3 「〈境の民〉のケマル」
楽な姿勢で聞いてくれたらいいから、と言われたので、私は布団の上に座りそっと壁に背中をもたせかけた。
マナさんは、布団があるところより一段低くなっている床に座り直し、私を見据えた。
どこかから伝わってくるぼんやりしたざわめきが遠ざかっていくようだった。火鉢の炭だけが、ちろちろと朱く呟いている。
「まず改めまして、私はマナ。マナ・ユ・ハィダン・ディ・メオ〈メオ家の者の妻、境の民のマナ〉。おまえさんのおっ母さんの妹、つまり叔母だよ。息子が三人と、娘が二人いる。
おまえさんの名前は、ケマル・ユ・デガハィダン〈デガ山地境の民のケマル〉」
「・・・ハィダ・スィピ?」
ちょっと眉を寄せた私に、マナさんは黙って頷いた。
「〈境の民〉は、ここダクシナ領の山間部や泉のほとりで暮らす民族だよ。あたしやおまえさんは、そこの出身ってわけ」
火鉢の炭が、ほろりと崩れた。
まぁこれは前置きとして、と、マナさんはさらに続けた。
「ケマル、おまえさんたち家族は・・・熊に襲われたんだよ。
おまえさんたちが暮らしてたのは、デガ山地の北の中腹辺りなんだが、あのあたりには熊が結構いてね、たまに冬も眠りにつかずにうろついているやつもいるんだ。姉さんたちは熊を家の周りに寄せ付けない術を持ってたんだけれど・・・・
あたしが駆けつけたときにはもう、比較的怪我が軽かった おまえさんしか、助からなかった」
ふかく息を吸う音がした。
「ケマル、ごめんなさい。あたしは、おまえさんの家族を、助けられなかった」
え、と自分の口から声が漏れるのがわかった。
床に手をつき、深々と下げられたマナさんの頭に、髪を結わえている鳥の羽らしき髪飾りが、ほそく震えていた。
体がひんやりと締め付けられて、かたいものが喉元までこみ上げてくる。
マナさんがしてくれた話は、何かの物語みたいで、遠くて、まだ飲み込みきれない。でも。
『ケマル』としての記憶がない私より、姉を喪って唯一生き残った甥は記憶が無いと知って、マナさんの方がずっと辛いはずなのに。
あたたかい布団に入っていたせいか、ほんの少し汗ばんだ足が冷たい。
「それは…マナさんのせいじゃない、と思います」
伝えたい何かはあるのに、それをどう表現したらいいか分からない。
なんでなんだろうな、という思いが、唐突にフッと浮かんできた。
なんでこんなことになってるんだろうなんで私は異世界転生したんだろうこの体の中のケマルくんの意識はどうなってるんだろう、
なんで私なんだろう。
悪いけど、うちは商売やってて店の方に行かなきゃならないから、何かあったら呼んでよ。
そう言って包帯などを持ち部屋を後にしたマナさんの背中を、私は何とはなしに眺めた。
まだよく分からないことだらけだけど、私は異世界転生したのかもしれないという思いは確信に変わった。
そもそも私は『異世界転生』とかいう世界観が好きじゃないから非常に不本意だ。信じたくない。でも、手当をしてくれたマナさんの、ところどころアカギレができて がっしりした手からは、マナさんにも人生があることを痛いほど感じられた。サリトくんも、マナさんも、このケマルくんの体も、しっかりと生きてきた事実があるんだろう。そして今のこの体の痛みも。それを認めないなんてできない。
だから考えてみよう。異世界転生について。
そう、ぼんやりと思った。
いつの間に火鉢にかけられたのか、黒々とした薬缶がシュンシュンと白い蒸気を吐き出した。
まぁとりあえず、安静にしていよう。