1 気付く
ーねぇカズ〜、どうやったら歴史のテストで90点も取れるの?なんか秘訣ない?
ーミユちゃん、歴史は覚えるしかないよ?
ーうぅ~
歴史小説は好きだけど、なぜか歴史の勉強は苦手なミユちゃんと、何度この会話を繰り返したことだろう
会話はいつもそれだけで終わったけれど、今回の期末テスト前は、もうちょっと長く続いたんだっけ
あのとき、私は何て言った?
ーうぅん、覚えるしかないけど・・・教科書のなかで生きてる人の息遣い、みたいな?生き様を意識したら、ミユちゃんは覚えやすいのかな
冗談で流されるかと思いきや、ミユちゃんは真面目に返してきた
ー教科書の紙のなかでも本の中なかでも、どこでも、そこにいる人達はそれぞれの人生を生きているし、フィクションとは言い切れない、ってことか
あぁそうだ それから二人で、今のは何の話よ、変な会話!と笑い合って、私の家で一緒に勉強した
***
チャプリ
ひんやりとしたものが額に触れた。深い水底から浮き上がるように意識が戻ってくるのがわかった。自分の瞼の裏の、赤いもやもやが見える。
何かなつかしい夢をみたような気がするけど、頭の片隅に引っかかっちゃっている感じだ。
「・・・痛っ」
起き上がろうとしたても体に力が入れられなくて、すぐにまた寝転がってしまった。身体が熱い。おでこに乗っかった布だけが、ツンと冷えている。
「あ、急に動くなよ。肩と左腕の傷、一昨日縫ったばかりなんだから」
なめらかな、朗朗とした声が頭のすぐそばから響いて、私は思わずびくりと体を固まらせた。
目玉をあらんかぎり動かして、右端の視界に映ったのは、14,5歳くらいの・・長髪を前髪ごとポニーテールにした髪型だけれど、明らかに男の子だ。顔つきが、どこか見覚えがあるような。
「まだ少し熱もあるし、安静にしてな。怪我人は怪我を治すのが仕事だ。・・・ケマル、今、お前誰だよって顔してるだろ、あ?」
ふいに、おばあちゃんの家みたいな優しい匂いが鼻を掠めた。うわ、心臓に悪いから急に顔を接近させないでほしい。
「ま、しゃあないか。物心ついてるかもあやしいチビスケの頃に一度会っただけだもんな」
いや、私にとっては初対面なのだけれど。なんてったって私は、死んだはずの高校生・宇野万葉なんだから。
そんな私の困惑をよそに、仰向けになった私の顔を覗き込んだ男の子は、にやっと笑った。
「おれは、サリト。マナの息子だ。歳は十四だから、おまえと同い年ってことになる」
言うやいなや、サリトはパッと身を起こし、枕元の桶をひっつかんで部屋を出ていってしまった。
「ケマルの目が覚めたし、傷もそろそろ洗わにゃならんし、母ちゃん呼んでくるわ」
と言い残して。
「・・・」
ふぅっと澱んだ息を吐き出して、私は天井を仰いだ。
明るい色の木材が、ぴっちりと敷き詰められ、煤けた梁が横に縦にゆき交っている。部屋はさほど広くなくて、全体が木でできている。カラフルな線と線が絡み合った不思議な模様の布が壁に掛けられていて、よくわからない文字らしきものが刺繍されているようだ。部屋の隅に、学校の机ほどの棚があって、そこに円い板のようなものが鎮座しているのも見えた。
遠くからは何か、賑やかな話し声らしきものが、ぼわんと頼りなく伝わってくる。
しんとした、ふわふわした静けさがあった。
今の、サリトっていったか、マナさんの子供なんだ。そういえば、全体的に気っぷの良さそうな雰囲気や、涼しげな目元にその面影があった。ということは、ここはマナさんのお家か。って、あれ?
『歳は十四だから、おまえと同い年ってことになる』
「いや、私は17…」
はっきりと、違和感がした。
右腕はほとんど痛まずに動く。その指先に全神経を集中させると、震えがこみ上げてきた。胸を圧迫されて、あるいは内側から押し上げられている気分だ。
ゆっくりと、指を喉元にやる。
女の私にはあるはずのない、硬い出っ張りがある。
「え・・・」
私のものでない、少年の声。
おそるおそる、手を首の下へと滑らせた。
自分で知っているよりずっと、硬い感触。
真っ平ら。
さらさらの布としっかりした筋肉の下から、とくとくと鼓動が指を微妙に上下させている。
おっぱいが、ない・・・
なぜか、視線は部屋の隅の棚へと流れていった。あの円い板は、もしかしたら。
痛みもかまわず、私は体が許す範囲でゆっくりと起き上がった。そうやって初めて、自分が寝ていたところが床より1段高くなっているのだと気付いた。
高熱を出したときのように、ふらふらとしか歩けない。足が床につくたびに、左腕と左肩が引き裂かれるようだ。
どうにかこうにか前に立つと、その円い板は、なめらかな表面に思いの外鋭く私の姿を反射した。
少し茶色がかった短髪。
半開きになった口を縁取る、薄い唇。
人の良さそうな瞳。
包帯に包まれている、引き締まった身体。
全く知らない少年が、そこに映っていた。
私は宇野万葉だ。交通事故で死んだ。
でも、見たことのない世界で、見たことのない少年の姿でここにいる。心臓が一定のリズムでしっかりと脈打っている。全身で痛みを感じている。 現に今直面していることを認められないほど、私は馬鹿ではない。
部活仲間の、なろう系漫画が好きな子が言っていた、異世界転生のパターンの1つと同じだ。同じすぎる。
無意識に、頬へ右手をやっていた。
私は、本当に『異世界転生』したのか ー
ケマル→ヒンドゥー教で家庭での礼拝に使う手持ち香炉
サリト→ユダヤ教の肩掛け
アジア風とか書いときながら、サリトだけ名前の由来が若干ヨーロッパ寄りか?ぎりぎりアジアか?
それから、今回まで間があきましたが、これからしばらくはもっと頻繁に更新できそうです。