四十二膳目 「鯵のなめろう」
陽平は相変わらず鯵を三枚下ろしにしている。ある程度の量を捌き終えると、陽平は別のまな板と包丁でねぎと生姜を刻み始めた。
「陽平さん、ねぎと生姜でもう一回刺身食べていい?」
「お前なぁ、俺がそう言おうとした時にはもう食ってたじゃねぇかよ。どーせ次の料理で使うから用意してやるつもりだったのに…、ってコラ」
「あ、いてっ」
陽平の言葉も聞かずに箸を持とうとした和樹の手を、陽平がピシャリと叩いたのだ。
「次の料理すぐできるから待っとけ」
「次は何作るのー?」
「なめろう」
少し機嫌の悪い陽平は、吐き捨てるように言う。
「おおぉ、もろ酒のツマミじゃん」
「だから言ったろ?」
「陽平さん、さすがにこれは酒飲ませてよー」
「えー、どーしよっかなぁー」
「なんでよー」
「さっきつまみ食いしようとしたじゃん」
「そこを何とか!」
大げさに拝むポーズをして、和樹が目で訴えかけてくる。ややあって、陽平が大きなため息をついた。
「……しょうがないなぁ。今日の夜、また俺の言う通りに動いてもらうからね」
「やったー!」
「まだ明るいんだから、自制しろよ」
「わかってるよー」
その声は絶対わかってないない声だ、と陽平は心の中で思った。まぁ、いざとなれば、和樹から酒を取り上げればいいだけの話だ。
ねぎと生姜を刻み終えると、立て続けに茗荷も細かく刻んでいく。香味野菜を全て刻み終えると、陽平は魚用のまな板の上に鯵の半身を二枚置いた。それを最初は大き目のぶつ切りにし、段々と細かくしていく。
「そういえば、なめろうって何でなめろうって言うの?」
「またとんちみたいなことを…」
「だって不思議な言葉だと思わない?」
「あまりの美味しさに、皿まで舐め取ってしまいそうになるから、らしいよ」
「そうなんだー」
「俺もそこまでしか知らない」
陽平が刻む鯵はもうそぼろ程度まで細かくなっている。陽平は一度手を止め、先ほどの香味野菜と少量の味噌を加えた。ここからは左右両方の手にそれぞれ包丁を持って叩いていく。
「あと別名で『沖鱠』ってのもあるね。漁師が沖の船で釣りたての魚を使って作るから」
「なますって、野菜の酢の物の?」
「生の肉や魚を細切りにした物も同じ名前で呼ぶの。ま、生肉の方は今はまず作らないだろうけど」
「へー」
「なめろうを氷水に落とした汁物みたいなのは、『水鱠』って呼ぶらしいね。俺も聞いたことしかないけど」
「あっ、これこれー」
和樹は冷蔵庫で日本酒を探していたようだった。
「なめろうだったら、辛口で酸味のある酒が合うよ」
「オッケー」
少し粘り気を帯びてきたところで、陽平は包丁を置いた。完全にはつぶさず、鯵の身の食感がわかるぐらいにしてある。
「さ、なめろうできたよ。新鮮なものだから、あんまり粘り気出さずに仕上げたよ」
「確かに。ペースト状になってないね」
「だってもったいないじゃん。鯵の食感残した方がいいと思って」
「タタキみたいだね」
「味噌入れてなきゃタタキだろうね。ま、味見してみ?」
陽平から手渡されたスプーンを使って、和樹はまな板から直になめろうをすくった。
「どう?」
「めっちゃ美味い!」
「だろ?」
「このシャキシャキしてるのは?」
「それは茗荷」
「ねぇ陽平さん、もう…、我慢できないよ」
「ハイハイ。飲んでいいから」
和樹が喉を鳴らしてグラスの冷酒をくいっと飲み干した。
「はぁー、やっぱりこれに限るわ!」
「まだ八品あるんだからほどほどにしろよー」
「わかってるよー」
陽平の忠告も、やはり今の和樹には意味のないことだった。




