次に俺は、感情を取引する商人たちの間でも特に珍しい「感情回復」の技術を持つ人物を訪ねた。
その男は、違法な手段で感情を取り戻す方法を知っていると噂されていたが、詳細は不明だった。
彼のオフィスは薄暗く、ほこりっぽい空気が漂っていた。
部屋には様々な瓶が並んでおり、それぞれに「喜び」「怒り」「哀しみ」などのラベルが貼られていた。
だが、これらは感情そのものではなく、抽出された後の残留物質のようなもので、実際にはすでにエネルギーとして市場で消費された残骸だ。
「回復の技術と聞いて来たんだが」
彼は低い声で笑った。
「回復か…。それは幻想だよ。失った感情は戻らない。だが、違う感情で穴を埋めることはできる。それが私のやっていることさ」
「では、未知の感情については?」
その言葉に彼は興味を示したようで、俺をじっと見つめる。
「君が言っているのは、取引市場に現れていない感情だな。感情市場が始まってからずっと扱われていない種類のものだ」
「そうだ。知っていることがあれば教えてほしい」
彼は棚から古びた本を一冊取り出し、ゆっくりと開いた。
そこにはかつての人々が抱いた「過去の感情」のリストが記されていた。
市場が開かれる以前、感情は個人の中で育まれ、取引されるものではなかった。
その中に、依頼人が言っていた「未知の感情」に近いものがあるかもしれないと感じた。
「感情は豊かであるがゆえに、同時に人々を傷つけもする。これらの感情が市場で商品化されたとき、人々はそれらを都合よく選べるようになった。だが、選ばれなかった感情、忘れ去られた感情も存在する。それは『後悔』のような、誰もが避けたい感情だ」
「後悔...」
その言葉が俺の心に引っかかった。
後悔――
それは、人が何かを失ったときに必ず感じるはずの感情だ。
だが、この市場では誰もその感情を口にしないし、取引所でも扱われているのを見たことがない。
「なぜ『後悔』は市場にないんだ?」
「人は後悔を必要としないからだ。後悔は苦痛であり、誰もそれを感じたがらない。後悔は商品としての価値がないんだ。だからこそ市場に出回らない。しかし…」
彼はしばらく言葉を切り、俺を見つめた。
「人が最も恐れる感情こそ、最も大切な感情であることがある。『後悔』という感情を取り戻せば、人は他の感情を再び感じることができる。なぜなら後悔は、失ったものへの気づき、そして再生のための鍵となるからだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心に微かな揺れが走った。
感情が失われていたはずの俺の中で、何かが動き始めたような気がした。
その後、俺は何人かの「空虚者」と呼ばれる人々に会った。
彼らは自分の感情をすべて売り払ってしまった人々であり、完全に無感情のまま生きている。
彼らに「後悔」という感情について訊ねたが、皆一様にその感情の存在を認識していなかった。
ある男性は言った。
「感情を売り払う前は、確かにいろんな感情があった。しかし、今は何も感じない。それが良いのか悪いのかもわからない。ただ、何も感じないことが、今の俺には…普通だ。痛みも喜びも、もう思い出せない」
彼の言葉に、俺は自分がまだ完全な「空虚者」になっていないことを再確認した。
俺にはまだ少しの感情が残っている。
だが、それも薄れつつあることは確かだ。
「後悔」という感情に関して、引っ掛かりを覚えた俺は、再び依頼主のもとに報告に向かった。
だが、俺の胸の奥には、今までに感じたことのない微かな違和感が広がり始めていた。
「もし、本当にこの感情を見つけ出したら、俺はどうなるのだろうか?」
その問いが頭から離れない。
後悔という感情を再び感じることで、俺は失ったものを取り戻すことができるのだろうか?
