1-4.帝国の皇子たち
侍女が失踪した。
事件はそこから始まった。
セレナ・アストレッサの長い戦いの、それはほんの一部でしかなかったけれど。
始まりは間違いなくそこだったのだ。
セレナ・アストレッサは私室の大きな姿見の前で跪いていた。
鏡に映っているのはもちろん少女の姿だ。
赤褐色の長い髪、右目は夜、左目は昼。軍服を兼ねた暗緑の学生服。
しかし、鏡の中にいるセレナはまっすぐに立ち、現実の彼女を見下ろしている。
「顔を上げて、セレナ。私とあなたの仲だもの。虚礼は廃して、本題に入りましょう」
「承知しました、ティターニア殿下」
そう言って見上げるのは自分の姿。しかしセレナの視線に宿るのは敬意と忠誠だ。
自尊心などではもちろんない。
他者の鏡像として現れるその妖精は、鏡を介して遠く離れたセレナに語り掛けているのだ。幼い日、忠誠を捧げると決めた大切な存在。根っからの夢女子であるセレナがたったひとりだけ持つことを決めた、同性の妄想妖精。
第二皇女ティターニア。セレナの頭の中に存在する、空想上の『剣の主』である。
「まずは事の次第を彼女に伝えねばなりません。半身との『同期』は?」
「試みましたが、賢天主との一件以来、拒絶されることが多く上手くいっておりません。殿下に秘術を賜っておきながら、面目次第もありません」
「いいえ。私とて私兄様との完全な同期は行えませんし、理解しきれないからこその『自分の中の他者』です。彼女があなたの手を離れて動き出していることは本来であれば喜ぶべきことでしょう。とはいえ、困りましたね」
頬に手を当てて眉尻を下げる鏡の少女。普段のセレナならすることがない仕草だが、妙にしっくりとくるのはこうやって主君と会話するのに慣れているからだ。
セレナにとって、こうして忠誠を捧げた主と人目をはばからずに話せるのは『自己との対話』という形をとったこの時間だけだ。仮に露見しても周囲からは『いつもの独り遊びか』と思われることだろう。
外で皇女として謁見する際のティターニアは双子であるオベロンとそっくりな少女であり、その姿でいるティターニアと言葉を交わすことはオベロンと会話することに等しい。
あちらが本来の姿であることは理解している。
それでも、セレナにとって『ティターニア』を実感できるのは鏡の前に立った時だけ。
この時間、この密談を誰にも知られてはならない。皇女ティターニアはセレナの頭の中にだけ響く妄想の声でそっと囁いた。
「約束の時期はまだ先です。『侍女』があちらに渡ってしまったのはこちらの不手際。このまま手をこまねいていてはようやく掴んだ信頼が損なわれます。善き平和と秩序のためにも、アリスちゃんとは仲良くしておきたいですから」
なぜなら皇女ティターニアは帝国の異端者。
密かに地底都市ザドーナとの停戦を目指す和睦派なのだから。
ティターニアとセレナにとって、その秘密が知られることは死を意味する。
周囲のほとんどは潜在的に敵。アストレッサ家の一員であっても場合によっては殺し合うことになるだろう。賛同者、あるいは同盟者である姉妹たちもいることはいるが、『魔剣乱舞』のパンディアや『斜め十字槍』のネメアあたりに知られれば、帝国最強の夢女子を自負するセレナとて勝ち目があるかは危うい。
ティターニアとセレナは密かにザドーナを統べる賢天主アリスと内通している。
植民都市との戦争を終わらせ、あくまでも『五大貴族家であるファラゾーラ家当主アリス』を総督という形に置いた上で『偉大なる一つの帝国』の内部を安定させる。
主戦派の他の皇子たちに悟られず、ティターニアを玉座に運ぶことがセレナの望みだ。
「他の皇子たちの目がある以上、迂闊な動きはできません。殿下の場合は特に軽々しく動けない事情もございます」
これが本当に皇女ティターニアとの密談なのか、それともセレナの蛮行を正当化するための妄想なのか、既に彼女本人にもわからない。
確かなことはひとつ。
セレナは見るべきものを見ている。その確信が揺らぐことはけしてない。
