7 〈境の民〉は
長らく登場していない人がいるので、いちおう書いておきます。
サク→サリトとニマの兄
「おまえ、言ってなかったのか」
すすけた鍋で、お粥が くつくつと煮えている。
イサクさんが意外そうな声を上げたのが居心地わるかったらしく、マナさんはムスッとした顔でお粥をすすった。
シヤト兵に絡まれていたところをニマちゃんに引き戻してもらったときには、だいぶ日が傾いていた。書物屋で夢中になって、知らないうちに時間が経っていたみたいだ。帰って、1時間ほど働いたら、煌々とした太陽は空を薄紫に染めて山際に沈もうとしていた。カイラさんは宿に帰り、周りも店じまいを始める。
ニマちゃんと私が、シヤト兵に絡まれていたことを口にしたのは、夕餉の時間だった。話してみると、どうにも噛み合わない。私がここに来たときに、〈境の民〉のこともマナさんが詳しく話していると思われていたみたいだけど、私が聞いていたのは、私やマナさんが〈境の民〉出身だということぐらいだ。だから、イサクさんは驚いたのだ。
「・・・言いたく、なかった」
やがて、丸めて投げるような口調の返事だけが囲炉裏端に響いた。サリトやサクが、お粥を口に運びつつマナさんとイサクさん、私へと順番に視線を寄越す。
「そうか、そうだよな。こっちも気が回らんで悪かった」
やはり、という気持ちと、もどかしさとが入り混じったような表情でイサクさんは吐息をついた。
「じゃぁフーは、〈境の民〉がもっている能力のことも、入れ墨のことも、シヤト軍とのことも知らない…覚えてないんだな? 」
「あぁ、うん。聞いてないです。だからびっくりしたんです」
イサクさんは、私の目を覗きこんでゆっくりと言った。
「じゃぁ、突拍子なく聞こえるかもしれんが、覚えといたほうがいい。〈境の民〉という民族は、己の魂をこの世とあの世の『境』において自由自在に飛ばすことができる…そうして、たとえば鳥に魂を乗せて羽ばたくことができる、そういう力を代々持っているんだ。それから、精霊との関わりにも長けている。
その力を使って王家に仕え、他国の侵攻からダクシナ王国を護ってきた。シヤトが攻めてきたときも。だからシヤト軍は、〈境の民〉を嫌ってるんだ。『旧ダクシナ王国の忠犬』ってな」
「・・・はぁ」
私は目をぱちくりと瞬いた。情報量が多い。これがマンガなら、私の背景には大量のクエスチョンマークが散りばめられていることだろう。いきなり、こんなファンタジックなことを言われても入ってこない・・・うん、うん!?
「そうだとして、じゃぁ私もそうなの?! 魂? が? え?? 」
匙を取り落としそうになったのを、慌てて持ち堪える。
「〈魂定めの儀〉で、リンジァン川の〈境縄〉…棒に縄が渡してある、門のような場所をくぐった時、なんか感じなかったか? ここみたいに人間が多いところはともかく、あそこは、この世とあの世の『境』が曖昧だと昔から云われてるんだが」
イサクさんの落ち着いた口調に促されて、私は約3週間前の記憶をたぐり寄せた。あの時の、縄の向こうから押し返される、はたまた追い出される感覚。あそこでは、たしかに、日常とは隔たった何かに包まれた気がした。
「・・・・・そういえば、あの時、寒天状の魚みたいなものを見たような」
「それ、ハーナラァ〈川の精霊〉じゃねぇの」
「えぇっ!? あれが!? 精霊って本当にいるの? てか、見えるの? 」
またも素っ頓狂に叫んだ私を、サリトは涼しげな目で まじまじと見た。
「そりゃ、おまえが〈境の民〉だからだろ。おれたちにゃ見えねぇよ。フーが見たのがハーナラァかどうかは、母ちゃんのがよく知ってるんじゃねぇの」
「あたしに訊かれても困る」