それとも、完全に空っぽになる前に、俺はその感情に飲み込まれてしまうのだろうか。
まだ答えは見つからない。
だが、俺はその答えを求め、さらに深くこの感情市場の闇へと踏み込むしかなかった。
「後悔」という言葉が頭の中で響き続けている。
それが「未知の感情」の正体ではないかと気付いたとき、胸の奥で何かが軋むような感覚があった。
俺はずっと感情を失ってきた。
それを商売として扱い、自分自身の感情すら無感動に売り払ってきた。
幸福も、喜びも、とうに手放していた。
でも、「後悔」は違う。
それは俺が感じたことがないと信じていた、もっと深い感情の一部かもしれない。
俺が恐れていたのは、その感情に触れることで、失っていた何かが取り戻せる可能性だったのかもしれない。
依頼主のオフィスに足を踏み入れた瞬間、空気が冷たく、重く感じた。
彼の背中は窓際でじっと動かない。
市場のネオンが無機質に光り、街のざわめきが遠く聞こえる。
依頼主は感情を表に出さずに、俺の報告を待っているようだった。
部屋の静けさが、逆に彼の強い関心を表していた。
「未知の感情は見つかったか?」
彼の声は低く、冷静だ。
だが、その一言にかすかな期待が含まれているのが感じ取れた。
「ええ、見つけました」
俺は、静かに答えた。
けれど、その言葉を口にすることに強い重みを感じた。
この答えを彼に伝えていいのだろうか?
「後悔」という感情が彼にとって何を意味するのか、その全貌はまだ俺にもわからない。
ただ一つ確かなのは、これが俺自身にとっても避けられない答えだということだった。
「それは何だ?」
依頼主は目を細めた。
彼は何を求めているのだろう?
市場に新たな感情を持ち込み、感情の売買をさらに拡大させることなのか。
それとも、もっと個人的な理由が隠されているのか。
「それは…『後悔』です」
言葉を発した瞬間、部屋が静寂に包まれた。
依頼主の顔に動揺は見られなかったが、その目の奥で何かが揺れているのを俺は感じ取った。
「後悔か…」
彼は呟くようにその言葉を口に出し、ゆっくりと窓の外へ視線を戻した。
その背中には、どこかしら疲れの色が漂っている。
「後悔という感情は、誰もが避けたいものだ。感情市場ができてから、人々は痛みや苦しみを自由に避けられるようになった。後悔はその中でも、特に忌み嫌われる感情だ」
彼は長く沈黙した後、再び俺に視線を戻した。
目には、これまで見せたことのない影が映っている。
「だが、私が君に未知の感情を探させた理由は、それが私自身が避け続けてきた感情だったからかもしれない」
彼の声には、少しずつ力がこもっていった。
「感情市場を築いた者として、私は常に人々の感情を操ってきた。彼らが必要としている感情を提供し、余計なものを取り除く術を売り続けた。だがその中で、私自身が多くのものを失ってきたことに、君が後悔の話をするまで気づかなかった」
彼は静かに苦笑し、窓の外を再び見つめた。
「君の言う通りだ、ヴィクター・カーライル。後悔こそが、失った感情を取り戻すための鍵なのだろう。だが、それを知ってもなお、私はこの感情を市場に出すつもりはない」
その言葉に、俺は少し驚いた。
彼は感情市場のトップに立つ人物だ。
新たな感情を商品化すれば、さらなる富を得ることができるはずだ。
それなのに、なぜ「後悔」を取引しようとしないのか?