「ピーコックちゃんが攫われた件、胸は痛みますけれどある意味では好機に成り得ます。他の皇子たちを追い落とすまでは行かずとも、牽制の材料くらいにはなりましょう」
「当家の侍女ピーコックが抵抗すれば激しい戦いとなったでしょう。たとえ相手が巨人の位階にあろうとも、アルゴス=パノプテスであった彼女が遅れをとるなど考えられません。にもかかわらず、彼女は忽然と姿を消した」
最近アストレッサ家が雇い入れたセレナ専属侍女ピーコックは見事な緑髪が目に焼き付くような豊艶な美女だったが、奔放ながらも忠実にセレナに尽くしていたはずの彼女は忽然と姿を消してしまった。
奇妙なことに、ピーコックの部屋は数万年単位の歴史が堆積していて過去視で遡ることさえできなかった。心話も拒絶されており、現場に争った形跡は皆無。
決め手となったのはある『渡航記録』だった。
長距離を瞬く間に移動できる『門』や『回廊』は基本的に全て大神院の管理下にある。
世界宗教である槍神教は大いなる力を持つがゆえにそれらを支配し、それらを支配しているからこそ絶対的な力を保持し続けることができていた。
ゆえに、大神院が認めていない非正規回廊などあってはならない。
だが建前は建前。現実には幾つもの秘密がある。古い妖精王たちが太陰から奪い、地面の下に隠した遺産。帝国に点在する『兎の穴』がそれだ。
『地底都市アガルタ』という形式をとる第三世界槍は地底に広がる広大な世界。
外側からは槍というイメージで捉えられているが、広がった地底世界には『世界槍』の正規の入口とは別に幾つもの抜け穴がある。
大神院が定める神の摂理の下で、帝国臣民は善き信徒として振る舞うべし。
セレナもまたそれは理解しているが、それはそれ。
メイドの失踪の直後、アストレッサ家の所領に『存在しないことになっている』次元回廊のひとつが許可なく使用されたという『記録されていない記録』が残されていたのだ。もちろん許可など下りるはずもないが、『黙認』も無しで『下』に渡るなど露見すればとてつもない大ごとになる。
配置されていた使い魔たちの監視を完璧に潜り抜けているのが異様だった。邪視、すなわち眼球を用いた術において帝国随一の自負を持つアストレッサ家の目を欺くほどの潜入技術は並大抵のものではない。
少なくとも『兎の穴』が存在していること、その場所、内部の詳細、警備の体制まで全てを知り尽くしていなければああも鮮やかに忍び込んで『下』に誰かを送り込むなどということはできやしない。
真っ先に内部犯が疑われ、囮の使用人が自害し、その死体から辿った精神加工士からネビロン氏族の黒妖精が企てた陰謀であるという結論が出て、その筋書きを作り出した脚本家の演出呪文を解呪したことでようやく黒幕の存在が明らかになった。
脚本家に依頼したのは最初に自害した使用人。ここで捜査は振り出しに戻る。
手が込み過ぎている。そして犯人に辿り着かせないためというよりも時間稼ぎに主眼を置いた工作だ。当然、この程度の小細工などアストレッサ家が誇る『皇帝の耳目』たちに通用するはずもない。そんなことは帝国のアヴロノなら誰でも知っている。
その上で、どの程度の時間なら稼げるのかということは正確に理解した段取り。
既に掌の上で転がされている。
セレナの直感は告げていた。これはある種の警告なのだと。
「運命の流れに干渉可能な位階の邪視者が背後にいます。おそらくは殿下の競争相手。私たちが打倒すべき恐るべき巨人たちが、ピーコックを使ってラエジロス家の兄弟を再び接触させようとしている」
セレナには確信があった。
皇子たちの誰かが誘拐犯であることは間違いない。
問題は誰がそうなのか、ということだ。
「ピーコックちゃんが誰かに操られている、ということですね。かわいそうに。女体化された上に侍女に身をやつし、兄弟愛を利用され陰謀の走狗と成り果てるだなんて」
「いいですよね。再会した時に悲恋とか葛藤とか挟みつつ死別する感じの出来事が起きてくれそうで。私と弟の狭間で揺れ動くピーコックの心は男? それとも女?」
「そうね、セレナはそういうの好きですよね。でも今は少し自重なさいね」
「はっ! 申し訳ありません! 殿下の御前にもかかわらず、昂ってしまいました」
