九話目
九話目です。
五時になり、四人は教室を出た。あの凍てつくような雰囲気は一時的なものだったらしく、いつもの有香のオタク語りが始まると、みんなどこか冷静になり、いつもの状態に戻っていた。
四人は静かな廊下を歩く。夕暮れ時の静かな校舎は、とても涼しく、寂しくあった。
「この後どうする?」階段を降りていると、突然、風雅がみんなに言った。彼が帰り際発言するのは珍しい。
「どうするって?」隣にいた有香が答える。
「いや、どっか食べ行こうかと」彼は普通ではない感じだった。
「私は別にいいけど」有香が答える。彼女はいつも、夕食を一人で作っていた。「お金、あるかなぁ?」
「無いんだったら、俺出すよ。お前、いつも大変だろ?」風雅が気取って言う。
「僕は帰りますね」英都が二段上から言った。
「私も大丈夫です」千草が英都の後ろから答えた。
「え」有香が下から二人を見上げる。そのままジャンプして二階に着く。「いいの?」
「お構いなく」英都は微笑む。
「有香、どこの店行く?」風雅が速足に次の階段を降り始める。
「えっと、何処でも」有香は急いで風雅の後をついていった。「じゃあね、みんな」
「また明日」英都が返事をする。
「行っちゃったね」少しして、彼はゆっくりと足を前に進めた。
「そうですね」千草が彼の隣に来た。それから、英都の顔を覗き込んだ。「私たちも、食べ行きます?」
「行かないよ」英都は前を向いたまま答えた。
「でも、この展開は、そう言うんじゃ無いんですか?」千草は英都の前に出る。
「さあ」彼は立ち止まった。丁度、頭一つ分千草後輩が低く見える。「君は行きたいの?」
「ええ」千草は微笑む。
「でも、僕はもうすぐフィアンセが出来そうなんだ」英都は冗談を言った。
「私は出来ないと思います」千草は真面目に答えた。それから、急に笑みを浮かべ始める。「先輩は、有香先輩と付き合うつもりですか?」
「たぶんね」英都はすぐ答えた。
「本気で?」千草は顔を近づけ、凄んで言う。
彼は答えない。「向こうが本気ならね」言うのに、時間がかかった。
「ライバルに風雅先輩がいますよ」千草は前を向いて歩き出す。「幼馴染なんですから」
「そうらしいね」英都は彼女の後ろについていく。「でも、有香先輩が本当に僕が好きだという可能性は、低いんじゃないかな」
「どうしてそう思うんです?」彼女は振り返る。その表情は、少し、怒っていた。
「僕が、そう思っていないだけだよ。人の気持ちなんて、誰も分からない」
「好きなんだと、私は思いますよ。有香先輩の性格上、悪ふざけで好きとは言わないと思います」千草は前を向いて歩く。
「だといいけど」英都は比較的適当に返事をした。
二人は校舎を出る。グラウンドでは、野球部の生徒がまだボールを投げ合い、大きな声を出し合っている。二人は、まるで恋人のように、グランドの端を並んでゆっくりと歩いていた。
「それで、何処に食べいくの?」英都が問う。
「先輩、何円持ってます?」千草が微笑んだ。
「千円ちょっきし」英都は答える。彼は、念のため、定期のほかにいつも財布の中に千円札を入れていた。
「それじゃあ、ラーメンをたらふく食いましょう!」彼女は少しテンションをあげていった。
「ラーメンか。久しぶりに食べるな」英都は基本外食をしない。
「こういう時は、ラーメンって決まってるんです」千草がテンションを落として答える。
「こういう時って?どういう時?」英都が聞く。
「男と食事をするときです」千草は答えた。「女と食事を取るときは、ちゃんと質素で鮮やかな店を選びます」彼女の言葉は矛盾していた。
「それって、僕は、歓迎されてるのかな?それとも、気まぐれ」
「歓迎してますよ」千草は答える。「歓迎しているから、ラーメンを食べるんです」
「よくわからないな」英都は空を見上げた。夕暮れの朝と夜の混ざった空は美しかった。
校門を出て、二人は最寄り駅までの道を歩く。途中で千草が道を変え、数分すると一軒のラーメン店に着いた。英都はその間、何度か、母に晩飯は要らないことを連絡しようか迷い、結局、一報「食事をしてきます。今日はごはん要りません。いつもありがとう」とラインを入れた。この文章が最善だったのか、彼は分からない。着いたラーメン屋は、左右をコインランドリーと弁当屋に囲まれていて、敷地面積がとても少なかった。ガラス扉の横に、券売機がある。
「古いね」英都は雰囲気で感想を言った。「来たことあるの?」
