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8 春の兆し

大気は、まだ冷たくて息を凍らせる。

それでも、降りそそぐ陽は春の気配を孕むようになってきた。




ごそごそした人の気配がして、私は小さく唸って伸びをした。鳥のさえずりと、戸の隙間から差し込む薄青い朝の光が、しん、とした落ち着きを感じさせる。体を起こすと、ニマちゃんが既に起きて着替えも済ませ、寝具を畳んでいるところだった。

隣で唸り声がした。サクの声だ。見ると、ちょうど今目を覚ましたらしいサクが、寝相の悪いサリトに足技をかけられるような形になっている。サリトの長い黒髪が床に広がって、水たまりのようだ。顔をしかめているサクと、涼しい顔で寝息を立てているサリト。思わず吹き出してしまった。

「サリト、いいかげん起きろ、蹴るな」

寝起きの目をしょぼしょぼさせて、サクがサリトの肩をゆする。それを横目に、私は自分の上衣を篭から引っ張り出した。

着替えをするたびに、カルサ君がくれた『異界輪廻妄想譚』が目に留まる。あれ以来、カルサ君をこの六通(りくどお)りで見ることはない。一瞬の縁というものだったのか。ときどき思い出しては、また日々の生活に意識が傾く。目立った変化のない、落ち着いた一日が過ぎていっている。

ほら、今日も。



朝ごはんの味噌粥をかき込んだら、掃除をする。たった一日でも、土埃や小枝は店先に被っているもので、箒で集めるとそれなりのの量になった。驚いたことに、箒を扱ったり雑巾を絞ったりする私の手は、宇野万葉(かずは)として生きていた頃よりも俊敏に動くのだ。ケマルくんのこの体は、なかなか器用だねぇ。


大きな表玄関を開け放つと、雑多な店と共に、山より少し上で居座る太陽が存在感を増した。通りには、もう ちらほらと人影があった。マナさんがくれたサラシで縫ったネックウォーマー状の首巻きを巻いて、私は店頭に立った。


ところ狭しと軒を連ねる店の数々。風に乗って流れてくるのは、薬草の鼻につく匂いであったり、甘味屋のあまい香りであったり、誰かの歌声、はたまた呼び込みであったりする。それが妙に懐かしいような、不思議な心持ちになることもあった。こうして、この世界の衣服を身につけて働いていると、自分は…宇野万葉(かずは)は何年もこの世界で生きているんじゃないかという気さえする。私の中の『ケマルくん』の感覚なのかもしれないし、ここ自体がそういう、『宇野万葉』にとって懐かしい何かを内包しているのかもしれない。


仕事は、お客さんの応対と、店内を整えること、呼び込み、そして売り物作り。マナさんとイサクさんは、各地の地図や金具、縄や布などの仕入れ先とのやり取りもしている。レジ(というかお金の受け渡し)はサクがが受け持つ仕事だ。私は最近、油紙作りをニマちゃんやサクと共に任されている。床に布みたいに大きな紙を広げ、削ったロウを散らす。そこに薄布を被せ、温めたコテを当てると、ロウが溶けて紙に染み込むといった塩梅で油紙ができる。やってみると至って単純な作業で、私もだんだん速くできるようになってきた。


そうこうしているうちに、お昼どきがきた。ここまでの体感時間、一時間ほど。



「ニマ、そこの漬け物取ってくんない」

「それくらい自分で取りなよ」

「ニマのほうが漬け物に近いじゃねぇか」

「サリト兄ちゃんのところからだって、手伸ばしゃ届くでしょ」

「それはそれでおまえ、邪魔だって言うだろ」

「言わないし」

「前に言われたことあるんですけどー? 」

「ぇえ? 」

交代で昼食をとるこの時間、私はサリトとニマちゃんと一緒に食べることが多いのだけど、まあ二人はよく喋る。サリトが若干煽り気味な口をきくし、ニマちゃんもすぐに乗っかりそうになるから、私は今も内心ひやひやしている。でも、本格的な喧嘩になることは ごくごく少ない。不思議なもんだなぁと思いながら、私は川魚の塩漬けを飲み込んだ。


午後も同じように過ごして過ごすと、気付けば日は ずいぶん西にあった。通りの石畳に、人々の影が細長く蠢き、空からの光は黄色っぽさを帯びている。

薄青かったり、黄金色だったり。家に差し込む光は、時間によって表情を一変させる。宇野万葉として生きていた頃も、そういう光の変化はどことなく好きだった。今は、もっと。清々しい空気を肺の隅々まで染み込ませると、一段と世界が鮮やかになるようだった。


風呂から上がって、私は囲炉裏端に腰を下ろした。乾いた紙のサラサラした感触が、右手の中にある。

寝間から取ってきたそれ(・・)の紐をついと引っ張ると、たちまち解けて垂れ下がった。深みのある緑に染め上げられた紐は、囲炉裏でくゆる赤い火に照らされて、上品な光沢を出した。


