1-1.天主たちの円卓
「クロウジャナス行政局がお知らせします。本日の正午より、第一区から定期降雨を実施いたします。洗濯物を干している方はご注意ください。また、特別警戒期間中につき、特区及び隣接区域では気象操作を行っておりません。市民の皆様にはご迷惑をお掛けしておりますが、何卒ご理解いただけますようお願い申し上げます」
世界を形作っているのは虚構である。
天蓋に表示された青空や雲は幻像でしかなく、管理された天候は予定通りの晴れや雨を繰り返す。陽の光が届かない地底都市において、天空というのは神話における観念的な聖性の言い換えに過ぎない。
だがこの都市を無明の闇が覆うことはない。
地底の誰もがその威光を知っている。
大地のあたたかな恩寵、地上太陽の輝きを。
膨大な熱が生み出す恩恵を管理、制御して分配する巨大な管理塔の存在を。
人々の表情は明るく照らし出され、穢れのない純白の構造体が滑らかな都市の景観を形作っている。あらゆる市民が均質な笑顔を浮かべ、あらゆる建造物が美術品のように景観の一部として配列された完璧な観光都市。通り過ぎていくためだけに存在する街だ。
「みなさま、見えるでしょうか。空を描く大天蓋、その頂点を貫く塔の威容が。あれこそがこの地底妖精の都クロウジャナスが誇る第一世界槍、メクセスバハルの姿です!」
豪奢な観光馬車の上、観光案内人が都市の中心部を示した。真鍮の絡繰り仕掛けがゆったりと牽く大型の車はふかふかのシートと開放型の造りをしており、乗り合わせた十人程度の観光客は遙かな空へと伸びていく『槍』の姿に感嘆の吐息を漏らした。
そこは都市の心臓部。
地上太陽の真上に管理塔は存在した。
あまりにも巨大な塔は遠景で眺めても大きすぎて見るものの感覚を狂わせる。
これを作り出すためにどれほどの労力、資材、時間が費やされたのか。案内人は面白おかしく誇張した逸話を披露するが、塔の地下に巨大な慰霊碑と広大な墓地が存在する事には触れたりしない。それはまた別種の観光案内人が担う役割である。
「第一世界槍が、メクセスバハル」
耳慣れない言葉を確かめるように、ひとりの女がぽつりと呟く。
妙齢の女だ。波打つ髪は翠玉のように煌めき、耳元では孔雀羽の飾りが揺れる。艶っぽい面立ちとは裏腹に奇妙なほど世慣れた感じのしない独特な子供っぽさが近くに座る男性客たちをそわそわとさせている。その女が小首を傾げ、隣の男に尋ねた。
「特別警戒期間って、何かやっているんですの?」
「おや、お嬢さん、知らないのかい。今は天主会議の期間中なのさ」
「天主が、会議を?」
またも良く知らない言葉を聞いたかのような表情。
ぴんと来ていないのだろうか、不思議そうに男を見つめ、先を促すように見つめる。
中年にさしかかる頃の男は気恥ずかしさに視線を逸らし、焦るように言葉を繋いだ。
「そうだよ。新聞でも連網でも一面記事はまずそれだ。世界各地の彩域を統括するお偉い天主様が一堂に会するのさ。開催場所は持ち回り、今回は『白』から選出、となれば当然いつも通りにこのクロウジャナスでって話になる」
「すると、賢天主も来ているのでしょうか」
女の語調が少しだけ強くなったことに男は気付かなかった。
気付いていたとしても、不自然には思わなかっただろう。何しろその名前に関心を寄せるものは日を追うごとに数を増している。ここ最近というもの、良い知らせ、幸運な話題をもたらす名前といえばその人物をおいて他にはいないのである。
当然のことだ。戦時下にあって、英雄に注目が集まるのは。
「もちろん。任命当時は若いからって文句をつける人もいたけどね、今じゃ彼女の実力を疑う者なんてどこにもいない。何より、我らが天主デルゴ様の最も優秀な弟子が新たな天主になったんだから、我々としちゃあ鼻高々ってもんだよ」
「賢天主アリス。この都市で育った、最も新しい天主」
小さく呟いて、女は孔雀の耳飾りを確かめるように触れた。
遠く彼方に見える塔。世界の中心のように聳える大軸を睨み付ける。
