1-3.天に取り替え子、地には哲学的ゾンビ
巨人の肩の上から見晴らす世界。それが人の知りうる全て。
少なくとも、北方辺境の民にとってはそれがこの世の真理である。
極寒の大地に吹き付ける猛吹雪、大地を染め上げる色は生存を許さぬ白。
北辺に生きる半妖精たちにとって白とは厳しさの象徴だ。
忌まわしくも恐ろしい純白、それは死と結びついた色彩。
文明の庇護がなければ生きることすらままならない苛酷。
それゆえに人々は守護者たる巨人を神の如く崇める。
否、正しくそれらは神なのだ。
荒れ狂う吹雪を遮る巨体、浄めの天蓋で冷気を遮る神の加護。
存在そのものが死を遠ざける巨人たちこそ、妖精たちにとっての世界の中心。
死を呼ぶ雪原、生を許さぬ荒野、冥府を内包する森林。
その中に聳え立つ『巨大なる人』こそが妖精王。
北辺の民は巨人の肩の上に立っている。
都市を築き、文明を栄えさせ、生を営み、子を育てる。
雪原を往く巨体が身動ぎをすれば、人々は至るところに取り付けられた手摺り棒を掴んで衝撃に備える。老いも若きも地震には慣れている。幼い子供たちは一箇所に集められ、標語を唱えながら『奇跡』に備える。
巨躯が震える。これが初期微動。
腕が持ち上がる。これもまだ前震。
神の指先が天を裂く。都市が揺れ動き、子供たちが悲鳴を上げる。
だが本震のあと、人々は目にすることになる。
荒れ狂う寒波。
誰もがおののく天空の悪意が、神のもたらした『奇跡』によって跡形も無く掻き消されている光景を。晴れ渡った空を見上げ、人々は神の名を呼ぶ。
自分たちが暮らす大地にして国家、世界にして絶対神。
流れる大滝のごとき頭髪、激流を引き裂いて天を覆う構造色の翼翅、天の光を身に纏うように輝く黄金比の肉体。かように神は実在し、生という加護を妖精たちに与えている。
王の中の王、北辺を統べる偉大なる君臨者。
美の神ミェス、麗しの巨人リーヴァリオンの祝福に歓喜せよ。
神の化身たる妖精皇帝ウラヌス=ラータエルス転生六世に永遠の栄光あれ。
民草は北辺帝国リーヴァリオンの名を誇らしげに叫ぶ。
リーヴァリオンとは皇室の名であり帝都の名であり巨人たる皇帝本人の名である。
巨人の肩で、腕で、背で、口で、体内で。今日も妖精たちは公共基盤たる神の生命活動を維持すべく、感謝の祈りを捧げながら日々の労働に勤しんでいる。
リーヴァリオンだけではない。
北辺の各地に聳え立つ巨人たち、大いなる神秘で民を守護する貴族たちがいる。
最も偉大なる妖精皇帝に傅く妖精王たちが北辺の覇権を巡って争っていたのは過去の話。リーヴァリオンに傅く彼らもまた祈りを捧げられるに値する神々である。
帝国の剣アストレッサは女神像のごとき巨体の周囲に大小さまざまな島を浮かべ、広げた翼を領土の外壁にして民を庇護している。爛々と光る瞳が北辺全土を見渡し、掲げられた巨大な剣は帝国全土の頭上に吊り下げられた裁きの振り子となる。
帝国の工場カレルヘインは北辺の中央北部と南部を隔てる『機械仕掛けの火山』そのものだ。胴体の半ば以上が大地に埋もれたヒト型が動くのは周期的に発生する『噴火』の時だけで、平時の鉄鋼巨人は長大な腕と肩の上で暮らす民を優しく見守っている。至るところで鳴り響く鎚の音こそは世界に名高い伝統工芸、妖精鍛冶の鍛鉄音楽に他ならない。
十字槍軍国家ディムズ伯国を原型とする北辺管区統括司教座都市ディムジリオは帝国と槍神教を繋ぐ架け橋である。北辺と中原の出入り口にして騎馬遊牧民族たる草の民やファガノン平野の異民族に対する砦でもあり、その重要性は計り知れない。その姿は天より光輪を与えられた聖なる百脚馬。本体よりもそれを取りまく無数の聖人像と宗教画によって構成された巨大な『環』が目を惹く。怪馬の嘶きは天空に捧げる聖歌であり、のたうつように激しく動き続ける尾は苛酷な大地を画布に見立てて世界を塗り替える絵筆であった。
