曇りのち雪女
いきなりだが、心に余裕の無い人間は空を見上げないらしい。今すべき事で頭がいっぱいになり、考え事に集中する為に視線を下げてしまうからなんだそうだ。
確かに言われてみればと思う意見ではある。しかし、空から声がした場合はどうだろう?
人を探しててどうしようかと考えている自分目掛けて、見慣れない女性が「いやぁぁあ!」等と叫びながら降ってきたら。
悩み事どころではなくなる。
更に心の余裕が無くなる。
今の俺のように時間をゆっくり感じる。
脳だけがフル回転し、女性の額と俺の額がぶつかった時、ひとつの思考で頭がいっぱいになる――あ、俺死んだわ。
***
「のー……あのー?どうしよう、困ったな……」
さっきの光景からどのくらい時間が経っただろうか?
聞き慣れない女性の声が聞こえる。閻魔大王は男のイメージだったのだが……いやなんで地獄確定なんだよ。
とそこで、鼻腔をくすぐる土の臭いと暑苦しい太陽の光を感じて目を開く。眩しい日差しに思わず顔をしかめる。
どうやら死ぬには至らなかったようだ。そもそも建物もない川沿いの道で空から女が降ってくるってなんだ。川のふもとで寝ていて夢を見ていたのかもしれないな。
冷静な思考回路に戻り体を起こすと、家の付近を流れている川が視界に入ってきた。
「あ!目を覚ましたんですね!」
が、そのさらに右、視界の端で見切れるか否かの所に全く見慣れない少女の気配、慌てて逆方向に首を回す。
「ってなんで視線を逸らすんですか!?」
「お前距離近い癖に声でけぇな!?」
思わず少女の方へ視線を動かし息を呑んだ。
一度も太陽光に晒された事が無いんじゃないかと思えるほどに白い肌、超高級なクシで毎日髪を梳かしているのでは無いかと錯覚するほどサラサラな黒長髪、黒目のない青い瞳。初めて女性の顔を見て言葉を失う感覚を味わった。
「え、えっと……そんな見つめられると照れちゃいます……」
「あ、すまん……ともかく死んではないみたいだ。体に痛みもない」
まだ少し額が痛むが気にする程では無いだろう。彼女は俺の言葉に満足そうに頷くと、カバンを持って立ち上がった。
「すみません、私人を探して先を急いでいるので失礼します!」
「あ……」
何故空から降ってきたのか、誰を探しているのか、手伝おうか、全ての疑問を口にする前に彼女は俺に背を向けていた。かなり足が早く、呆然としているうちに豆粒ほどの大きさになってしまう。
同じくある捜し物をしている俺は、仕方なく彼女の事を諦めて自分の捜し物を始める事にした。カバンを持ち上げようとして――
「おい……」
異様に軽いカバンに視線を移し、無意識に声が漏れる。見慣れない白いカバン、妙にひんやりしているそれに見覚えはない。そして見慣れている黒い鞄がどこにも見当たらない。
状況証拠ですぐに理解出来る。俺も彼女が立ち上がった時に気が付くべきだった。
「あの女どこ行った!?」
俺のカバンには財布やら学生書やら時計やらが入っている。せめて財布は返せ財布は。
流石に彼女のカバンを開いて誰を探しているのか調べるわけにもいかないだろう。俺は仕方なくカバンを手に持つと、彼女の消えた先へ足を向けた。
***
空から降ってきた女性を探して街へと足を運んだものの、あまり気乗りはしない。この街はあまり治安が良くないからだ。地面にゴミは散らばっているし、裏道に入れば何を誘われるか分かったもんじゃない。
街の人に聞き込みなんて出来るもんじゃない。黒いカバンを持ってびっくりするくらいの美人を見ませんでしたと話しかけたところでぼったくり飲食店に案内されて逃げられなくなるのがオチだ。
なんなら開き直って空から降ってきそうなキレイな女の子どこかで見ませんでしたと聞いてみようか?もれなくアニメショップか交番に案内されるだろうな。
しかし、今のご時世このような街が増え続けている。
理由を述べよう。どこぞのアニメではないが、妖怪のせいだ。
そんな馬鹿げた事実を誰が受け入れるのかと言えば、既に世界各地で受け入れられている。理由は数年前に報道された奇妙なニュースだ。
『み、見てくださいあの空! 裂け目から人や動物、竜のような生き物までもが降りてきています!』
そのニュースでは、ニュースキャスターがただの空の映像を指さし、大量の妖怪が空から降ってきていると興奮した面持ちで喋っていた。
すぐさまSNSでは曇り空を指さしたまま意味不明な事を口走っていると話題になったが、更に奇妙なのはその映像に妖怪が見えたものがそれなりにいた事だ。
そして報道の翌日から事件が増えた。捕まった犯人は何も覚えておらず、捕まっている理由がわからないと取調室で暴れ出す始末。信じられない話だが信じるしかないのが現状だ。
当時ほとんど注目されなかった陰陽師の存在が、今ではテレビで欠かせない存在になるほど大きな存在となっている。陰陽師を育成する為の学園まで出来る始末だ。俺も今そこに通っている。
しばらく先程の女性を探していると、雑貨店の前に人だかりができていた。もしかしてと可能性を感じて輪の中に入ろうとした時、男の声が周囲に響く。
「俺に近付くんじゃねぇ!」
残念ながら俺の求めていた声ではなかった。何とか野次馬の間から中心の様子を見る。一人の男が血走った目をしながら周りの野次馬を睨みつけていた。
彼の手にはナイフが握られており、もう片方の腕で捕まえた女性の首元へとナイフを突きつけている。彼女は今にも泣き出しそうな瞳で周りへ助けを求める視線を投げているが、それに応える人間はいない。
男の顔も正常では無かった。額に血管は浮かび上がり、体全体が真っ赤に染まっている。呼吸も荒い。背後にあるガラス製の自動ドアが割れているのは恐らく彼の仕業だろう。間違いない、彼も取り憑かれている。
「いたぁぁぁぁ!」
なんとかして女性を助けなければと考えている時、緊張感のない女性の声が俺の耳に入ってきた。声の方を振り返ると、息を呑むほどの美人が頬をふくらませて俺を睨んでいた。