6 シヤト兵
蓋を閉めたように押し黙ったカルサ君の方を向こうとして、私は一歩前に出た。
どん、と右肩に鈍い衝撃が走った。
周りを見ていなかったから誰かにぶつかったのだ…そう理解したときには既に、頭の上から不機嫌な声が降っていた。
「おい、どこ見て歩いてる」
怒鳴り散らしはしないけど、むかむかするほどいやな響きを含んだその声の主を見上げて、私は息を詰めた。
***
1週間ほど前になるか。私とニマちゃんとで売り子をしていたときのこと。空にうすく雲が張って、空気は冷たく乾いていた。
私は、地元の人らしきお客さんの注文を受け、ルーリャ(薬草の粉を蜜で固めた甘い携帯食)を袋に詰めた。売り子をする合間に、ニマちゃんは紙にロウを染み込ませて油紙を作っている。冬の間は、隊商が街に来たとき以外は客足が落ち着いているので、春からの繁盛期のために売り物を作っておくのも大切な仕事らしい。私も少しずつ、やり方を習っているところだ。
「そういえば、そろそろシヤトのお巡りさんが来るころだな」
イサクさんが布袋を縫う手を止めて言った。ニマちゃんは、油紙を作るのに使っているコテを火鉢に刺して、片眉をひょいと上げた。その仕草から、サリトと血の繋がりを感じる。
「ああ、前の巡回はフーが来る少し前あたりだったもんね。なら、もう一月たったか」
「シヤト? 巡回って、治安維持とか? 」
「そ。シヤト軍の下級兵が月に一度、見回りに来るの。シヤト政府も余裕あるよね、そんなんに人員割いて」
ニマちゃんは、手元から目をそらさずにそう言った。
「うすい茶色の武人用の衣と、深緑の外套。とくに髪の色が薄くて瞳が闇みたいに真っ黒な人。そんな人影を見たら気を張ってね、フー。シヤト兵とは関わらないにこしたことはないよ。それにフーは」
ニマちゃんが何か言おうとしたところで、通りのほうが騒がしくなった。甲高い声が、だんだんこっちに近づいてくる。
「シヤト兵だ!シヤト兵の巡回が来たよー!」
篭を背負った男の子が、叫びながら転げるように駆けていった。
通りから流れていた琵琶の音が止み、かわりにカイラさんのあからさまに嫌そうな声が聞こえてきた。
「けっ、いばりんぼうな小物様たちのお出ましかよ」
「それでも、あんたはシヤト兵相手にけっこう稼いでんだろう」
カイラさんの芸を見物している人からヤジが飛んだ。カイラさんはきっと、ニヤッと笑うのだろう。
「そうなの。俺あいつらで稼いでんの。ダクシナの辺りの皆様は耳も目も肥えてらっしゃるから、投げ銭やご祝儀の額も手厳しいけど、シヤトの皆様はポンポン出してくださる」
さざ波のような笑いが広がって、すぐに止んだ。表面上の様子はいつもと変わらないけれど、空気が堅いように思えた。
商品棚を整えたり、ラバタ(マントの一種。丈が短い)に油を塗りこめたりしていたサリトが、売り子の役割を代ってくれとせがんできたので、私は店の奥へ向かった。だから、シヤト兵の姿をはっきりとは見ていない。ただ、その日の、うすく雲が広がった空模様は不思議と脳裏に焼き付いた。空の青さが透けていて明るいけれど、切れ目なくぴったりと雲に閉ざされていた。
通りの方で、カイラさんの伸びやかな歌声が流れ始めた…
***
色素の薄い髪、漆黒の瞳。白茶色の衣。深緑の外套。腰に帯びた短剣。
直感した。
シヤト兵だ。
カルサ君が、深く深く三度笠を被るのが、目の端に映った。最後に見えたその顔は、全身の血を抜かれたのかと思うほど蒼白だった。それにつられて、わたしの鼓動も速くなる。
なぜ、なんで今シヤト兵がここに。今月の巡回はもう済んでいるのに。だとしたら別件か。なんだか知らないけれど、この状況はまずいよね。