それは視線で世界を貫こうとしているかのような、どこまでも強い眼光だった。
かくして物語はこの虚構の都市で幕を開ける。
地底都市クロウジャナス。
中心に聳えるのは偽りの天空を貫いて遙か上空へと向かう塔。
都市の観光局から派遣された吟遊詩人たちは飾り立てた歴史を語る。
虚構である。事実は異なる。
古い時代、鋭い穂先で天空の神々に戦いを挑もうとした王がいた。
この塔は覇王が造らせた大遺跡。千年以上の時を経てなお当時の姿を保ち続けるそれは、最も新しい世界槍。文明圏の中心を貫く秩序の中心軸。
本来ならば、そう呼ばれるはずだった。
巨大だった穂先は半ばでへし折れている。
仮初めの天蓋に刃は届かず、天空まで続くはずだった回廊は中途で崩落したまま。
神々を引き摺り降ろそうとした不遜な王の野望は潰えた。
ここにあるのは叶わなかった夢の残骸だ。
どこにも届かない空虚な風景だが、その感傷もまた古いものでしかなかった。
どれほど残酷な歴史であろうと、長い時がもたらす陳腐化は全てのものに平等だ。
神滅天廊メクセスバハル。第一の世界槍に攻め入り、しかし敗れ、上方世界から切り離された敗北者たちの古戦場。
そして、『白』の都市国家クロウジャナスが誇る観光名所。
あるいは呪術的資源。都市の象徴。
一部は改装されて行政区画内に組み込まれてさえいる。
塔の内部に設営された大会議場もその一部と言えた。
巨大な階段とその下にある円形の空間には巨大な円卓。
会議場を取り囲むのは螺旋を描いて上層に繋がっていく通廊だ。
実用性ではなく見栄えを優先した権威を示すための造りである。
円形会議場の真上は吹き抜けになっており、幾本もの柱が空中のある一点に集まって一つの足場を作り出している。真下の円卓を見下ろせる配置の足場は、降り注ぐ照明によって円卓に太陽を図像化したような放射状の影を落としている。
演出された太陽の上にあるのは巨大な玉座だ。
塔の支配者である古の覇王、ただひとりのために存在する特権者の空間。
その玉座に、一人の少年が座っていた。
この位置こそが己に相応しいという確信を瞳に漲らせて。
「何者だ、貴様」
円卓に並ぶ者たちの間に緊張が走る。
天主会議。広大な文明圏にまたがる神秘の土壌、五色の彩域を統べる偉大なる言語支配者たち。歴史に語られる古き栄光の都市国家ハイダル・マリクに起源を持つ賢人会議。
文明圏の命運を占う呪術世界の中心。
その神聖なる集いが不遜な何者かに穢されていた。
彼はただ君臨している。
下界の行く末など知らぬ。全ては斉しく取るに足りない些末事。
彼にとって重要なのは、己の権威。そのたった一つの虚構だけだった。
「余の名を知らぬか。愚かな凡俗ども」
燐寸から生じた暖かさが意識を繋ぎ止める。
冬の苛酷を忘れさせる命の幻想。
炎が生み出す幻には確かな形が存在する。
掌の上に出現した無数の幻想。ありとあらゆる『暖かさ』の想念が輝きとなって空間を埋め尽くす。暖色の炎に包まれた少年は傲然とその名を告げた。
「では教えてやろう。余こそ生と死の熱を統べる永劫の赤色矮星。全知を熾す火の元魔。ザドーナ・ソルラキア神炎王国開祖、『太陽王』ヘリオス=ハール一世である!」
沈黙が会議場に横たわる。寒々とした風が吹き抜け、燐寸の幻影が一瞬で掻き消えた。
ふう、と息を吹きかけて炎を消したのは一人の少女だ。
ぱたぱたと両の翼をはためかせ、少年の真横に滞空した妖精の少女。
その翼は、果醤をたっぷりと塗った麺麭でできていた。
「ヘリオス? 会議が始まりますから席につきましょうとは言いましたが、その席ではないですからね?」
「やめろアリス。偉大なる余にふさわしい席がここ以外どこにあるというのだ」
少女が少年の首根っこを掴んでずるずると引っ張っていく。
重さを無視するように少年を軽々とつまみ上げた少女は、そのまま少年を連れて下の会議場に降りていった。
「こっちですこっち。円卓に座るのはみんなが対等であるということを示すためですよ」
