『訳あり』の成れの果て
(一度でいいから、時を戻してくれないだろうか?)
後悔するやら、恥ずかしいやら、卜部は膝をついてしまいたくなった。
担任の教師へ「保証人になってくれ」そんな頼みがどこにあるだろうか。
稲荷先生に優しく諭され卜部はこう思った。先生、ぼくが悪かったのです、と。
気の毒そうな顔を浮かべて、どうして、と理由を問うてくれた。気遣いだろう。
『保証人』と『未成年後見人』の違いを切々と諭してくれた。迂遠な言い方で。
それでも、まとめてしまえば一言だ。稲荷先生が卜部に言いたかったことは。
『もうちょっと、世間とやらを勉強なさい』
担任の稲成先生は、誠実な大人の正論で、卜部をぶった切ったのである。
(そういえば、稲荷先生の守護霊は、武士だった……)
とはいえ、困り顔の生徒を放っておかないのが、教師という生き方。
未熟者と思い知った、しょげた男子高校生へ、ちゃんと助け船を出してくれる。
「スマートフォンはともかく、家に冷蔵庫や電子レンジがないのは困りものね。他の先生たちにも聞いてみるから。お古でも良かったらあると思うし」
「……そうしてもらえると、助かります」
「それから、私からもお兄さんには連絡するから、卜部くんも、もう一度連絡してみてね」
「すいません。うちの親が、ちゃんと連絡つけばよかったんですが……」
「それは、まあ、お仕事の都合があるから仕方ないわね……」
稲荷先生は、そばにある描きかけの絵を見ながら、深いため息をついている。
きれいに下書きされた絵だった。それでも、完成まではまだまだ遠いだろう。
その絵に目を向けた稲荷先生は、ずいぶんと深刻な表情を浮かべている。
卜部よりもたくさんの問題を抱えている、そんな雰囲気をありありと感じた。
「先生? 大丈夫ですか? そんなに深刻に受け取られると……」
「あぁ、違うのよ。卜部くんの冷蔵庫は、帰りに車で買ってもいいし。これは別。絵のコンクールの締め切りがね。もうすぐなんだけど……」
柚貝もそんなこと言っていたなと、卜部はぴくりと耳と目を寄せる。
「……もしかして、柚貝さんのですか?」
「あら、知ってるの? そう。柚貝さん、けっこう上手だからね。ほら、卜部くんが見てたやつも、柚貝さんの描いた絵よ」
「え? そうなんですか?」
おかしい、そんなはずないだろう。
確か、あの絵のサインには『Y.Kazumiya』と書かれていたはずだった。
まさかとは思うが、ペンネームでも使っているのだろうか。
「柚貝さんって、ペンネームみたいなので描いてるんですか?」
「学校の部活で描いているから、それはないはずだけど」
「……すいません。ちょっと用事を思い出しました。いきなりでしたが、色々ありがとうございます!」
「え? 冷蔵庫は? 電子レンジは?」
「それはまた今度お願いします! あと、柚貝の連絡先、教えてください!」
後ろ髪を引かれる話を振り切って、卜部は美術準備室から飛び出す。
さっき見た絵を、もう一度見ておかなければならない。
書かれたサインはやはり、『Y.Kazumiya』で、見間違えようがない。
『柚貝三矢』、その名前に、かすりもしていなかった。
(これは……どういうことだ?)
卜部は、柚貝の電話番号が書かれた紙を握りしめ、探す。
公衆電話は、今時では貴重なもの。やはり、スマホがないのは不便でしかない。
◇◆◇
「ここら辺で電話ってどこにあったかな……。あ、学校で借りればよかったのか」
しまったなあ、と卜部は間抜けな自分に後悔する。今はひとまず後回しにした。
柚貝は、昨日の帰りぎわに、校門を出て右手に進んでいったのを覚えている。
であれば、効率的なのは、右に進みながら電話を探すことになるだろう。
思わず、卜部は駆け出していた。
校門を出た右方向は、進んだことのない、見知らぬ道だった。
普段は学生が通っているだろうその道は、緩く下った坂道になっている。
脇には葉桜並木がずらっと、坂の下まで続いている。
隆々とした枝と青々茂る葉が、道に落ちる眩しい日を遮っていた。
新学期に合わせて転入していたら、桃や白の美しい桜並木を目にできただろう。
(柚貝にもっと早く出会えていたら……四月十一日より前から知り合っていたら……。何かが違ったかもしれないのに)
もうすぐ夏が来るからだろう。身体に強い熱を感じる。卜部は流れた汗を拭う。
それでも、考えていた。柚貝の身に起こったことが何なのか。解決方法は何か。
(『柚貝三矢』姿は左右反転し、ばらばらの身体。そして、『Y.Kazumiya』とサインされた絵を描いていた。ここから考えられるのは……)
名前もばらばらになっている。そう考えるのが自然で、しっくりきた。
『ゆずかいみや』を並び替える。
『Y.Kazumiya』これに当てはまりそうな名前は一体、なんだろうか。
卜部は少しの間、走るのを止める。膝で、はあはあと荒い息をつく。
(『かずみや ゆい』これが、柚貝の元の名前だろう。ようやく分かった……)
それでも、まだいくつか疑問が残っている。
誰が、どの鏡を使って『かずみやゆい』を『ゆずかいみや』へと変容させたか。
卜部の見立てでは、『生霊』の仕業が濃厚と見ているが、『呪い』の線もある。
(あともう少しのはずだ……)
もうすぐ、この『心霊現象』は終わる。
でも、『柚貝 三矢』が『かずみや ゆい』に戻ったら、昨日話していた女子は、どこに行くのだろうか?
卜部はまた、足を止めてしまった。
『霊を侮るな。安易に関わるな』とは父の言葉だ。
(まずいな……。変に感情移入なんてすると、俺が取り込まれてしまう)
『心霊現象』には、順序だった論理的な説明なんてありえない。
ただ有効な対処法があるだけだ。淡々と、粛々と、やるべきことをやる。
死者にしろ、生霊にしろ、幽霊としてこの世に残るには、相応の理由がある。
恨みか、後悔か、望郷か、寂寥か。何が理由かは分からない。
霊は『訳あり』の人間たちの成れの果て。そう思えば、同情なんて禁物だった。
しかし。
(出来るだろうか……。柚貝相手に)
汗が嫌な冷たさに変わるのを感じながら、卜部は無理やり足を動かした。