一方でその長い生を終えた巨人たちもまた北辺の大地には残り続けている。
狂えるファラゾーラの腐肉は長大な『大鎌の触腕』で西方大森林を統べる大サソリの侵攻を食い止め、朽ちつつあるとはいえパルサ灯台伯が遺した輝ける蜂の巣は今もなお領民たちの宿り木となり続けている。
死後もその加護で人々を守り続ける巨人たち。短命の小妖精たちにとって、そのありようは不変にも思える。だが変わらぬものなどこの世にはない。
北東の氷海近く、妖精鍛冶で鍛えられた『大牢獄』に幽閉されているのは帽子のような傘を広げ、無数の触手を民の頭部に伸ばした異形の神アエジーム。その姿はさながら浮遊する巨大なクラゲ。現在この神は権能を著しく制限された状態にあった。
不遜なる皇帝への叛逆。その罪をアストレッサに裁かれた結果である。
遙かな過去に息絶えた孔雀の尾羽を持つ大熊の遺骸もそうだ。周囲に散らばった不気味な眼球の群れ、球形の居住空間を繋ぐ地下洞窟。緩やかに衰退しつつあったラエジロスの領土は今まさに完全な終焉を迎えようとしていた。
死せる骸に突き立てられた裁きの刃。
大量の難民は散り散りになり、嘆きの声を上げて神の名を呼ぶ。
彼らに救いは訪れない。自らを救う術を知ることすらできない。
ここ北辺の地では巨人こそが世界。世界を失ったものに待つのは無明の闇。
絶望の中、彼らはどこからともなく響く声を聞いた。
「聞くがいい、寄る辺なきラエジロスの奉仕妖精たちよ」
遠い遠い呼び声。どこか懐かしい声。
胸が締め付けられるような思いがして、故郷を失った難民たちは涙を流す。
帰りたい。その想いが溢れ出す。
誰かの言葉は、その感情に直接訴えかけるものだった。
「お前たちを支える神は失われた。その道を過ち、二度と帰らぬ場所へと去った」
それは残酷な現実を直視させるための言葉だ。
他の選択肢がないと理解させるための前提でもある。
誰かの言葉はこう続く。
「だが案ずることはない。私がいる」
人々は天を仰ぐ。
そして目撃した。遙かな荒天を裂いて降り注ぐ光の柱を。
その中心におわすのは輝く翼翅を広げた眉目秀麗な貴人だ。
ゆっくりと降りてくるその人物の傍らにはひどく印象の似通った女性。肩を抱き、仲睦まじげに身を寄せ合う二人は性別の異なる双子である。
民衆にとって、その姿は馴染み深いものだった。
「オベロン様」「第二皇子殿下だ」「第二王女様もいるわ!」「ティターニア様!」
帝国が誇る麗しき皇族たち。
その中にはとりわけ優美な対の男女が存在する。
それがこの二人。オベロンとティターニアの双子。
彼らの到来はひとつの救済を意味していた。人々の表情が明るくなっていく。
「帝国保健省、媒介物質管理局の権限においてソルラキア領の領民たちの心身を保護すると約束しよう。これからはラエジロス家にかわってこのオベロンがお前たちを導く」
妖精王の庇護を失った領民たちにとって、残された道は幾つかある。
ひとつは難民となって他の領地に身を寄せる道。最も一般的だが、彼らの多くは兵士となって前線で命を散らすことになる。
もうひとつは帝国の直轄領となる道。ほとんどの場合、これは妖精王の叛逆とその失敗によって発生する。アストレッサの黒剣官による苛烈な粛清と浄化を恐れぬ民はいない。
そして最後。総督位を得た妖精公の庇護下に置かれることだ。
妖精王のように固有の世界を持たず、しかしそれを奪い管理することを許された帝国が誇る邪視者の将たち。その大半を占めるのは帝国の皇族だった。
「オベロン・リーヴァリオンの名において命ずる」
皇子、あるいは皇女。彼らは妖精総督、妖精公と呼ばれ、妖精王に準じた『巨人としての権能』を振るう事が許されている。
妖精公たちは常に自らの領民を欲している。
その称号は資格者の証でもあるからだ。
彼らはいつの日か皇帝に名乗りを上げる日を夢見ている。