幼馴染の兄弟は二人揃ってセレナに恋心を抱いている。
彼女を巡る三角関係は兄が女性となったことで更に混迷を極めていた。
ピーコックと名を変えた『侍女』は元々は由緒ある貴族家の当主。
反乱を企てた妖精王であり、裏切った『炎の邪視者』の兄だ。
ラエジロス家。
遠い時代、相争う二人の妖精王が婚姻し誕生した由緒ある名家。
没落したとはいえ、その次代を担うはずだった兄弟が揃って反逆した事件が帝国を震撼させてからそう時間は経っていない。
「帝国はいま、揺れています。未来のために、誰もが変化を望んでいる。私たちもまた」
ティターニアの言葉は、セレナの思考でもあった。
現皇帝ウラヌス=ラータエルス転生六世の治世に入り、先代のオーミカーム『臆病帝』の時代に結ばれたシュガ氏族とアエルゴニア氏族との停戦協定が効力を失った。
全ては一人の英雄が蜂起したことによる連鎖反応である。
オーミカーム帝が先代から引き継いだ同族との和平、『偉大なる一つの帝国』『大アヴロノ主義』という夢を実現する二氏族との平和協定は、世界槍アガルタの内外に置かれた植民都市群にとっては凶兆であった。内憂を失った帝国はより勢力を増し、『異獣』に対する支配と弾圧はエスカレートする。奴隷たちにとって『大アヴロノ主義』がもたらすのは弾圧者の増大でしかなかった。
同胞のため、奴隷たちの中から英雄ジスゴデクが立ち上がる。その結果として植民都市で発生した蜥蜴人奴隷の一斉蜂起により、『偉大なる一つの帝国』という幻想は失われた。
反乱の鎮圧で生まれた隙をシュガ氏族とアエルゴニア氏族は見逃さず、同時に協定を破棄して帝国に侵攻を開始。三方面で戦端が開かれ、北辺内戦あるいは北辺戦争が始まる。
星天主デルゴの後ろ盾を得た猛将ジスゴデクは勝利を重ねた。同時に決起した周辺植民都市を纏め上げ、地底都市ザドーナを反帝国の旗印に作り替える。
帝国から離反した追放者たちをも取り込んで膨れあがっていくザドーナ勢力は、ジスゴデクが多くのザドナゲンと共に討ち死にしてもなお止まらなかった。
統率者が不在の戦場に、白の天主デルゴは新たに弟子を送り込んだのだ。反乱軍のリーダーに据えられたのは、あろうことか帝国五大貴族の直系たるアリス。それも本家を一夜にして滅ぼした『呪われた子』である。
新たな彩域の王は賢天主を名乗り、いまや帝国最大の脅威へと姿を変えていた。
「ラエジロス家の反乱。『彼』は第二の賢天主になりうる、極めて危険な存在です」
皇族の多くは『偉大なる一つの帝国』という理念に固執する傾向がある。
それは妖精王たちが相争う戦国時代の再来を防ぐためであり、統一を達成した皇族としての自負と使命感によるものだ。妖精の歴史は妖精同士による戦争の歴史である。帝国に歯向かうということは、夥しい犠牲の上に築かれた平和を乱すということでもある。
ゆえに帝国は『異獣との戦い』よりも『妖精との戦い』を優先する傾向にある。
これまで帝国の皇族たちが総力を挙げてザドーナを攻め落とそうとすることはなかった。
植民都市ザドーナの総督であった王弟一派が自力での名誉回復に拘ったことも大きいが、それ以上に彼らは槍神教の主力と共に『異形の諸部族』との戦いに注力していたのだ。
未だ皇帝に仇なす妖精王たち。
ディムジリオと結びついた槍神教、その武力である騎士修道会は北東の氷海から攻め込んでくる翼魚族たちを堰き止める防波堤だ。
西の大森林には『蛇蝎王』ハジュラフィンとその眷族シュガ氏族。
北東の氷海には『鋭き嘴の魔王』アケルグリュスとその眷族アエルゴニア氏族。
そして北壁境界の向こうに広がる死の極地に君臨する神群、『氷柱の百神』。
「最前線から帰還した帝国最大戦力のうち四人。最も恐るべき皇族たちが動き出した」
四という数字を口にする時、ティターニアの表情が翳る。
その理由をセレナは理解していたから、それについては言及しなかった。
「このたびの勅、おそらく何か裏があります。『代理親征』の陰でラエジロスの兄弟を密かに利用して何かを画策している者がいる」
次期皇帝を巡る暗闘は既に始まっている、ということだ。