「後悔は、人を傷つける感情だ。人はその痛みを避けたいと思っている。感情市場ができたのも、人々が痛みや苦しみから解放されたいと願ったからだ。だが、そんな感情を再び市場に解き放つことで、彼らを苦しめることになるかもしれない。私には、そのリスクを負う覚悟がない」
彼の目は真剣だった。
彼は自身の立場を理解している。
感情市場というシステムの中で、後悔を商品化することがどう影響を与えるのか、彼なりに結論を出していたのだろう。
彼にとって感情市場は、単なる商売以上のものだった。
人々が求める感情を提供することで、ある意味彼は人々の「自由」を守っていたのかもしれない。
「君はどうするつもりだ?」
突然の問いに、俺は一瞬戸惑ったが、すぐに自分の心に芽生えていた答えが浮かんできた。
「俺は感情を取り戻したい。市場で売買するためではなく、自分自身が感情と向き合うことができるように」
依頼主は俺の言葉を聞き終わると、しばらく沈黙した。
そして、静かに頷く。
「それが君の選んだ道か。それも一つの答えだな」
彼は再び窓の外を見やり、どこか遠いところを見つめていた。
「さて、報酬だが…」
その言葉に、俺は首を横に振った。
「いいえ、報酬は必要ありません」
そう答えると、彼は少し驚いた表情をした後、微かに微笑んだ。
そして、部屋の静寂の中で、俺たちはそれ以上の言葉を交わすことなく、別れの時を迎えた。
オフィスを後にすると、夜の冷たい風が俺の頬に触れる。
市場のネオンが遠くで瞬いているが、今の俺にはその光も以前のように冷たく感じない。
少しずつ、俺の中で変化が起きているのを感じる。
感情を失い、無感動のまま過ごしていた俺が、再び感情を取り戻し始めているのだ。
後悔――
それは、俺が避けてきた感情。
だが、それを認めたことで、俺はようやく前に進むことができるようになった。
感情を商品として売り買いすることだけが人生ではない。
人々がその感情と向き合い、それを自分自身のものとして生きることの大切さに気付いた。
冷たい風が街を吹き抜けていく。
感情市場のネオンが街を照らし、行き交う人々の顔は、どこか無機質だ。
それでも、以前の俺が見ていた光景とは少し違って見える。
何も感じないように思っていたこの世界にも、かすかな感情の欠片が残っていることに気付き始めたからだ。
依頼主のオフィスを後にしてから数日が経った。
感情市場は今も変わらず機能している。
人々は自分の感情を売り買いし、必要なときに作り物の感情を手に入れて、それをエネルギー源として生きている。
だが、俺はもう以前のように、この世界をただ無感情に受け入れることはできなかった。
後悔という感情に気付いたことで、俺は変わり始めている。
自分の中に眠っていた感情の欠片が少しずつ動き出し、俺を新しい方向へと導いているのがわかる。
ある夜、俺はふと鏡を見つめた。
長い間、無表情な自分しか見ていなかった鏡の中に、かすかに動く感情の表情が浮かんでいるのがわかった。
その瞬間、俺は「後悔」という感情がただ苦しみだけではないことを確信した。
後悔は俺に生きている実感を与えてくれた。
それは、他の感情を取り戻すための入り口だったのだ。
数週間後、依頼主――あの大富豪から手紙が届いた。
彼が俺に何を言おうとしているのか興味はあったが、実際にその手紙を開くと、内容は思ったよりも簡潔だった。
「ヴィクター・カーライルへ
君の選んだ道を、私は見守っている。
感情市場は今も変わらず機能しているが、
君が提示した『後悔』という感情は、
私の人生にも大きな影響を与えた。
私は市場にそれを出すつもりはない。
しかし、それを理解することで、私自身が変わったことも事実だ。
君の選んだ道が正しいかどうかは、君自身が決めることだろう。
感謝している。
――N」
俺は手紙を静かに畳み、胸の内で何かがふっと軽くなるのを感じた。
彼もまた、自分の道を選び直そうとしているのだろう。
感情市場に背を向けたわけではないが、少なくとも彼自身の中で「後悔」に向き合い始めている。
それが、彼にとっての変化だ。
俺は再び街に出た。
市場は相変わらずネオンの光に包まれ、人々は感情を取引しながら生きている。
けれど、俺はもうこのシステムに取り込まれることはない。
俺は自分の道を歩き始めたからだ。
感情を売り買いできることが、良い事なのかどうかは分からない。
ただ、俺たちの感情は、自分自身のものだ。
それを売り払うことで一時的な救いを得ることもできるだろう。
しかし、感情を感じることこそが生きている証なのだと、俺はようやく理解した。
「後悔」を感じることで、人は成長する。
俺はそれを避けてきたが、今ではそれが俺に再び自分自身を取り戻す鍵だったと知った。
夜空に浮かぶ星を見上げながら、俺は深呼吸をした。
冷たい空気が胸に広がり、その中に確かに微かな喜びが感じられた。
これが、俺の新しい人生の始まりだ。
感情市場の外で、自分の感情と共に生きること。それが俺の選んだ道だ。
今、俺は様々な感情を抱えている。
それが、生きるということだから。