1-2.「『最も物知りマリー』と人は呼ぶわ」
巨人の肩の上から見晴らす世界。それが人の知りうる全て。
しょせん個人が持つ視座はひとつきり。
狭い視点しか持てない小人は高さを得てもなお真実には届かない。
だとしても、巨人を形作るのは紛れもなく小人たちが積み重ねてきた叡智である。
白星都市の壮麗な景観を見た少年は口を押さえてひどい呻き声を漏らした。色彩の『どぎつさ』に耐えかねたのだ。
外向きの観光都市としての側面とは全く別に、この街には居住する住人たちのために形作られた顔が存在する。
街の色彩は圧倒的なまでの白、白、白。
白とは知識の色。学びの色。探究の色。
『脳を発達させた猿』たちが必ず手を伸ばす生命の営為、知的な営みの象徴が白だ。
学問という名の巨人をこつこつ大きくしてきた小人たちにとって、それは命と結びついた尊い色彩なのである。
都市の各所に設置された『空白の板』が示すように、この地こそは『学び』の本山。あらゆる研究者と学生たち、その関係者が集い行き交う叡智の王国。
地底妖精たちの都、華々しき『絢爛なる大書庫』。
白き天主のお膝元として知られるそこは、『白』を己の宿命色と見定めた杖の徒たちにとっての聖地である。
「物珍しいでしょうけれど、迷子にならないでくださいね」
空を行く機甲箒や占星水晶が描きだす光影描画に気を取られている少年に声をかけたのは、それよりも更に幼い少女だった。大きな麺麭の翼翅にはたっぷりと苺の果醤が塗られており、ふわふわと浮き上がる体躯は星を散りばめたような衣装に包まれている。くりくりとした黄緑の瞳が叱るような視線を投射していた。
「そっちこそ迷子にはなるなよ。この街の住民たちに紛れると誰が誰なのかわからなくなりそうだ」
言い返した少年が視線で示したのは道行く小柄な人々。
地底妖精と呼ばれる彼らは成人であっても少年の腰ほどまでの背丈しかない。
少女はぷうっと頬を膨らませて人種的な冗談の危険性を緩和すると、無言でにこりと笑って指先を伸ばす。刹那、宙を迸る黄緑色の閃光。
呻き声を上げて引っ繰り返る少年。唐突な転倒に目を白黒させる住民たち。
「口と態度が悪いのはあなたの個性ですけど、すこし抑えてくださいね。今日はわたしたちにとって大切な天主会議の日なんですから」
「わかっている。だが調子に乗るのは鍛錬の成果だ、許せ。偉大な者の本質というのは抑えようとしても自然と漏れ出してしまう」
「困りました。先輩方を怒らせてしまわないでしょうか」
「不安か? 新参者の天主であるお前が不安なのは当然だ。しかし今日はこの偉大なる炎の王が付いている。落ち着いて会議に臨むがいい」
小人たちが歩む都市の道幅は意外なほどに広い。
物珍しそうな蜥蜴人、骨牛車を牽く牛人、それから伸び伸びと虫翅を広げる半妖精。
少年もまた、周囲を憚らずに翼翅を広げることができた。
彼の背にあるのは赤黒の翅と赤白の翼。天道虫と雄鶏、左右非対称の翼翅である。
いついかなる場所でも自信満々で傲岸不遜、尊大を擬人化したような人格を現すように、彼の翼はある象徴と記号的に結びついている。
「お前には余がついている。胸を張れ」
あろうことか、少年は自分を『余』と呼び始めた。
余である。余。一人称代名詞としての余。もちろん彼は真剣だった。
「あの、ヘリオス? どうも最近はその一人称が気に入っている様子ですが、さすがにそれはお芝居の王様くらいしか使わないのでは?」
「だからいいんじゃないか。唯一無二の個我を表現するのに適しているだろう」
ヘリオスと呼ばれた少年は得意げに少女を見下ろす。
少女はなんとも言えない表情で口を噤み、やがて諦めたように静かに息を吐く。
「それよりも、そろそろ出迎えの者が到着します。多分すぐに仲良くなれるとは思いますけど、失礼のないようにしましょうね」
「無理な相談だな。余は皇帝の前であろうとひれ伏したことがない」
不安そうに少女が眉尻を下げる。