「お前、どこの餓鬼だ」
二人いるうち、若いほうのシヤト兵が、私の胸ぐらをつかんだ。持ち上げられた目線に直射日光がダイレクトに当たる。逆光で黒い影となって、想像していたより若い印象の顔からは、表情が読みにくかった。
「落ち着け。こんなところで、しょうもないガキに絡んで長居などする必要はないだろ。さっさと帰りたい」
もう一人のシヤト兵が、若い方のシヤト兵をなだめた。めちゃくちゃ失礼な言い草だけど。胸の内側を締め付けるいやな感覚が、少し薄れた。
それも束の間。
ガッ
ふいに肩と頭を乱雑に掴まれた。こんどは自分の足元が目に入った。目の前がちかちかと黒くなる。
「その項の入れ墨・・・ おまえ、〈境の民〉か」
「え!? 」
「なんでこんなところに居るんだよ、旧ダクシナ王室の忠犬が」
若い方の人の声が、一段と低くなった。どこの組の人ですか? とでも訊きたくなるくらいで…なにより、その言葉に含まれている何かに、背筋が冷えた。
やばい。
訳はわからないけど、それだけは分かる。この空気は、やばい。
必死で目玉を動かして、私はまた息を詰めた。・・・カルサ君が佇んでいたはずの場所に、人影はない。
なんかよくわからんが、いつの間にかカルサ君がいなくなったという事実だけが、そこにある。
私ひとり? 私はどうしよう。
どうやってこの状況をかいくぐればいいい?
・・・あ、私、心のどこかで、また誰かが手助けしてくれるかもしれないと思っている。
宇野万葉として千葉で暮らしていた頃から進歩してない。
初めてで戸惑う経験は、こっちの世界で目覚めてから、いっぱいしてきたでしょう?
私は何も悪いことなんてしていないのだから、毅然としなさい、私!
腹に力を込めて、私は声を張った。
「あなた方が何を言っているのか、よくわかりません。私は、ただ買い物をしに来ただけです」
「口先ではなんとでも言える。おまえら〈境の民〉のことだから、その薄汚い頭でどんな腹黒いことを考えているか」
「我らシヤト軍の支部まで来てもらう」
「いやです、私は何もしていません。あなた方は、何か勘違いをしておられる」
なおも尖った声が降ってきそうになった。
「あれ? ユウ兄ちゃん、こんなところにいたんだ」
身構えていたら、聞き慣れた声がした。その途端、やわらかい手が伸びてきて、左手を取られて。
「ユウ兄ちゃん、いい年して迷子になっちゃ困るよ。私が首筋に描いた落書き、まだ消してないし! 」
肩と頭を押さえつける手がゆるめられて、私は水中から息継ぎをするように顔を上げた。
カゴを被って顔を隠した女の子が、いた。
「サリたちが、ユウ兄ちゃんとお化けごっこの続きしたいってうるさいから、早く戻ってきてよ。
兵隊さん、何を勘違いしてたのか知らないけど、そういうわけですから」
「えっ…ちょ、おい! 」
シヤト兵が止めようとするのも ものともせず、女の子は私を引きずるように歩き出す。
去り際に、小さな舌打ちとともに『これだからダクシナ人は』という囁きがシヤト兵から聞こえた。
「・・・これだから、生粋のシヤト人は」
ずんずん歩いていく女の子の口から、苛立ったような呟きが漏れた。
「ニマちゃん? 」
声をかけると、女の子…ニマちゃんはカゴを頭から外し、大きな息を吐き出した。
「お客さん連れてくるってサリト兄ちゃんが言ってたのに、遅いから。ちょっと心配した」
それどうしたの? と指を差されて、私は右手を胸の高さまで持ち上げた。
強く握りしめていたらしい。手に持った巻物は、じっとりと湿っていた。