これは玉座を巡る皇族たちの競争であり、殺し合いでもある。
面と向かって戦うわけではない。片手で外敵と干戈を交え、もう片方の手で陰謀を巡らせる密やかな争いだ。
「私兄様の瞳に映る『自分の中の他者』。犠牲を望むあの方の深謀遠慮を私は理解できない。けれど私には情と心の赴くままに彼の本当の願いを照らすという運命があります。私は、たとえ私兄様を殺してでもあの方の望みを挫かねばなりません」
ティターニアは、己の半身たるオベロンと対立する心を有している。
最初からそのように生まれたのだ。二人は存在として同じだが、同じにはならない。
最終的に残るのはどちらか片方の願いだけ。
双子の皇族は、生まれた瞬間からそのような運命を与えられていた。
「セレナ。セレネ=フルエルミーナ。『麗蝶の翼翅』として命じます。古き盟約に従い、平和と秩序を取り戻すため、黒き陰謀を暴き清めなさい」
「黒き剣は清浄な姿に。アストレッサの『剣洗い』、必ずや成し遂げて参ります」
皇族たちの『代理親征』に随行し、その企みを暴き出す。
そう。精鋭部隊『ミェスの翼翅』が破滅的な失態を演じ、解体された以上はこうなることは決まっていた。
地底都市ザドーナに、帝国の皇子たちが攻め入る未来。
それは戦争などという生ぬるい言葉で片付けられるような結末ではありえない。
待っているのは終焉。
世界の終わりだ。
極寒の大地を、吹雪が吹き荒れていた。
死の雪原。北方辺境を守護する巨人たちはその全域を生存可能な環境に変容させることができるわけではない。神の加護は信徒たちの信仰に応じて与えられるものだ。
神は全能であれと望まれるわけではない。飢えと渇き、嘆きと願いから生まれた強く束ねられた祈りには必ず指向性がある。
少なくとも多神教的な世界観を有する巨人たちは、望まれた『権能』を振るうものだ。
たとえば天を仰いで荒ぶる怒りを鎮めるように。恵みを求めて舞うように。
天候。吹きすさぶ雪の厳しさを、人々は恐れ敬う。
ゆえに、それを司る神はあらゆる神話に偏在する。
「本日も晴天なりっ!」
軽やかに鮮やかに、光り輝くドレスを纏って空を飛ぶ女がいる。
「気象庁からのお知らせでーっす! みんなーっ、強い吹雪はもうおしまいだよーっ!」
気象庁長官であり、気象制御部の部局長でもあるこの女性を知らぬ者は帝国には存在しない。空を見上げれば彼女はそこにいる。
気象予報局にはいつだって子供たちからの感謝の手紙が届いており、彼女はそれを読むことが何よりの楽しみだった。帝国臣民が平和に暮らすこと。それこそが天を統べる女神の最大の喜びであり、運命なのだから。
雲の如き巨体を薄く引き延ばして晴天に浮かんでいても、遥かな地上はしっかりと見えている。巨人を見上げる臣民たちの顔には笑顔が浮かんでいた。
学校の校庭では、子供たちが並んで文字を作り、声を張り上げていた。
「せーのっ。皇女さまー、いつも素敵なお天気をありがとうー!」
児童たちの声援が彼女に更なる力を与える。
巨大な雲が動いて地上に手を振り返した。
「嬉しいっ、みんなありがとう! 帝国の空は私にお任せ! みんなのお天気お姉さん、第一皇女アリエル、頑張って晴れにしまーすっ!」
天空を統べる女神。天候を操る大呪術師。絶対なる天気予報。
彼女が望めば天はどのような姿にでも変わる。
手の一振りで雲は去り、まなざしひとつで雨を降らせる。
それがアリエル・リーヴァリオンの権能である。
「これからも臣民のみんなに素敵な空をお届けするねっ! みんなのお天気お姉さん、アリエルからの中継でした~」
にっこりと笑いながら西方戦線に移動させた荒天でシュガ氏族の侵攻を足止めし、ファラゾーラ領から抜け出そうとしていた異形の実験体を稲妻で殲滅する。
「うーん。小休止挟んだら北東海にも気象防壁回して、と。忙しいなあ。やること一杯だ! 私がたくさんいたらいいのになあーっ」
「いるじゃん。いるいる。てか君は四号でしょ」
「やや、そういう君は八号ちゃん!」