「無いです」千草は目を輝かせて答える。「でも、以前から入ってみたかったんです。こういうとこ」
「なんか、怖い店だ」エイトは券売機に近づいてパネルを触る。「色々あるね」
「先輩、何食べます?」千草はパネルを覗こうと英都に接近した。
「味噌ラーメンかな。麺の大盛。これで八八十円」英都は千円を器械に流し、ボタンを押す。おつりと食券が別々に出てきて、それを取る。
「私は、この激辛担々麺にします」千草は七百八十円のそれを購入した。
「じゃあ、中に入ろうか」英都はガラス扉を開けた。
中から、膨大な熱気が一気に放出された。英都は瞼が熱くなり、瞬きをする。それが、少し収まると、奥の厨房から湯気が上がっているのが目視できる。丁度、カウンター席の向こうが厨房だ。二人は、少し迷った後、右奥に四つしかいテーブル席の一つに向かいあうように座った。
少しして、小太りの店員が食券を取りに来た。券を渡すと、店員は食券を二つに割って、麺の固さなどを聞いた後、割れた片方の食券を持って去って行った。去りながら、注文したラーメンを大声で厨房に伝えている。
「なんか、ザ・ラーメン屋って感じだね」英都はこの店が作り出す雰囲気に、少しだけ感心していた。
「私、ラーメンを四月から食べて無いんです」
「そいつは良かったね」英都は微笑む。
「英都先輩は、家でいつも何してるんですか?」
「チェスだよ」英都はすぐに答えた。
「え?チェス?」千草は驚いて、少しだまる。「チェスって、楽しいんですか?」
「将棋はやったことある?」
「ええ。何度か」
「同じだよ」
「全然違います」
「まあ、そうだろうね」英都は微笑む。
「漫画とか、読まないんですか?」
「漫画は読まないね。昔は読んでたけど、中学三年まで」
「何を読んでました?」
「昔の少女漫画だよ。少年漫画は、あんまり好きじゃない」
「私、少年漫画しか読んでません」
「そいつは残念」
「おすすめは何がありますか?」
「ガラスの仮面」
「あ、それ聴いたことあります」
「有名だからね」
「読んでみますね」千草はすぐに言った。
「そいつは楽しみだよ」英都は彼女の返事に、少しだけ目を輝かせた。
時間が余り、英都は二人の分の水を汲みに行った。注文のラーメンは、そのあとすぐ、英都の味噌ラーメンが先に届き、そのすぐあと、千草の担々麺が届いた。英都は千草のラーメンが届いてから、食事を始めた。担々麺は汁が真っ赤に染まっていて、英都はぞっと寒気がした。
「うん。やっぱり美味しい」千草は嬉々として真っ赤な担担麺を啜る。
「よく食べれるね。辛いの好きなの?」英都はすぐに箸を置いた。口の中が熱くなってるから、少し休憩する。
「ええ。まあ、かなり」千草は食べながら答える。もう、箸が麺を探っていた。
「すごいな…」英都は麺を啜るのが誰よりも遅かった。
二人は黙々と食事を進めた。何故か、辛い担々麺を食べているはずの千草が先に食事を終えた。それだけ、英都の麺を啜るスピードは遅かったのだ。彼女はデザートが欲しいと言ったが、食券をまた外に行って買わないと行けなかったから、断念した。そもそも、デザート自体があるのかと、英都は疑問に思った。
食事を終えて、二人は休憩を取る。満腹と疲れで、二人ともなかなか喋らなかった。
「日曜日も、みんな無事に帰れたら、こうして食事をしない?」英都が突然言った。「いいアイディアだと思うけど」
「賛成です」千草はにこにこして答えた。「いいですね。それ、また、こんな気分が味わるなんて」
「まあ、その前に恐怖を体験するんだけどね」
二人は店を出ると、駅まで歩いた。時刻は六時半を過ぎている。夏場だから、まだ日は高く、夕暮れ時と言えた。電車に乗り、長い椅子に並んで座る。千草がすぐにうとうとしだし、彼女は眠りについた。十二分ほどして、彼女の降りる駅に着く。その間、英都は周囲の学生から羨望の眼差しを向けられることとなった。起こすと、千草はすぐに現状を確認し、英都に一言謝ってから、飛ぶように電車から降りて行った。英都も眠たかったが、もうすぐで降りる駅だったので我慢した。家に着くと、母が居なかった。少しだけ不思議に思い、二階に上がる。ちらりと見たが、食卓にもキッチンにもご飯は置かれていなかった。母は二十一時に帰ってきた。英都はその理由を、自分の外食が原因だと考えて、母に訳を訪ねるのが怖かった。結局、何も話せないまま、その日は過ぎていく。この日常がいつまで続くのか、英都は少し怖かった。