何時(いつ)の世のことか、緑なす富国の片隅に、慎ましやかなる青年居たり。肉親おらず、橋の下に筵敷き冴えぬ一世(ひとよ)を暮らしたり。或る夏の日、銭に困りて市などうろつけば、馬の嘶き頭上に響き、ふと気付けば、そこは闇なり。果てしなく深く、果てしなく浅い闇なり。無色透明の闇なりー】

こんな冒頭で始まる『異界輪廻妄想譚』を いくらか読み進めてから床に入り、一日は終わる。



そんな一日の繰り返しに、わずかな色味が加わったのは、六通(りくどお)りの中央にある広場の木が蕾を膨らませ始めた頃だ。




朝から風が強い。砂埃が舞っているのか、踏みしめる床の感触が普段よりざらついているような。おさまった、と思ったら、また風に煽られて、お店の看板や旗がガタガタ音を立てる、その繰り返しだ。店の出入口近くに行くと、途端に生ぬるい風が頬を叩く。外で仕事をしているカイラさんはどうしているか、声をかけてみようと思った瞬間、


ゴウっビュルルルルビョォオ

すごい風音がして、右サイドの髪が目の脇にぶち当たった。私は、思わず目を細めて空を仰いだ。

ふと。半透明で、髪が長い女の人の姿がちらついた気がした。

頬を桜色に染めた彼女が、家々の屋根より高いところを滑っていく。でも、その姿をよくよく見ようとすると見えなくなる。目をそらすと視界にくっきりと映る気がする。そんなモノが見える、気がした。


「ロンハゥア〈風の精霊〉が恋をしたよ! 」

カイラさんの、歌うような調子の掛け声で、私は我に返った。見ると、カイラさんは紅い耳飾りを煌めかせて、風をものともしていない様子だ。琵琶の弦を軽く爪弾き、歌とも詩の朗読ともとれる調べが、声優さんですか? と訊きたくなるいい声で湧き出していた。


「ロンハゥア〈風の精霊〉は、冬の終わりに恋をする 

いとしい夫、ダハル・ビィ〈土の精霊〉に恋をする

乙女の心、いとおしき夫のもとに駆けるとき

木々踊り、空は歌い、頬赤き少女の髪は水流のごとく揺れる

やがて二柱の精霊、今ひとたびの短き愛の囁き交わし 漏れ(いで)たあまい吐息は

緑芽吹かせ、雨をあたため、万物精気を宿す

おお、大いなる風の精霊ロンハゥアよ、春に目覚めし乙女よ、凍てつく冬をその腕に掻き抱き、運び去り、我らに恵みをもたらさん…‥‥」

耳を澄ますと、ほかの何処かからも同じような旋律が微かに聞こえてくる。

この強風…おそらく春一番が、徐々に春を運んできてくれることを祝っているのだろうか。私は、しばしカイラさんの横顔を見つめていた。



いや、春一番が運んでゆくのは、冬だけではない。




「油紙の大きいのを三枚、麻縄を一束、薄布を一枚、カッコ(日持ちするように甘く焼き固めた菓子)を・・・一袋と、塩とジャオ(傷に効く薬草)をちょうだい。あと、オタノ貨幣に両替おねがい」

カイラさんがルーティンのような口調で言った。マナさんとサクが、待ち構えてましたとばかりに それらを用意する。


「いつもより早いね」

「ん。今年の春はラト王国の王女が成人なさるそうでね、ラト各地で祝の催しがあって、言祝ぎの歌を披露すりゃおひねり(・・・・)が弾むから。早いうちに向こうへ行って、あとはオタノ公国あたりまで巡ってこようかなと」

「それじゃぁ、冬はカタム辺りで越すことになるかい」

「まぁそのつもりだけど、ほら、今さ、オタノ公国とテウレン王国が国境線でピリピリしてるって風の噂でしょ。場合によっちゃ、夏か秋頃にはこっちに戻ってこなくちゃならん羽目になるかもな」

物騒だねぇ、と苦笑して、マナさんはカイラさんの肩をポンと叩いた。

「じゃ、道中の幸運を」

カイラさんは にやっと笑って頷き、店の奥へ身を乗り出した。


「サク、今年こそいい嫁さん見つけろよ。もう十八になるんだろ」

「うるっさい、余計なお世話だ! 」

作業をしていたサクが、赤面して叫んだ。その、プチ黒歴史を暴かれたみたいな顔を尻目に、カイラさんは喉を震わせて笑い、ひょいと片手を振った。

春一番が吹いた…ロンハゥア〈風の精霊〉が恋をしたという日から、一週間と少し。

カイラさんは、まさに春風のように、旅に出ていった。



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