ふわふわと上空を漂っていた雲の巨人アリエルの真横に、全く同じ姿の女巨人が浮かんでいた。大きな雲は並んで騒がしく近況報告をするとまた離れて別々の空に向かっていく。
帝国の空を管理するアリエルの仕事は多岐に渡る。
天候制御、権能の及ばぬ異国の天気予報、『異形の諸部族』との戦い。
そこにもうひとつ、新たに加わった使命がアリエルの目下の悩みだった。
「下のお天気も大変みたい! ようし! お姉さん、身を切って応援しちゃうぞ!」
そう言うと、アリエルは左腕を無造作に鷲掴みにして引きちぎった。
飛び散る血潮はその色を変えて恵みの雨となる。
放り投げた左腕はふわりと膨らんで鮮やかに変身を遂げる。
驚くことは無い。本来、妖精とはこのくらいの不思議は当たり前にこなすものだ。
「身を切られて参上しましたであります! お助けお天気お姉さんアリエル十七号、世界槍の階層争奪戦に参戦致しまーっす!」
「うむ! よろしくであります、私! がんばれがんばれわーたーしっ!」
元気よく舞い降りていくアリエル。
彼女が統べるのは天空の全て。
あらゆる稲妻もまた、彼女の支配下にある。
無邪気な瞳はまばゆい天の光を宿す閃光の黄色。
「楽しみだなあっ! アリスちゃんの『失明稲妻』って、私のより強いのかなっ?!」
帝国最強の気象女神アリエル。
問いの形をとっていても、彼女は迷いなく確信している。
女神が信じている以上、それは事実として世界に定められた法則だ。
アリエルの稲妻は、アリスの稲妻よりも強い。
賢天主は絶対に気象女神には勝てない。これは既に決定された運命である。
「動くな! この学園は我々が占拠した! お前たちには人質になってもらう」
平和な学園を突如として占拠した覆面姿の男たち。
彼らは荒々しい動きで近くにいた女子生徒の腕を掴み、首筋に杖を突きつける。
頬肉が少したるみ始めた初老の女子生徒が恐怖に悲鳴を上げる。
覆面の男は奇妙な違和感を覚えたが、すぐに疑問は消えた。
教室は完全に制圧されている。警備員たちは倒れ、目的通りに貴族院の大物議員を人質にとることに成功した。教室で一番の美人と名高い女生徒が危機的状況にあるというのに、力自慢の男子生徒たちは恐れをなして動けずにいる。
「おい、そこのお前! 両手を頭の後ろに回して伏せろ。反抗的な態度をとるなよ!」
覆面の一人が窓枠に座って退屈そうに欠伸をしている男子生徒に言った。指先を向け、警告がわりに輝く矢尻を投射する。だがなんということか。妖精の矢は威嚇射撃のはずが狙いが外れて男子生徒の額に吸い込まれていった。
信じがたいことが起きたのはその次の瞬間だった。
「馬鹿な! 魔弾を、指で?」
「あーあ。ったく、転校してきたばっかでついてないなあ」
とりたてて特徴のない少年だった。
小柄で細身であること以外にその外見を形容しようとすると言葉が見つからない。
ただどこかその場に馴染んでいないような、『異邦人性』とでも呼ぶべき異物感がやけに強い印象に残る。どこにいても彼は部外者であり続ける。そんな印象だ。
「おっ、お前! 転校生のパックじゃねえか! お前みたいなヒョロガリは及びじゃねえんだよ、相手は杖とか魔弾とか使うんだぞ! 余計なことすんなよ!」
腹の出た中年の男子生徒は屈強な運動部であるという自己認識に基づいてその台詞を喋り、自分がどうしてそんなことを口走ったのか理解できずに眉をひそめた。
パックと呼ばれた転校生は窓枠から降りると大仰に肩をすくめる。
「矢尻の毒。間違いなく潜伏していたシュガ氏族の蠍だな。やれやれ、真面目にやるしかなさそうだな。今回は秘拳の伝承者で行くか」
「何をごちゃごちゃ抜かしてやがる! 殺すぞてめえ!」
「遅い」
一瞬だった。
何が起きたのか、その場にいた誰一人として理解が追いつかない。
平凡な転校生。そう思われていた少年の拳が霞んで見えた時には既に二人が昏倒している。人質を抱えていた一人が錯乱し、杖を暴発させてしまう。
しかし、それさえ少年にとっては容易く対処可能な些事に過ぎなかった。
「安全装置、確かめたか?」
「えっ」
「間抜け」
そもそも安全装置など最初からついていない。
