父親と雪女
広いエントランスのあるアパートの三階。最上階の角部屋で彼女は足を止めた。ポケットから鍵を取り出した所で雪撫が独り言を呟く。
「あー、いますね妖怪」
「え、分かんの?まだ姿を見てもいないのに?」
「ふっふっふ、こう見えて私、真君が思っている以上に実力ある妖怪ですから!妖力の隠し方がこの程度ならこの距離でも分かりますとも」
「ほーん……あぁ、あんたの家は妖怪いるらしいよ」
「なんか嫌な言い方するね真君!?」
「やっぱり、お父さんじゃなかったんだ……開けるね」
覚悟を決めた茶目が鍵を回した。ガチャッという鍵の開く音。再度二人で顔を見合わせるとドアを開いた。
「おかえり茶目、今日は遅かっ――その方は?」
「あ、この人達は学校の友達!」
「あ、お邪魔します」
「そうかそうか。とうとう茶目も男を連れてくるようになったか」
「ちょ、違うし!もう!私の部屋こっちだから」
「お、おぅ?」
腕を引かれるがまま茶目の部屋へと連れてこられる。
演技ではあるが、まるで慣れているかのような自然な演技だ。流石にこの挙動だけでなにかバレる事は無いだろう。
しかし、俺の考えとは反して茶目は部屋に入った途端頭を抱えた。何か見落としているか……?
俺の様子に気が付いた茶目は、机からメモ帳を取ると何か走り書きして俺に見せてきた。
『この人達って言っちゃった』
可愛らしい丸文字で書かれているそれを見て、ようやく彼女の悩みの理由が分かった。言われてみれば雪撫は向こうに見えていない筈なので俺と彼女しか見えていない状況だ。
とはいえ、人達と複数形で喋ってしまった程度で疑われる事は無いだろう。それは流石に警戒心が強いのレベルじゃない。命の危険を感じている戦場の兵士じゃあるまい……いや、彼ら妖怪にとってこの世界は戦場と同じなのだろうか?
『私はこれからどうすればいい?』
こいつは父親が取り憑かれていると気が付ける程の観察力を持っている。とすれば彼女の勘を信じるべきだろう。
『ちょっと考える』
このまま父親に近付いて妖怪だからと滅するのは早計だ。相手の正体が巨体であればこの建物が持たないし、小さいとしても素早ければ茶目を人質として取られかねない。
「真君」
どうするべきか悩んでいると、扉をすり抜けた雪撫が声をかけてきた。茶目を見ても反応がない事から、恐らく今の雪撫は俺にしか見えおらず、声も聞こえていないのだろう。
「あの人間に取り憑いた妖怪、かなり怪しんでるみたい。今、扉の前にいるよ」
「……まぁそうなるよな」
「真さん、どうしたの?」
「あぁ、い、いや珍しい部屋だと思ってさ。女子の部屋って初めてなんだよ」
『話を合わせてくれ』
父親が部屋の前で聞き耳を立てていると思っていない茶目は不思議そうな顔をするが、すぐに頷いた。
「そうかな?普通の部屋だと思うけど」
「女子ってこう、ぬいぐるみとかキーホルダーとか色々飾っているもんじゃないのかなって」
「何その偏見……全員が全員そんな部屋な訳がないでしょ」
「ま、そういうもんか」
――ガチャ
背後の扉が急に開いた。足音も無ければノックもない。
俺達の隙を作ろうとしたか、もしくは反応を見たかったのか分からない。
開けた張本人、父親は部屋の中に入って俺達の横に立った。メモ帳はギリギリ俺の背中に隠れて見えていないだろう。怪しまれないようにポケットに隠した。
「ど、どうしたのお父さん?」
「……ごめんごめん、飲み物何かいるかい?今から買い物に行ってくるけど」
「いや、大丈夫っすよ。わざわざ仕事休憩中の父親動かすより、俺達で買いに行った方が良いでしょうし。なんなら俺達が買い物代わりますよ」
「いやいや、客人を働かせるなんてそんなそんな。ごゆっくりどうぞ」
――ガチャ
背後の扉が閉じた。扉を閉める音が鳴らないようにゆっくりと。
俺達の油断を誘った戦略か、または本当に買い物へ行ったか分からない。
しかし、部屋から父親が消えた事で……否、彼の視線から逃れられた事で俺は胸を撫で下ろす。全身の体温が急激に下がっている感覚。恐らく嫌な汗をかいているだろう。
隠す気のない敵意を帯びた瞳、俺を見る目は追い詰められた獣のそれではなく、餌として吟味している獣の目だった。
窮鼠猫を噛むという言葉があるが、あれはそういう類の目でもない。追い詰められているという感覚も持ち合わせていないだろう。来た人間全てを喰らうつもりだ。本物の陰陽師が来ても同じ目で睨むのだろう。
「……さん、真さん?」
「ん、あ、すまん」
「だ、大丈夫?」
「あぁ、大丈夫。突然の父親登場に焦っただけだ」
「家に男の人を連れてくるなんて初めての事だから、お父さんも戸惑って居るのかもね」
「なるほどな」
「真君、油断しないでね。まだ扉の前にいる」
雪撫の言葉をメモ帳で茶目に伝えると、もう一つメモを彼女に見せた。俺の真意が読めない彼女は不思議そうな顔をしてから、
「ごめん、ちょっと席外すね」
と言って部屋を出た。次にそのメモを雪撫にも見せる。
「真君、自分が餌と認識されている事に気が付いていたんだね。それとも私の実力が早く見たかっただけ?」
――ガチャ
答えるより先に部屋の扉が開いた。
茶目が戻ってきた……訳ではなく、先程買い物に行くと言っていた父親が部屋の中へと入ってくる。
「……な、何すか?」
あくまで予想していなかった登場に驚いているフリ。普通のクラスメイトを演じなければならない。
茶目は頼んだ通りリビングに行ったのだろう。扉が閉められた途端、外から届いていた音が一切聞こえなくなる。恐らくあの扉を開く事は出来ないだろう。
空気の変わった部屋に飲み込まれぬ様、警戒心を強める。そんな俺を見て、父親は静かに口を開いた。
「君は、娘の何かな?」