「くそ、はなせ、余はあっちがいい! 対等や平等は覇王には不要な概念だ。絶対者の下でのみ平等を謳歌しているがいい凡愚どもめ!」
「皆さん、お騒がせしました。彼にはよく言って聞かせますので、何卒ご容赦下さい。根はとってもいい子なんですよ」
誰も何も言わない。微妙な空気が漂いはじめた頃、円卓の傍に控えていた長衣の男が嘴を開く。鴉の頭を持つ鳥人は翼を畳んだ直立不動の姿勢で周囲を見渡して言った。
「それでは定刻となりましたので天主会議を始めます。本日の進行は私、サブル・ハイラームが務めさせていただきます」
会議の始まりを告げる宣言。だが先ほどの一幕で弛緩した空気はそのままだ。
淡々と資料を配る進行役もどこかやりづらそうにしている。
「毎度のことだがよ、天主会議ってもちゃんと来てる奴がほぼいねえじゃねえか」
そんな中、熊のきぐるみを着込んだふざけた格好の人物が軽口を叩く。
口の部分が開いて顔が出せるようになっており、獣じみた威圧的な眼光が放射されている。虹彩は小さく、下方の白目が大きい三白眼だ。
男の背後には奇妙なシルエットの女性が二人、あるいは一人、静かに佇んでいる。
発言を受けて近くにいた人物が答えた。
「仕方あるまい。物質界に実在しておる天主なんぞアリスちゃんとセレフィレちゃんくらいじゃしのう。アリスちゃんもどっちかつうと非実在美少女か」
長い髭を蓄えた青蜥蜴人の老人である。ゆったりとした道服に僧侶が身に付けるような裙子、あるいは丈の長い裳衣のようなものを着用している。
卓上に並んだ茶菓子を遠慮無くばりばり食い散らかす行儀の悪さを白眼視されるのも構わず、次々と口の中に焼き菓子と煎餅を放り込んで放り込んで、とうとう咽せた。
咳と共に吐き出したのは青白い炎である。
大気が焼け、円卓の反対側にまで届いた灼熱を涼しげに受け止めた人物は神経質そうな長身の男だった。細長い頭の上で耳をぴんと立てて、円卓の一部に鋭い視線を送る。
「それ以前に、その二人を天主と認めるのは時期尚早だったのではないかな。存在の不安定な虚構に、前世の覚醒すらしていない器。これでは正しき天主まで低く見られかねん。偉大なる獅子王の賢人会議も地に墜ちたと、口さがない者たちは噂していると聞くぞ」
胡狼のような黒い頭の犬精が睨め付けているのは主に二人。麺麭で飛ぶ少女アリスと、熊のきぐるみの背後に控えている女性だ。
「かーっ、わかっとらんなアヌビス。かわいこちゃんが天主なんて最高じゃろがい。うちの馬鹿弟子なんぞいい歳してどこの時空ほっつき歩いとるのかわからん放蕩者のダメなおっさんじゃぞおっさん。引き継ぎもせんまま雑務ぜーんぶ儂に投げて天主の座だけ持っていきおって、いっそアリスちゃんと交換して欲しいくらいよ?」
「それでも先代極天主のあなたが認めた男です、青海殿。資格については十分であるはず。賢天主も不安定さはともかく実力はまずまずだ。だが至高天主は? 名に実力が追いついていない。今日もお守り同伴でのご出席のようだが」
もはや敵意を隠そうともしていない。
犬と熊が激しく睨み合い、その牙を剥き出しにする。
「寝ぼけた天主の飼い犬やってるからか? 起きてる時でも寝言をほざいてんのはよ」
「気のせいか? いま、我が主への侮辱が聞こえたが」
「朱の天主もその番犬も、主従揃って寝ぼすけ野郎かって言ったんだよ間抜け」
平等な対話を理想とする円卓の上を飛び交うのは敵意と暴言。
その光景に失笑を堪えられなかったひとりが、思わずくすくすと声を上げた。
視線がひとりの若い男に集中する。
鎚、こて、定規を組み合わせた石工の紋章が刻まれた黒い制服を知らぬ者はその場にはいない。夜を塗り固めたかのような黒服に長鎚を腰に提げた職人騎士。
紋章が示す位階は最上位に近いが、それにしてはあまりに若い。
人畜無害そうな柔和な顔立ちに細い笑みを貼りつけたまま、男が口を開く。