にもかかわらず、そのやり取りは『安全装置が存在する』という前提に基づいて行われ、それゆえに『安全装置が実在することになった』。
隙だらけの顔面を殴られた男は黒板に突っ込み、しかし存在しない黒板ゆえパックの強烈な打撃に耐え切れず舞台の外へと落下していく。
学園という異界に塗り替えられた現実。
その亀裂から放り出された男がどこに放逐されたのか。
無数の次元を『転校』し続けるパックにとって、それは些細な事だった。
彼にとって大切なのは、平穏で退屈な日常を妨げる邪魔者を排除することだけ。
安心して昼寝ができればそれでいい。
「やれやれ。俺はこんなに退屈を愛してるってのに、いつまで片思いすりゃいいんだか」
構築されていた学園浄界がゆっくりと消えていく。重ねられていた現実が蘇り、異常な役を演じさせられていた生徒たちは自分が学生ではないことを思い出して愕然とする。
失われた青春の痛み。年に似合わぬ制服を纏っていた羞恥。
そして、強烈な妄想に裏打ちされた願望への恐怖。
人々は彼を恐れていた。
全ての破壊活動、無辜の市民を恐怖から守ることこそが彼に与えられた運命であるはずなのに、皮肉なことに彼より恐怖される破壊活動家は帝国には存在していない。
彼が『転校』した場所は、どこであろうと学園になる。
そしてその学園は、必ず何らかの災厄に見舞われると決まっているのだ。
帝都警察警備部が有する最大戦力。
学園で無双することを夢想する永遠の転校生。
第三皇子、パック・リーヴァリオン。
人は彼を『謎の転校生』と呼ぶ。
「さて。アエジームはアストレッサが収めたものの、ラエジロスの反乱は未だ完全には解決には至っていない。これを放置しては皇族の名が廃る」
教師や用務員として待機させていた部下たちに事後処理を任せて『学園』を後にするパックは、既に次なる目的地を見据えていた。
「次の転校先は決まりだな。新たな学園生活が俺を待っている」
パックが望むのは退屈で平凡な日常だ。
学園で生徒たちは日々を送り、青春と呼ばれる他愛ない時間を浪費していく。
世界を揺るがす巨大な運命も、国の未来を左右する陰謀も、学園には似合わない。
それを未然に防ぎ、平和を取り戻すのが彼の願いだ。
多くの善良な民が望むように、平凡こそを彼は愛する。
「やれやれ。どうやら、俺の日常は退屈とは無縁らしいな」
だからこそ、彼は常に闘争の中に身を置き続ける。
彼は常に転校し、惨劇を学園に塗り替えて無双の剛力や謎めいた古武術、不思議な力といった有無を言わさぬ設定で解決してしまう。
全ての戦場。全ての災厄。全ての苦難。
転校生に立ちはだかる運命は、常に学園と共にある。
地底学園。『下』に転校するのはさしものパックも初めての体験だ。
未知なる世界に、少年は心を躍らせた。
「くっ! 鎮まれ、余の右腕! 封じられた邪神め、貴様にこの身体は渡さぬ!」
妖精帝国を統べるリーヴァリオン家は『光の妖精』の一族だ。
輝ける皇族。聖なる翅。美しき光明。
数々の賛辞は常に光にまつわる言葉によって飾られてきた。
しかし、何事にも例外はある。
彼は『闇』という言葉で語られる。あるいはそう、『邪』という言葉でも。
「ぐう、頭が、割れるように痛いっ! この、記憶は? 知らぬ時代、だがどこか懐かしい。これは、前世の? やめろ、余は余だ。この心はお前の運命とは関係ない!」
漆黒の闇に浸食されつつある異形の右目を黒髪が覆い隠していても、その瞳に映し出された光景は彼を苛み続ける。右腕に封印された漆黒の焔、魂を凍てつかせる存在焼却の呪いは神すら打ち滅ぼす絶大な力ではあるが、その代償として彼自身の心身を蝕む諸刃の剣だ。
「あの、わかりづらいんで凍らせるか燃やすかどっちかにしません?」
副官の呆れが混じった視線を受けて、男は自嘲ぎみに口の端を持ち上げた。
「矛盾した存在、か。光の妖精皇帝の長子として生まれながら、闇の力を背負う定めの余そのものだな。聖なる血を民草は崇めるが、余の魂はこんなにも穢れている」
「そっすね」
