6 フシケ
長靴を履いているとはいえ、冬の川に足を浸けているというのは結構こたえる。長靴から、ツンとした冷たさが染み込んできて、つま先が痛い。
白い息を震わせて、なんとかマナさんの隣に上陸した。
マナさんはまだ片膝をついて何やらぶつぶつ唱えていて、私はただただ突っ立っていた。
「・・・・・・、”フシケ”」
何か言い終わると、マナさんはパッとと立ち上がって私の背後にまわり、前に手を伸ばして私の額を3回ぽんぽんぽんと軽く叩いた。
フーッと長い吐息をついて、これでおしまい、とマナさんは言った。
「おまえさんの名前は、今から『フシケ』だよ」
「フシケ?私が?」
マナさんはこくりと頷いた。
「記憶を失った人はね、魂が不安定なんだよ」
帰り道、マナさんは〈魂定めの儀〉についていろいろ教えてくれた。
私はというと、歩くのが速いマナさんの背中を小走りについていっている。長靴が道を叩くとゴポゴポと独特の音がして、ちょっとだけ恥ずかしい。
「幼い子供は神様の子。魂がちゃんとこっちの世に定着してなくて、あの世の闇に引っ張られやすい。だから、七歳まで生きられる強さを持ってる子は〈魂定めの儀〉をする。神の子であった頃の名前を手放して、この世の人間として生きていくために。
記憶を失くした人もまた同じで、七日以内に少しでも記憶を思い出せなければ、不安定な魂をこっちの世に引き留めるために〈魂定めの儀〉を行う・・・・・・・あ、すまんね気付けなくて。あたしゃ歩くのが速いから」
マナさんはこっちを振り返って苦笑し、歩くペースを私に合わせてくれた。
それきり、しばし会話が止まる。踏み固められた住宅街の道を抜けていく。人々の生活音が飛び交う中で、喋らずにそれを聞きつつ歩いていくのは、むしろ心地よかった。
「・・・フシケ」
「なに?」
「たとえばおまえさんの場合、『ケマル』であった頃の魂は一度死んでいると、私達〈境の民〉やダクシナ人はみなすんだ。記憶を失くした今のおまえさんは、『フシケ』として生まれ変わったのだと。
こう聞くと変な感じだろう。・・・でもね」
マナさんはずっと前を向いていたかと思うと、私の方に顔を向けて微笑んだ。やわらかい、子を慈しむ親の笑みだった。
「記憶を失った者の〈魂定めの儀〉ではね、その人がしっかりともう一度新しい人生を歩んでいけるように心をこめて、その人の家族が新しい名前を決めるんだよ」
私は何も言えずに、マナさんの言葉が脳に浸透していくのを待っていた。
やがてその意味がストンと腑に落ちるのと同時に、不思議な感覚が襲ってきた。
こそばゆいような、せつないような何かが胸を締め付けて、その一点から心があたたかくなっていく。
たとえば小学校の二分の一成人式で、「お母さん・お父さんからのメッセージ」を一人一人配られて読んだ後味のような。
たとえば親友のミユちゃんが、『カズが喜んでくれたらな~、って』とプレゼントをくれたときのような。
「ありがとう」
自然と口から零れた言葉に、マナさんはほんの僅かだけ頬を桃色にして肩をすくめた。
「さ、もうすぐ家だから。帰ったら店番手伝って」
「しっかし、『フシケ』かぁ。可愛らしい名前になったもんだな」
「え、可愛らしい名前?そうなの?」
私は鍋物が入ったお椀を持ったまま、サリトに向けて眉をひそめた。
「ん。だってフシケって、旧ダクシナ語で『蝶』って意味だぞ」
サリトは箸の先をちゃっちゃっと打ち鳴らして、眉をひょいと上げた。野菜が口に入ったままなので、くぐもった声だ。
「サリト兄ちゃん、食べ物口に入れたまま喋らないでって言ってるでしょ、行儀悪い」
お茶を飲んでそう言ったのは、ニマちゃん。サリトの一つ下の妹だ。
マナさん、その夫のイサクさん、サリト、ニマちゃん、長男でサリトの三つ年上のお兄さん・サクさん。それからサンばあさんと、私。7人で囲む囲炉裏端は狭くて、でもほかほかと暖かい。
「ねねね、k・・・フシケ、『フー』って呼んでいい?」
ニマちゃんが、目をきらきらさせて身を乗り出した。うんいいよ、と頷くと、ニマちゃんの顔がパッと華やいだ。すっきりした涼しげな目元が、サリトとよく似ている。
「いいよなぁ」
サクさんが、鍋の鶏肉を口に入れつつ言った。
「俺の『サク』はさ、ダクシナの言葉でサクって呼ぶ鳥から来てるんだけど。シヤト語でも同じ発音の言葉があるんだよ。フー、シヤト語で『サク』ってなんていう意味だと思う?」
「・・・・魚、とか?」
首を傾げる私に、サクさんは何ともビミョーな笑みを向けた。
「『小さい豆』だとさ。誰が豆だよ、俺は背高いほうだぞ!?」
この中で一番座高が高いサクさんが愚痴り、マナさんがそれにピシャリと反応する。もう鍋物の三杯目のおかわりをよそいながら。
「いいじゃないか、いくらシヤト帝国に吸収されたっていっても、あたしたちはシヤト人じゃなくてダクシナ人なんだから。そんなこと気にしてんじゃないよ」
「んーまぁそうだけどさぁ」
「親が心込めてつけた名前にケチつけちゃダメだよ、そんなだから十七歳になってもお嫁さんの来手がないんだよ、サク兄ちゃんは」
「べつにケチはつけてねぇよ。・・・つーか俺の嫁の来手がないのとは関係ないだろ」
そんな会話がやり取りされるのを眺めながら、私はずっと頭の中で引っかかる何かを探っていた。
ー『フシケって、旧ダクシナ語で「蝶」って意味だぞ』
んん?
鍋のかけられた囲炉裏で、火があかあかと燃えているのを何気なく見つめた。
火は熱い。それは当たり前。鳥が鳴くのもそうだ。私たち人が喋るように。
「・・・あれっ?」
唐突に声を上げた私に隣のサンばあさんが、なんか鍋に虫でも入ってたかぃ、と訊いてきた。
「いやぁ、そうじゃなくて」
意味もなく頬をぽりぽりと掻いて、私はサンばあさんに顔を向けた。
「今更だけど、私、・・記憶を全部忘れたのに、なんでみんなの言葉がわかるんだろうなって。文字だって読めるみたいだし」
サンばあさんは私の顔をまじまじと覗き込み、やがて皺をいっそう多くして笑った。若い頃はもっと豪快な人だったんだろうな、と思うくらいに。
「そりゃぁそうさぁ。体が覚えてるんだよぉ。体は魂の容れ物だから、魂が記憶を失くしても、万に一つ魂が入れ替わったとしても、身に染み付いたことは自然にできて当たり前だぁ」