そうこうしているうちに約束の時間は訪れた。
地底都市ザドーナからの客人である二人を導く案内人。
その姿を認めたヘリオスの表情が驚きに染まる。
受ける印象が、隣の少女とひどく似ていたためだ。
「久しぶりね、アリス。新しい騎士駒の調教に手を焼いているようじゃなくて?」
「お久しぶりです、テイア。以前の助言をもとに頑張ってはいるのですが、なかなかあなたのようにはいきませんね。やはり年季が違うからでしょうか」
正三角形の髪飾りと理知的さを示す記号としての眼鏡、白を基調とした上下揃いの衣服は学生服を思わせる。白く整った街並みによく馴染む少女がそこにいた。
だがヘリオスの眼が吸い寄せられたのは少女の背後。
しみ一つ無い穢れなき純白。左右に広がるのは巨大な翼翅。
紙束の白翼。現れた少女ははばたく本で浮遊していた。
麺麭のはばたきで飛翔する少女と対になる不条理に、ヘリオスは何かを言いかけてやめた。この少年にはこうした所がある。態度の割に状況への許容範囲が狭いのだ。
なりをひそめた尊大さにかわって、今度は新しい傍若無人が胸を張る。
縁のない眼鏡を光らせて、少女が少女を見下ろした。
「マリーと呼びなさい。今日のマリーはデルゴ様の代理としてここにいるの。お人形遊びのお友達としてじゃないわ。それと、姉弟子に対する敬意が見られるのはいいことね。先に天主になったからといって増長してはいないようでなにより」
「それはもちろん。マリーの前ですもの、襟を正さなければ」
「ふん。余裕かしら、第六天主アリス様」
交差する視線が熱を帯びる。
強烈な敵愾心。けれどそれは相手の否定ではなく競争に向かう性質の感情だ。
憤りと反発を抱えながらもそこにはある種の親しさがあった。
「第一天主の後継者を前にして余裕なんてありませんよ。さあヘリオス、挨拶をしましょうね。彼女はマリー。今回の天主会議で私たちを導いてくれる案内人にして、白の天主様の筆頭弟子でもある才媛です」
「ヘリオス。ヘリオス・ラエジロスだ」
「テイア=マリアンローグ・オルフェンティアス。『最も物知りマリー』と人は呼ぶわ」
尊大な名乗りが相対し、対抗するかのように態度が大きくなっていく。
いつの間にか両者の距離は狭まり、間近から睨み合うような構図になっていた。
「なら余は『炎さえひれ伏すヘリオス』とでも、いや、だがちょっと待て」
弄ばれた言葉の原型を疑うよりも先に、ひとつの疑念が浮かび上がる。
少年は怪訝そうに眉間に皺を寄せて必死に何かを思い出そうとしていた。
既視感。既に記述された事実。だというのにその内容が思い出せない。
白紙の項をいくら眺めても求める事実は現れない。
だというのに、少年はしつこく食い下がろうとした。
「マリーだったか? 会ったことがあるよな? どこかで、具体的にどこでと言われるとわからないんだが、間違いなく言葉を交わしたことがあるしお互いを知っている。そのはずだ。多分。くそ、上手く言えない」
「なあに? この勘違いした下手な誘い文句は」
「ヘリオスはマリーが気になるのですね。あとで仲良くなれるように親睦会を開きましょうか。折角の縁ですし、わたしも友達どうしが仲良くなってくれたら嬉しいです」
三者の会話はまるで噛み合っていない。
それぞれが全く異なる要素に関心を示し、自分の世界のみで言葉を完結させていた。
「不躾なこと。とはいえマリーの罪深いほどの美貌に馬鹿な男が恋してしまうのは仕方がないことね。今回だけ無礼を許しましょう」
「胸の高鳴りを誤魔化すためについ高飛車になってしまう乙女心か。余は地の底に墜ちてさえ女たちの心をざわめかせてしまう運命なのだな」
「ああ、やっぱり二人はとても気が合うと思っていたんです。ぴったりすぎて話が進まないので、わたしは先に行きますね。二人とも、時間には遅れないように」
笑顔を浮かべながらアリスはその場をふわふわと離れていった。