雑な対応はいつものことだった。不敬を咎められることはない。何故なら副官は『やれやれと言いながら痛い妄想を垂れ流す幼馴染になんだかんだと付き合ってくれる友人であり相棒であり共犯者』なのだから。『その馬鹿に最後まで付き合ってやる』と言われたことも『現実で一緒に戦ってやるから、もうちょっと頑張ってみよう』と言われたことも数えきれないほどある。彼が有する邪視者としての脆弱性を補完する存在。この邪視者は帝国において最も我の強い邪視者であるとされているにもかかわらず、同時に自分のみで世界を完結させていないという強さを併せ持つ。
黒い外套を靡かせて歩む闇のような男は、整然と隊列を組んで歩む大軍勢を率いていた。妖精帝国が誇る最精鋭。強大な邪視者と世界観を共有することでより精度の高い『世界そのもの』を実在性の高い現実として成立させるための部隊。
彼らはみな、眼帯や包帯、隠された前世や指揮官との因縁を有した宿命の戦士たちだ。
いつも通りに呪われた宿業に苛まれ、いつも通りに『痛々しいもの』として扱われ、いつも通りに封印から逃れようとする強大な『来訪者』を意志の力で屈服させると、男は大仰に手を広げて語り始めた。背後の部下たち、宿命の戦士たちに聞かせるためだ。
「余らには敵が多い。北東氷海の有翼人魚に西方大森林の蛇蝎磨羯。油断ならぬ槍神教の尖兵ディムジリオに隙は見せられず、クロウサー派のファラゾーラとアエジームは同盟者とは言え所詮は外様。何より北壁境界の彼方に犇めく氷柱の百神、凍てつく魂の氷巨人どもから余らリーヴァリオンは目を離すことができぬ」
想定される敵はあくまでも巨人の群れ。そのはずだった。
彼ら帝国の最大戦力は、遥かな極地からわざわざ呼び戻されて帝国に帰還する行軍の最中だ。『回廊』は存在するが、そこまで移動するためにある程度の時間は必要になる。
その時間さえ惜しまれる。本格的な侵攻はここ最近は行われていないが、小競り合いや威嚇がわりの『世界観の侵犯』は日常的に行われている。本国に居てはあの緊迫した状況は理解できまい。代わりの戦力は配置されるが、不安は尽きない。
「いずれも強大なる巨人、邪神、高みに辿り着いた邪視者たちだ。妖精王の頂点、帝王たるリーヴァリオンをして気を引き締めてかからねば危うい大敵。それに比して地底都市はどうだ? 魂すら持たぬ劣等種と畜生にも劣る奴隷の蜥蜴人ども、つまるところが烏合の衆そのものではないか。いったいどのような無能が指揮すればこのような惨状になる?」
奴隷の反乱ごときにいつまで手こずっているのか。
長く極地で強大な巨人たちと対峙し続け、時には熾烈な『世界の奪い合い』を行っていたこの皇子にとって、本国の惰弱ぶりは目に余るものだった。
「『地底の冥王』ごときが何だというのか。自称天主など今まで幾らでもいた。だが本物であるはずもない。アリスとやらが真に天の主であるならば、その存在は摂理のように確かで空気のように満ち溢れていなくてはならない」
だが、賢天主アリスはそのようなものではない。
ならばそれは偽物だ。
『天主をやる』という設定に対する本気さが感じられない。
そんな『おままごと』に、彼の設定は絶対に負けることはない。
それは定められた結末。確定的な未来だ。
「偽物どもに教えてやるとしよう。格の違いというものを! 余こそ暗黒と虚無の闇を統べる黒洞重星。光を呑み込む亡失の戦士。北辺帝国第一皇子、『無明の光帝』ウンブリエル・リーヴァリオンである!」
彼が抱える闇の深さを、人々はまだ知らない。
どのような光も、夢も、灯火さえも。
最も次期皇帝に近いこの男が支配する凍てつく黒炎の前ではかき消える。
ウンブリエルを称える言葉は幾つも存在する。
帝国最強の『邪精眼』。
帝国最強の『設定集作家』。
帝国最強の『包帯巻かれたい系男子』。
そして、帝国最強の『炎使い』。
ここでも繰り返さねばなるまい。
我らが愛すべき主人公、努力の上に積み上げた妄想で必死に強がるじろちゃんの炎は、決してウンブリエルに届くことはない。
じろちゃんは敗北する。これは既に書き記された運命である。
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