やがて来る継承に備え、自らを信仰する民を集めて自らを巨人として鍛え上げる必要があるのだった。
故郷を失った民にとってもどのような皇子や皇女に拾い上げられるかは大きな関心事である。有力な『皇帝候補』であれば、その後の運命が大きく変わるのだ。
第二皇子オベロンと第二皇女ティターニアは、その点で言えば申し分ない。
それどころか、次期皇帝の最有力候補と噂されている。
だから寄る辺なき北辺の民は喜んでその声を受け入れた。
差し伸べられた手を掴もうと駆け寄っていった。
心を許し、魂を委ねてしまった。
「『おいで』」
そして矮小な虫けらは残らず死に絶えた。
ラエジロス領で庇護されていた数少ない者たち、衰退していく妖精王の末裔を支えてきた家臣たちも全てその命を失った。
光の粒となって消え、風に吹かれて滅び去った。
あとには無人の荒野が広がっているだけ。物質的には完全な空白が横たわるのみだ。
しかし、魂までもが消滅したわけではない。
「おいで、おいで、可愛いぼうやたち。遊ぼうじゃないか。私の国には美しい花が咲き乱れているよ、妹は輝くような服を用意して待っている」
オベロンの掌の上、そこに広がる鳥籠の世界で色とりどりの光が飛び回っていた。
怯え、狂乱し、泣き喚く。
それはかつて北辺の民であったものたちの成れの果て。
半妖精という命の中核をなす『魂』の輝きだ。
「出してくれ」「寒い」「恐いよママ」「ここはどこ」「身体、私の身体を返して」
攫われた魂たちを安心させるべくオベロンは囁きかける。
それは籠の中の小鳥にそうするような慈愛に満ちた言葉だった。
「案ずるな。お前たちは変わらぬ形でこの世界に配置される」
問題は何もない。この異変は一時的なものだ。
揺るぎない確信を伴った断言。
邪視者の断言とはすなわち事実だ。
その力強い響きに、怯える魂たちの狂乱が少しずつ収まっていく。
オベロンは微笑み、再び力ある言葉を紡いだ。
「『光あれ』」
変化は一瞬のうちに発生し、何事も無かったかのように完了した。
ソルラキア領の民は、傷一つ無い姿で元いた場所に立ち尽くしている。
それどころか、荒廃した領地までもが豊かな自然あふれる環境に再生している。
かつて妖精王が庇護していた輝かしい時代、美しい領地が戻って来たのだ。
そう、何も問題は起きていない。良識ある第二皇子のおかげで彼らは元通りどころかそれ以上の生活を送ることができるのだ。
満足そうに笑い合う人々を、オベロンの掌の上で飛び交う魂たちが現実を否定する怨嗟の叫びを上げながら凝視していた。かつての自分と同じ姿をしたものが笑顔を形作る光景を憎み、否定し、自分という今を嘆きのたうち回る。
話が違う。戻りたいのはこの私たちだ、と。
オベロンによって、全く同一の存在が『創造』されていた。
あるいは『置換』と言うべきか。物理的にも化学的にも電気的反応的にも呪術的にも、それらは『取り替えられる前』と全く同じ存在であった。
呪術師、邪視者が見ても断言するだろう。
『魂まで同一である』と。
「私の内世界で定義された『魂』を正確に転写した」
帝国の臣民はみな魂を持つことを誇りとしている。
それが彼らの起源、遙かな妖精郷に由来する種族であるという証明だからだ。
ゆえに植民都市ザドーナとその主要種族である哲学的ゾンビに対しては過剰とも言える敵愾心を抱いていた。
魂無き存在。それは誇りを持たぬことに等しい。
「取り替えの儀は完了した。喜ぶがいい代替妖精たちよ、お前たちには長き安寧が約束されるだろう」
問題はそこにある。オベロンは鳥籠の中に囚われた輝き、魂と名付けられた観測可能な『何か』をじっと眺めながら思案を重ねていく。
呪術世界において定義された『意識』『魂』『感覚質』を複製した完全な同一存在。
それは哲学的ゾンビと呼べないのだろうか?