「いやあ、失礼。こういう場所は初めてなもので。うちの親方、枯骸のくせして復活拒否して引きこもるからどういうことかと思ったら、単に面倒だったんですね」
失笑に加えて軽侮の色合いを含ませて、男は居並ぶ面々に笑いかけた。
作り笑顔はひどく薄っぺらい。当人にも取り繕う意思は薄いようだった。
形式以上の慇懃無礼さを感じていないわけではないだろう。しかしそれには頓着せず、犬精のアヌビスは冷静に問いを投げた。
「『黒』の代理はいつも通りラダマンテュスかと思っていたが、知らぬ顔だな。盲天主の新しい弟子か?」
「どうも皆さん、はじめまして。生まれも育ちもザカリヘッドなもんで、不調法がありましたらすんませんね。新しく筆頭職人を任されることになったオーカス・ヴァンスと申します。いやあ、錚々たる面々ばかりでビクビクしてますよ。小心者としては、もうちょっと抑えて貰えると助かりますね、なーんて」
「ほほ。抜き身の刃のような目をしおってからに、よく言うわい。プルートめも血気盛んな坊主を使いに寄越したもんじゃ。鬼気を垂れ流しにして誘いおる誘いおる」
蜥蜴人が牙を剥き出しにして獰猛に笑う。
敵意、暴言、空虚な笑顔、形だけの友好。
会議とは名ばかりの睨み合いは空中を焼く火花となり、殺意の萌芽はそれを快楽として消費する暴力の愛好家たちの手によって正しく育てられていく。
遊び足りない子供がその場にじっとしていられないように。
彼らはじっとその瞬間を待ち焦がれている。
蓄えられた力が爆発の機会を窺っていたその時である。
「皆さん、静粛に。『デルゴ様がこの場に満ちました』」
進行役の言葉よりも素早く、場の空気が切り替わった。
敵意が消えている。見せかけの友好も仮初めの笑顔も既に無用の長物。
敵対も友好も、それぞれが対峙しなければ発生しない。
円卓にはひとつの意思だけがあった。意識だけ、と言い換えてもいい。
冗長で空虚なやりとりは終わりを告げる。始まったのは、会議である。
「最初の議題なんざ決まってるだろ。細々したことは後だ。アリスさんよ、あとどれくらい保つんだ?」
「二巡節。一年保てばいいほうです」
「なるほど。で、そいつが適合者か」
熊の着ぐるみが見据えているのは最初に頭上の玉座を占拠するという暴挙に出た少年であった。本人はまだむくれているのか不満そうな表情で円卓に肘をついて睨み返すが、きぐるみ男は取り合わない。
麺麭の翼が重い羽ばたきで大気を動かした。アリスははっきりと宣言する。
「私は反対の立場であると、改めて申し上げておきます」
「笑わせるな。お前の姉貴のがまだマシな冗談吐くぜ」
「それは」
言葉に詰まったアリスに、傍らの少年が意外そうに目を見開く。
熊のきぐるみは語調を強め、アリスに対して追及を続けた。
「賢天主よお前に問おう。ならばどうしてそいつを救い、ここに連れてきた? 何度も言わせるな。ジスゴデクは死んだ。蜥蜴人どもの犠牲で誤魔化すのも限界だ。次はどうする? お綺麗な理想論も言えねえ奴はただの怠け者だが、現実が見えてねえのは間抜けだぞ」
大人に叱られた子供のように、アリスは口をかたく引き結んだ。
無言が意味するのは相手の意見に対する肯定。
消極的な同意は、しかし少女にとって認めてはならない諦観でもある。
熊の着ぐるみは念を押すように繰り返す。
「いずれにせよ選択ができるようにはしておくべきだ」
言葉を句切り、今度は少年に向かってこう言った。
「ヘリオス・ラエジロス。お前はザドーナを守りたいか」
「既に守っている。これからもそうするだろう。文句があるのか?」
変わらずに居丈高に振る舞う少年の言葉にきぐるみ男は頷きを返した。
少年の答えに問題はない。であれば、男が告げるべき言葉はひとつだった。
「ならばその身を捧げろ。魂と存在を犠牲に、地上太陽の核となれ」
死ね、と言った。
だがそれは罵倒ではなく、ましてや敵意の表明でもない。
世界の行く末を定めるために必要な選択である。
