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5 〈魂定めの儀〉

ちゃぽん、とお湯が波紋をつくり、足が痺れるような熱さを感じ取る。だんだんと、それが体をとかすような心地よさに変わっていく。

なるべく壁を見るようにして、私は大きな樽のような湯船に浸かった。

水面からもわもわと白い湯気が上がって、天井近くの小窓から黒い空へと吸い込まれていっているのが見えた。


ー『〈魂定めの儀〉っていうのは、七歳の誕生月をむかえた子供がやる儀式だよ。何やるかっていうと、まぁ、簡単に言えば改名だな。

記憶を失くした者は、七日経っても記憶が全く戻らなければ、記憶を失くしてから十日目に〈魂定めの儀〉をしなくちゃならない』


昨日の昼間の、サリトのなめらかな声が、脳裏にありありと蘇ってくる。

この世界で目が覚めてから、慣れないことがいっぱいあった・・・いや、ある。トイレ(こっちでは厠と呼ぶようだ)が、まさかのポットン便所だったりとか。


何より慣れないのが、というか慣れたら女子高生であった者としてはよろしくないんじゃないかと思うのが、この少年としての身体。

いつもは考えないようにしてるし、むしろ身軽で安定感がすごいから良いんだけど・・・

お風呂とか、厠に行くときは、嫌でも直面させられる。厠は視線を壁に向けたまま和式トイレの要領で用を足して、お風呂も始終壁や天井を眺めてられれば何とか乗り越えられはする。でも。


自分の心の感覚としては女子なのに、身体は男子っていうのが、ちぐはぐというか。

不完全な感じで、もやもやする。


数ある異世界転生ものの主人公たちは、異性に転生した人物たちは、この問題をどうやってパスしたんだろう。部活仲間から聞いて、異世界転生のパターンについてはいくらか知っている。私の転生は、どういうパターンに属するんだろうか。あぁ、考えていたら本が読みたくなってくる。


おそらく手作りの石鹸を泡立てて体を洗う。

香料でも混ぜ込んであるのか、新鮮で爽やかな花の香りがする。

あたたかい泡で、宇野万葉であった頃よりもずっと筋肉質な腕を洗う。よく人から『サバサバしている』と言われたけれど、やっぱり宇野万葉は女の子なんだなと思った。





「じゃぁ、行こうか」

マナさんは寒さよけの頭巾をかぶり、私にも同じものをかぶらせて言った。今日は私がこの世界で目を覚ましてから10日目。〈魂定めの儀〉を行う日だ。

「ちょっと歩くよ」

勝手口から外に踏み出すと、キンと冷えわたった朝の空気が身を刺す。マナさんは、私には動物の皮に油を塗ったもので作られた長靴を履かせてくれた。だから、何枚も重ねられた皮に守られて足は寒くない。

六通(りくどお)りとは反対方向の、店の裏側に面する細い道を歩いていった。このあたりの道を通るのは初めてだ。決して立派な作りとは言えない家々が、雑居に立ち並んでいた。


住宅街を抜けて田畑が多くなってくるにつれて、水が流れる音が大きくなる。

ちょっと青くさいような、水特有の匂いがすると思ったら、目の前に川があった。じゃりじゃりと石を踏みしめて、私とマナさんは川岸へ行った。


なんだろう、あれ。

私達が対面している川の真ん中あたりに、二本の棒が立てられている。その棒の先端には布が渡してあって、ちょうど門のような感じになっている。神社の鳥居みたいな。


「この紙人形を持って、川に向かって立って。ピシッとね」

私に人形の小さな紙を渡すや、マナさんは懐から大きめのお椀を取り出して、竹筒に入った液体を注いだ。アルコールの匂いが、ぷうんと漂った。


「親愛なる川の精霊ハーナラァよ、この世とかの世を結ぶモノたちよ。今、この世とかの世の(はざま)で揺れたる魂を、この世に繋ぎ留めん」


マナさんの手から、お椀の酒が宙に舞った。流れるような動作で、空中、地面、そして川へと酒が撒かれた。続いて、マナさんは川原に片膝をついて水面を覗き込むような格好になるや、私に抑えた声で言った。

「あの棒と棒の間をくぐって、川の対岸に行きなさい。でも、岸に上がったり、棒に掛かった布に触ったりしちゃだめだよ。向こう側に言ったら、その紙人形を一度額に触れさせてから川に流す。そしたら、もう一度棒の間をくぐって、こっち側に戻ってきて。

その間、絶対に声を出さないように気をつけるんだよ」

行っといで、と囁かれるがまま、私は滔滔と流れゆく水に右足をつけた。ちゃぷり、と、水音が想像以上に大きく響いた。


ここは川のなかでも結構浅いところらしく、私の足首より上あたりまでしか水はなかった。

ちゃぷ、ちゃぷと涼やかな音をたてながら、流れに足を取られないよう注意して進む。背後でマナさんが何かぶつぶつ唱えているのが伝わってきた。


棒と棒の間ーもう長いから門と呼ぼうーを、くぐった。


ふわりと、何かが全身の肌を掠めた気がした。僅かに弾き返されるような、膜を破るような感覚。

そこから少しくらい進んで立ち止まる。このへんでいいのかな。

対岸には幅の狭い川原があって、その向こうには黒々とした森が佇んでいた。ずっと見つめていると吸い込まれそうで、なんとなく視線をそらした。


右手の中の乾いた感触を思い出した。安倍晴明の式神みたいだな〜と思う、薄っぺらい人形の紙片。日の光に照らされて純白に輝くそれを、私はおそるおそる額につけた。

えぇと、これで、流すんだっけ?

川面を見つめる視界の端を、寒天みたいな魚みたいな何かが掠めていったのは、さすがに気のせいだろう。


冷気を放つ水面に近づけて手の力を緩めると、紙人形はするりと私の指から飛び出していった。

流れに揉まれてちらちらと見え隠れしつつ川を滑っていった…その後に残る、鳥肌が立つほど澄み渡った川に、私はしばし目を奪われた。

あぁ、戻らないと。


また門をくぐると、今度は背後から風が吹いたような気がした。

そこで初めて、あることに気付いた。門の向こう側で私は、音が聞こえていなかったのだ。どっと耳に流れ込んでくる川のせせらぎ、マナさんの気配、むこうの住宅街の喧騒に押し倒されそうだった。

空が、広い。

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