パチパチ爆ぜる炎の呟きに混じって、ポツリとした声が響いた。マナさんだ。もう食べ終わったし洗濯物片付けてくるよ、と続けて、腰を浮かせる。
「マナ、おまえ、〈境民〉のことが絡むと子供っぽくなるぞ。いつまでそうやって」
イサクさんが言い終わらないうちに、マナさんは自分のお椀を持って部屋を出ていってしまった。サクが『早く食べないと冷めるぞ』と言ってくれて初めて、私は手元のお椀を持ち上げた。
鶏の出汁でお米をトロトロになるまで煮たお粥は、熱くて香ばしい。上に木の実を散らしてあって、飽きのこない味だった。まだ理解しきれないものが沢山あるのも気にせず、私は無心に口へ運んだ。
囲炉裏のある居間とは隔てられた小部屋では、蝋燭の灯が壁に影をつくって揺れている。寝具に潜り込む衣擦れの音と、ひんやりとして やわらかい就寝前のこの空気感が好きだ。
「なんか今日は疲れた。ニマちゃん、ありがと。ごめんね、なんかいろいろ」
苦笑するニマちゃんに、私は問いかけた。
「私をシヤト兵の絡みから引き剥がしてくれたときに、ニマちゃん、『首筋に落書きしたの落としてない』って言ってたけど、あれは嘘ってことだよね」
「うん。ハッタリ」
「私の首に、なんかあるの? 自分じゃ見えないんだけど・・・」
なんだか むずがゆい気がして、私は首筋に手をやった。その熱に、思いのほか自分の手が冷たく感じられる。
ニマちゃんは私の首の辺りへ視線を飛ばした。
「うん。〈魂の道標〉っていう、朱色の入れ墨。〈境の民〉の証だから、シヤト人には見られないように気をつけないとね。また、変に絡まれるかもしんないし」
ふぅんと返事して、眉をひそめた。
口元がふわふわするような、変な気分。
これは…そうだ。違和感だ。
マナさんの首筋は、なめらかで均一な色。健康的な肌。
マナさんの首筋に、入れ墨は無い。
マナさんは…なんというか、精霊が見えない、とか? マナさんが語ってくれないかぎり、分からないけど。
「話が変わるけど、ニマちゃんや、サリトや、サクはさ、精霊とか見えないんでしょう? 見えないのに、なんで信じられるの。ありえない!とか思ったりしないの? 」
ニマちゃんは目を見開いて、無意識なのか髪を撫でつけた。
「フー、〈境の民〉なのに変なこと言うねぇ。まぁ記憶がないならそういうもんなのか。
そりゃぁ、見えることだけが全てじゃないって、小さい頃から じいさんばあさん連中に叩き込まれてるからね。チャトっていう鳥は、私達には聞こえない音を発して獲物を狩るんだって。その音は、私達に聞こえる波長とは違うって、サンばあさんが言ってた。精霊もそれと同じなんじゃないの。人間とは違うどこかに居るけれど、それが見える波長の人もいる」
フーたちみたいに、と言ったところで、ニマちゃんは目をこすって欠伸をした。その隣では、もうサリトとサクの寝息がしている。私も眠いし、いろいろキャパオーバーで思考回路に脈略を保てなくなってきそうだ。
表から見えること、裏側に在るもの、横からしか見えないこと。
今日の夕餉で、サンばあさんは言った。『〈境の民〉は薄汚くなんかないよぉ。ダクシナの国が興ってから五百年、ここを侵攻から護ってぇ、シヤトが攻めてきたときも、ぎりぎりまで わたしらの盾になってくだすったんだからぁ』 サクは付け加えた。『ま、それでシヤト軍の方にでかい損害が出たわけで。それで目の敵にしてると』
カルサ君がくれた巻物は、私の着物が入れてある篭に しまった。
異世界転生もの、読んでみるか。そして、またカルサ君に会えたなら、話してみたい。
濃い一日だった。
体が重たい。
蝋燭の火を吹き消すと、幕を下ろしたように闇が広がった。
次の春が来るまで、カルサ君とは音信不通なのだけれど、それはまた後々のこと。