「やり方は教える。近く、俺はこのクロウジャナスの炉に入る。俺が犠牲になるまでの間、お前に『太陽になる変身術』を叩き込んでやろう」
「余にものを教えるだと? いったい何様のつもりだ。人に何かを教えられるつもりなのか。この偉大なる炎の化身に?」
心底から呆れたようにヘリオスは言った。
ものを知らない、おかしな格好で会議の場に出席する常識のなさ、おまけに無意味に偉そうで恩着せがましい。
司祭に聖典を読んで聞かせるような愚行であると、誰かがおしえてやらねばならないだろう。深い溜息を吐いた少年は、その直後の名乗りを聞いて呼吸を止めた。
「俺はラエジロス・ケネル。ジャッフハリム四十四士がひとり。そしてお前と同じく『森の王冠』ラエジロスの血を受け継ぐ者。世界最高の変身術士と見知りおけ」
熊のきぐるみという民族衣装でその場に立つラエジロス・ケネルは両手を頭の真横に持ち上げて「がおー」と言った。咆哮を模した挨拶で、最上級の礼を示すものだ。
「人は俺を『じろすけ』と呼ぶ。最大級の親しみを込めてな」
ヘリオスはしばし沈黙し、下を向いて考えこみ、やがて顔を上げて言った。
「とりあえず貴様、頭が高い。余の渾名をパクるな」
「阿呆め。どう見ても年下のお前の渾名をパクれるわけないだろう」
「偉大なる太陽王を前にしてその不遜な振る舞い、万死に値するぞ」
「地上太陽の光を浴びすぎておかしくなったか。少し手荒い指導が必要そうだな」
真顔で無意味な言葉を交わし合う二人。
とんとん、とヘリオスの肩を少女が叩いた。
「ヘリオス」
アリスが朗らかに微笑む。
「私は『じろちゃん』が可愛いと思います」
渾名が被らないように、という妙案であった。
ヘリオスの反論も虚しく、多数決によって『じろちゃん』案は可決された。
「わたくしは反対です」
一人ないし二人の女が厳しい反対意見を述べた。
『じろちゃん』案にではない。
真面目な話をしている。地上太陽に捧げる『生贄』についての話だ。
手をこまねいていればやがて崩壊する地底世界をどう維持し、人々の営みをどのように存続させていくのかという問題について真面目な意見を述べている。
同じ『藍』の陣営でありながら、その女性はラエジロス・ケネルとは正反対の態度をとっていた。
「竜神信教を代表する立場として発言させていただきます。地上太陽とは偉大なる火竜メルトバーズ様が創造した恩寵そのものです。その運命をこのようなどこの馬の骨ともわからぬ男に任せるなど狂気の沙汰」
「何だ貴様は呼ばれもしないのにしゃしゃり出てくるな。いったいどこの馬の骨だ?」
侮られたと感じたじろちゃんがいきり立つ。ある意味では自分の命を救おうとしている相手だというのに、それよりも大切な誇りが損なわれたことに彼は憤っていた。
女は二つある頭の片方でじろちゃんを睨み付け、鋭く答えた。
「至高天主。セレアフィレア・ディスケイム。ジャッフハリムにおける『藍』の彩域を統括する竜導師長です」
喋っているのは片方の頭だけだ。
女は双頭だった。むしろ双体と言うべきか。
セレアフィレアとは個人名であり二人分の名前を合わせた連名でもある。
女の肉体は融け合うように重なり合っていた。
「お前、半分だけ魂がないのか。哲学的ゾンビの結合双生児とは何かの思考実験か?」
「魂の研究にまつわる人体実験の結果です、お気になさらず。我が家ではよくあることですので。そして、ええ、わたくしの在り方をご理解いただけているのなら、私があなたの魂や出自うんぬんを問題にしているわけではないことはお分かりですね? 単純に実力が不足していると申し上げているのです」
セレアフィレアは宗教的な立場から感情的な意見を述べていたが、極めて現実的な観点も持ち合わせていた。地上太陽の核になる。口で言うのは簡単だが、そのためには幾つもの超えなければならない技術的な困難があった。
天主という存在が集まって意見を出し合い、利害を調整しなければ実現できない。
そのことが既に事態の厄介さを示していた。