彼は一つの答えを求めていた。
妖精たちが崇拝し賛美する最上の徳であり善であり美でもあるもの。
『魂とは何か』。それは『妖精とは何か』という自己の存在に対する問いでもある。
「ああ、私兄様。愛しい伴侶。いつまでこのような残酷を繰り返さねばならないのでしょう」
深い思索の迷路に入り込もうとしていたオベロンの胸にそっと細い手が添えられる。
寄り添うのは一人の女。彼の半身である妹、ティターニアだった。
女の潤んだ目をそっと拭い、男は甘く囁いた。
「泣かないでおくれ、私の伴侶。可愛い空想。それでも我ら魂の双子は『存在論的取り替え子』を増やし続けねばならない。私たちがあらかじめ取り替えられているように、全ての半妖精は取り替えられなければならない」
使命感が彼を、彼らを突き動かしている。
そう生まれたが故に、そのように歩むほかに道はない。
それは全ての妖精にとっての宿命なのだ。
少なくとも、オベロンはそう信じていた。
「魂の鎖、肉体の軛。この見捨てられた大地に新たな妖精郷を創造するまで、私たちは非道を行うのだよ」
媒介物質管理局。オベロンが統括するのは半妖精たちにとっての宿命であり、同時に直視したくない現実そのものである。
肉体。妖精の魂が宿る物質的器を管理することが彼に課された使命だった。
彼は見ている。半妖精たちの未来を。その行く末を。
帝国に生きる人々の営み。栄え移ろう文明の美しさ。
彼はそのためにここにいる。誰よりも帝国の民を愛するがゆえに、彼は魂を蒐集する。
「そうして、私は必ず成し遂げるだろう。神を、いや」
遠い空に手を伸ばす。
分厚い雲がいっときだけ晴れて、荒れた空に四つの月が姿を現す。
天空に映し出された異界の影。そのひとつこそ、古の昔に大地より分かたれた懐かしき妖精郷。半妖精たちの魂が求める永遠の故郷である。
オベロンは息を吐き、深く吸い込んだ。届きそうな手は分厚い雲に遮られて届かない。永遠にも思える距離。次元の壁を隔てた深い断絶。上古より不変の魂を存在の基盤とする光妖精たちは物質の軛に縛られた半妖精たちを穢れと見なし、妖精郷への道を閉ざしてしまった。存在を規定する血肉。そのなんと呪わしいことか。
だからこその決意。だからこその追求。
彼はそれだけをただひたすらに望んでいた。
「この世界を取り替える、その時まで」
物語はひとつではない。
美しいおとぎ話があれば、血に汚れた暗黒の童話もある。
空想の少女と妄想狂の少年が未来を望むおとぎ話の裏側では、取り替えられた双子が取り戻せない過去を求めてもがく残酷な喜劇が繰り広げられる。
『誘拐皇子』オベロン。
『妄想皇女』ティターニア。
後に賢天主アリスにとって最大の宿敵となり、同時に生涯の盟友となる運命の双子。
その最初の因縁はどこから始まるのか? もうひとつの妖精物語、その語り出しはどこであるべきなのかという問いには、こう答えることができる。
それはこの瞬間。
すなわち、双子がアリスの騎士の故郷を訪れたまさにこの時。
天地に開かれた二つの物語は、終わりに向かって閉じ始めたのである。