16話 トラウマ
家を出て、気怠い身体を何とか動かし続けようやく丘に到着した。
以前、アダムは夕方ごろに来ることが多いと言っていた。今日の私をアダムが見たら、彼はきっと私のことを心配するだろう。
私はアダムには要らぬ心配をかけたくない。そう思い、今日はアダムが来る確率が最も高い夕方になる前には帰ろうと決め、誰もいない丘のベンチに座った。
気分を立て直そうと思って来たが、心地よい風に吹かれて罪悪感が生じた。そして、その感覚とともに、昨日メアリーさんに言われた言葉を思い出した。
『――それを自分がされたら、嫌とは思わない?』
――自分がされて嫌だと思うことを、この私がし続けるなんて本当に人として最低すぎるわ……。
このメアリーさんの言葉は、私にとって海の底深く沈む錨のごとく重い言葉であった。しかも、メアリーさんの立場を考えると、実子じゃないとはいえ仮面の男性は息子同然だ。つまり、メアリーさんからしてみれば、自分の家族が傷付けられていたことになる。
自分がこんな扱いをされることはある意味慣れてしまっている。しかし、家族がこんな扱いを受けていたらと思うと、自分がされる以上に胸が痛むかもしれないと思える。
ということは、私は仮面の男性のみならずメアリーさんのことも相当傷付けていたことになるのだ。しかも、メアリーさんからしてみれば、息子を傷付ける人間を自分が雇っている状態だ。それなのに、昨日は私のフォローもしてくれた。
なんて出来た人なんだろう。ただでさえ少ない従業員で回している職場なのに、不穏分子になってしまって申し訳ない。
今回メアリーさんに注意されたことがきっかけとなり、かつて自分がされた嫌がらせの数々も思い出した。私が仮面の男性にしてしまっていることは、私自身がかつて受けた嫌がらせほどではないと思う。
だが、相手が嫌な思いをしてかつ、周りの人もそれは嫌がらせだろうと認知する時点で、嫌がらせの軽重なんて関係ないのだ。
それに、嫌がらせと見做されたからには、嫌がらせを受けた本人や他者にとって、加害者本人の罪の意識やそのときの感情は関係ない。
――とりあえず、明後日仮面の人に何とかして謝らないと……。
そう思いながら、勝手に涙が頬を伝った。昨日から完全に涙腺がおかしくなっている。ベンチに座って両手で顔を覆い、懺悔するかのようにがっくりと項垂れていた。
すると、少し早いスピードで右肩をトントンと優しく叩かれる感覚がした。驚いてぱっと顔を上げると、私の目の前に片膝を付いて座り、こちらの様子を心配そうに見ているアダムと目が合った。
――え!? 何でアダムがここにいるの!?
アダムに今の私の姿を見せるわけにはいかないと思い、急いで涙を拭い何事も無いように振る舞おうとした。しかし、当然だがそんなことで隠し通せるわけがない。
すると私の表情を確かめた後、アダムは心配そうな険しい表情をして、私の隣の空いたスペースに座った。そして、私の背中に手を回し慰めるようにさすり始め、横から顔を覗き込むようにして彼は口を動かした。
「どうしたの!? 何があったんだ!?」
何にも無いよ。そう言いたいが、私のこんな醜態を晒してしまっているのだ。そんな嘘は通用する訳が無い。かといって、何があったかをどう伝えれば良いんだと思うと、言葉に詰まってしまう。
すると、私が答えないからか、アダムは色々な予想を提示してくる。
「何か嫌なことがあった? もしかして職場!? 誰かに何かされた!?」
どれも違う。どれもこれも、私が人にしてしまったことだ。
「誰も悪くない……私が全部悪いの……」
何とかそう彼に伝えると、彼は信じられないというような顔をして、訴えかけるように口を動かした。
「そんな訳ないよ。だって君が真面目で優しい人ってことは誰よりも分かってる……! 誰かにそんなこと言われたの?」
「人のことを傷付けて、周りの人にも嫌な思いをさせていたの……」
アダムが掛けてくれる言葉に、胸が揺り動かされた。彼は私のことを信じてくれているんだと思うと、罪悪感と共に、本当は感じてはいけないはずの喜びを感じてしまった。
そんな私に対し、アダムは言葉を続ける。
「ねえ、シェリー? 僕に話してくれないか。君がわざと悪いことをしたなんて考えられない。何か誤解があるんじゃないか?」
アダムが私を心の底から心配してくれているのが、痛いほどに伝わってくる。
「っ君が何の理由も無く人を傷つける人とは思えないし、そもそも人をわざわざ傷つけてやろうと思う人だとは思えない! そんなに自分を責めているのに……。何か理由があるんじゃないか?」
なぜ彼は私のことを、こんなにも頑なに信じ続けてくれるのだろうか。だからこそ、アダムに告げた。
「アダムは私のこと、良く見すぎだよ……。私……自分が傷付きたくなくて……人を、傷付けてしまって……。それで、何てこと……ううっ……してしまったんだろうって……」
告解のような気持ちでアダムに気持ちを吐露した。涙が込み上げてきて言葉を詰まらせながら話している私の言葉を、彼は真剣な眼差しで聞いてくれる。そして、私の左手に優しく左手を重ねて口を動かした。
「傷付きたくなくてってどういうことだ? やっぱり何か理由があったんじゃないか。無理には聞き出したくはないけど、僕に話してくれないか? 君を助けたいんだ」
こんなに私に親身になって、真剣に心配してくれているアダムの言葉に涙が止まらない。彼は私の背中を右手でさすり、私の左手をより包みこむように微量の力を込めこちらを見ている。
綺麗な顔に眉間を寄せ、心配そうにこちらを覗き込んでくるアダムはこんな私のことを助けたいと言ってくれている。そんな優しい彼に、この秘密を隠し続けるなんて私には出来なかった。
そして、最大級の勇気を総動員し、意を決して彼に告げた。
「私――ないの」
「え……?」