5話 新天地
今度こそ同じ目に合わなくて済むと思い、安心しながら校閲の仕事に勤しんでいた。そして、たまにお客さんが事務所に来たときにも、皆と変わらぬ対応が出来ていた。
そんな日々を過ごし、前に働いていた職場と同様に何事も無く約1年ほどが経ち、私は完全に油断していた。ある日、たまにしか来ないお客さんとして、同級生が事務所にやって来たのだ。
「シェリー! ここで働いていたの!? 耳が聞こえないあなたがここにいるなんて、想像もしていなかったわ!」
なんてことを言うんだと思ったが、もう時既に遅し状態だった。
「ん? ……耳が聞こえないってどういうことだ?」
上司がそう口を動かした。こうなってしまえば、もう素直に答えるしかない。
「小さい頃に耳が聞こえなくなってしまって……」
上司は私の言葉に驚きの表情を見せた。
「本当に聞こえないのか?」
「……はい」
「じゃあ、何で話せているんだ?」
「口の動きで何を話しているか分かるよう勉強したので、顔を見たらきちんと会話できます」
そう答えると、上司は難しそうな顔をして口を動かした。
「本当に聞こえないのか……。なら、いちいち顔を見て話さないといけないってことだよな? それじゃあ、仕事の効率が悪いよ」
嫌な流れを感じる。
「でも、1年間は問題なくここで働けているんですよ? 今日まではちゃんと――」
「いや、偶然今までは円滑に仕事が出来ていたかもしれないけど、これから困るかも……だろう? そう言うの困るんだよ。ごめんだけど、辞めてくれる?」
悔しさのあまり、事の発端となった同級生に目をやった。彼女は、私が睨んできたと思っただろう。
「まさかさ、こんなことになるとは思わなくて……。なんか……ごめんねっ?」
頭が沸騰しそうなほどに怒りが湧いた。しかし、隠していたという事実がある以上、私に全く非が無いわけではない。
それゆえに、この怒りをここで解き放つわけにはいかない。そのため、私は自身の怒りをグッと堪え告げた。
「今までありがとうございました。失礼いたします」
言った勢いでガバッと荷物を持ち、私は逃げるように家に帰った。
どうして、こうも同じことが繰り返されるのか。どうしてきちんと働いているのに耳が聞こえないというだけの理由で一瞬にして辞めさせられてしまうのか。そんな考えが、頭の中でグルグルと回って止まらない。
それと同時に、悔しく不甲斐ない自分自身にも怒りが込み上げてくる。そして、最終的に一つの考えに辿り着いた。
耳が聞こえないことを隠したくて読唇術を学んだが、こうなってしまえばもうどうしようもない。もう、耳が聞こえないことを説明したうえで、雇ってもらおう、と。
だがこのことは、今まで死にもの狂いで特訓してきた私にとっては、絶対に隠し通すという自身の信念を折った、無念の選択だった。
こうして新たな決意を胸にし、再度仕事を探し始めて面接に行った。しかし、現実はあまりにも残酷であった。
「人がいなくてほんとに困ってたんだよー」
「実は、私耳が聞こえないんです。けど、今みたいに、口の動きを見たらちゃんと会話できます。接客業経験も――」
「ちょ、ちょっと待っててね」
そういうと、面接をしている人は奥の部屋に行った。そして、しばらくして帰って来てから言った。
「もう雇う人決まってたみたいだ。ごめんね」
今にも雇ってくれると思っていた。だが、そういうこともあると思い込むことで自身を奮い立たせて、次の面接へ行った。
「耳が聞こえない? 読唇術なんて、変な本の読みすぎなんじゃない? そんなのあるわけないだろう? そういう嘘なんてつかなくていいから。あー時間無駄にしちまったじゃねえか。仮に使えたとして、口が見えない距離とか状況になったら、何言ってるか分かんねぇってことだろ? うちでは無理無理。帰ってくれ!」
そう言われたため、今回の職種と環境が合っていなかったんだと次の面接へ行った。
「雇ってあげても良いけど、もし仮に君が原因でクレームに繋がったら、全責任取れるの? そうじゃなきゃ、雇えないよ。巻き込み事故もゴメンだ」
確かに会社のことを考えると、わざわざリスクのある選択をしないだろう。ここは相性が悪かったんだと思い、次の面接へ行った。
「耳が聞こえない……? 大丈夫なの? 大変でしょう?」
「大変な面が無い訳では無いですが、私の場合は読唇術が使えますので、業務上は問題ないと思います」
「そうなのね。でも、そういう人って初めてだから、私たちもどうしたら良いか分からないの」
「口さえ隠さないでいてくだされば、普通の人と同じように接していただいて何も問題ありません」
「でも、責任取れないわ。あなたにちゃんとした待遇を用意出来る自信もないし、私たちが不勉強だから今回はごめんなさいね」
そういう優しさの形が存在してしまうのか。だけど、もしかしたら理解した上で、今度は雇ってくれる人がいるかも。そう思い、次の面接へ行った。
「読心術にどれほどの精緻さがあるかも分からないわ。絶対に相手が誰であっても、どんな人であっても言ってることが分かるって断言出来る? 出来ます出来ますって言うけど、こうやってここに来るってことは、社会であなたみたいな人がどう思われるかも分かっていないようね。世間知らずのお嬢さん?」
他にも色々な職場を回った。しかし、数パターンのうちどれかと同じような対応が1年弱続き、私の心は折れてしまった。そのうえ、通える範囲で雇ってくれそうなところはもう無さそうだった。
読唇術が使えるのに、耳が聞こえないというのはそれほどまでに雇ってもらえない理由になるのかとつらくなる。でも、今までは誰か耳が聞こえないことを知る人が現れるまでは、普通に働けていた。
内職として、手芸をしたら良いという人もいた。しかし、耳が聞こえない私は結婚できない可能性が極めて高い。
そもそも、この国で内職の仕事をしている人は、配偶者の稼ぎありきで働いている。そのため、一生を独身のまま生涯を終えるであろう私は、内職ではない仕事に就き生計を立てなければならない。
これらの状況や経験を経た私は、この状況を打開する方法は1つしか残されていないと思った。耳が聞こえないということを知らない人しかいない土地に行くということだ。
もう私に残された道はそれしかない。そこで私は人生をやり直そうと、そう決心したのだ。
決めてからの私の行動は早かった。お父さんとお母さんも、今までの出来事を知っているため、寂しがってはいたが、家を出ることに反対はしなかった。
「お父さん、お母さん、今までありがとう……!」
そう言い残し、私はついに新しい町レイヴェールへとやって来た。レイヴェールを選んだ理由は、実家から陸続きで行ける範囲で、1番遠い場所だったからだ。
かなり長時間だし、途中でどこかに泊まらないと行けないけど、馬車を何個か乗り継いだら行き来できる。それに、私の住む村からわざわざ移住した人も、親戚がいるという話も、聞いたことがない。
つまり、ここには耳が聞こえないという私を知っている人はいない。
この町で新たな人生が始まるのだと、私、シェリー・スフィアは胸を高鳴らせ、21歳にして、その大きな一歩を踏み出した。