慣れたあしらい。置いて行かれたことに気付いた少年と少女はぶつくさ文句を言い合いながら足早に後を追った。
不意に、清らかなマリアンローグの表情が翳る。
穢れ無き翼にわずかな不純物が混じり出したのだ。
黒いしみのようなそれは、紙面に記された文字だった。
「このあと、天主会議で『じろちゃん』は不遜な振る舞いを見せる。王を僭称し、火の元魔を名乗り、太陽の上で己の個我を高らかに示してみせた」
よりにもよってあの世界槍で。
自覚は無いのだろう。この時点でも理解できていないはずだ。
だからこそ問題は深刻だった。
「つまりこの時点で彼の異変は始まっていた。いや、そうではないか。この都市が彼にもたらした異変と言うべきだろう。白紙に近い無垢な魂、空欄の多い『 』であった彼を、書き換えようとする意思が存在している」
麗しきマリアンローグの独白は世界から浮き上がっていた。
隣で歩く『じろちゃん』がその言葉に気付くことはない。この場面において、未来時点の記述を参照した発言を拾われては整合性を損なう。
完全無欠の才女に見えるマリアンローグとて未来を知ることができるわけではない。予知や占術はまた別の強固な視座が必要な異能である。美しき才媛に備わった天恵はまた別の力だ。そもそも、この時点では『じろちゃん』という名付けがまだされていない。
しかし。
「当然、このマリーが『じろちゃん』と語ることに問題はない。書物の項には既に記された出来事なのだから。時系列の操作。回想。未来の一場面の先取り。それは物語を紡ぎ、書に記す者の特権である」
書かれたことを読んだものが知っているのは当たり前だ。
賢女マリアンローグの人生に流し読みなどという手抜かりはありえない。隅から隅まで熟読し、その背景に流れている文脈も含めて全てを把握している。
白い街を小人たちが流れていく。
全ての視線は本の翼を持つ少女を素通りしていた。行動を共にしているはずの少年や先を行く少女もまた孤高の美少女を見ていない。
「虚構の薪などいるものか。闇が大地を覆い、『何も見えない』という恐怖が人の世を衰退させる未来。それがなんだというの」
本当の彼女を、誰もが知っている。けれど本当の意味で理解できてなどいなかった。
そんなことには構わず、マリアンローグは独白を続ける。
「たとえ闇の時代が人の叡智を奪い、聖なる白を駆逐しても。太陽の時代が失われ、文明圏が滅び去ったとしても。小人たちはもう一度、最初から巨人を作り出す。マリーはそのことを知っている」
独白? 本当にそうだろうか。
聞かせたかったはずだ。聞いて欲しいと願うからこそ彼女はここに記す。
マリアンローグは語り続ける。
前にも繰り返した、きっともう忘れてしまっているであろう出会いの瞬間。
どこにも存在しない失われた序幕。
それを、確かに知っていたはずだ。
「沈まぬ太陽はない。それはこの地底でも同じことだ。マリーは今、この場で、お前に宣言する。『じろちゃん』はお前にはならない。マリーはそれを知っている」
誰も知らない宣戦布告。
戦う理由も、ひとりきりの決意も、物語の主人公と敵対するという無謀な選択も、全てはマリアンローグが独白の中に隠した秘密。
太陽の継承。文明圏の存続。賢者たちが定めた正しい世界。
そんなものは丸めてゴミ箱に捨ててしまえ。
天主が何だ。主人公がどれほどのものだと言うのだ。
賢く可愛いマリアンローグはそんなものにはなりはしない。
最も物知りマリーには特権がある。『語り部』という大いなる特権が。
作者でも主人公でもない、本の世界を規定するもうひとつの視座。
地の文、それこそはこの芳醇な空白世界を成り立たせる母なる大地。
ゆえにこの宣言は覆らない。物語の最後、全ての状況を正しく理解して納得するのは間違いなく常勝の美少女マリアンローグに他ならないと。
そう、マリーは何でも知っている。記されていく世界はそのように進んでいくと。
空白が埋め尽くされた黒ずんだ翼。
物語はこの幸福な前提から始まるのだ。