ならば修正案や対案は、という話の流れになるより先に、別の人物が手を挙げる。
「『彩域の試し』をじろちゃんに受けさせてみてはいかがでしょう」
発言したのは、これまで一言も発していなかった『白』の天主代理だ。
正三角形の髪飾りと縁のない眼鏡、白を基調とした上下揃いの衣服の背中から伸びた翼翅がばさりと広がり、知恵をもたらす。
穢れのない純白の翼に、無数の文字列が浮かび上がっていく。
呪文、記述、知識、そして物語。
はばたく紙束に流れていくのは虚構の叡智。
「我が師デルゴもこの記述の先を望んでおられます。同じく私も、他ならぬアリスが認めた騎士であれば可能性はあると考えます」
少女は物語の力で飛翔し、飛躍する。
紙束がはばたく。白と黒の翼翅が虚構を前進させていく。
じろちゃんとアリスは、この白い少女の名前を知っている。
彼女を『最も物知りマリー』と人は呼ぶ。
その背中から伸びる翼は、本の形をしていた。
「『マリー』シリーズの最高傑作と名高いマリアンローグ殿の言葉であれば尊重しよう。不出来な藍色とは違って少しは上等な器のようだしな」
「面白いではないか。彩域の代表者が課す『魂の試練』を乗り越えさせることでじろちゃんに資格を与えようというわけじゃな。アリスちゃんをかわりばんこにいじめたあの時を思い出す。さて、じろちゃんは何回死ぬかのう?」
「俺も異論はありませんよ。じろちゃんでしたか。あなたにも少し興味がありますしね」
会議の参加者が次々に賛同の意思を示し、熊の着ぐるみが傍らの女司祭に視線を向ける。双頭の女は無感情に認めた。
「では、証明して下さいませ。あなたが未来を託すに相応しい人物であるならば、わたくしからは何も言うことはありません」
かくして道は定められた。
地底文明圏を維持する地上太陽。
人の営みを存続させるために必要な力は時の流れと共に衰え、風前の灯火であった。
薪が必要だった。途方もなく巨大な薪が。
次代を繋ぐために必要な、偉大なる者。
自分をおいて他に誰がいるというのか。少年にとってそれは誇りの問題だ。
世界の中心で燃えさかる者。それが彼の個我を規定する確信の形である。
「不遜にもこの炎の王を試すと言ったか、有象無象ども。よかろう、許す。すぐ終わらぬよう、気合いを入れて持てなすがいい。いくらかは楽しませてくれよ?」
そう言って少年は不敵に笑う。
彼こそはじろちゃん。賢天主アリスと並び世を賑わせる戦の英雄。
常勝の騎士との呼び名も高い、度を超した妄想狂である。
彼の思い込みを訂正することは、誰にもできない。
『大断絶』により分かたれた二つの大地は『天獄』、『地獄』と互いを蔑みながら激烈な交戦状態を続けていた。戦いの舞台は天地の間隙に横たわる『地底世界』。
平坦な大地が文明の進歩にともなって球化した際に生まれた、『地の底には包み込まれた世界がある』という幻想。それは地下文明の夢を詰め込んだ最後の理想郷。それは『文明圏』を規定する遠い神話時代の遺産、世界槍。
第三の槍、その名は『妖精回廊アガルタ=アスガルド』。
北方辺境の天地にて、槍の支配権を巡って二つの勢力が相争う。
『天』より見下ろすのはウラヌス=ラータエルス転生六世率いる北辺帝国リーヴァリオンと肉体の軛に縛られた半妖精たち。
『地』より立ち向かうのは賢天主ジュピター=アリス率いる地底都市ザドーナと魂を示す術を持たぬ哲学的ゾンビたち。
植民都市で発生した小さな暴動を発端とする帝国への叛逆は、長き時を経て世界を書き換えるほどに巨大なうねりへと変貌していた。
反乱から革命に、解放戦争から正義を示す聖戦へ。
形を変えて続いていくザドーナの抵抗を、影ながら後押しする勢力があった。
『大地』に呪術的な力を見出し、五つの色彩に分けて『掌握』する五人の超越者。
下方勢力における最高の武力にして王すら超える権威を持つ賢者たち。
公正なる白き叡智が集う大地クロウジャナスにはそのうちのひとりがいる。
『白』の彩域を支配する第一天主デルゴ。
人呼んで『星天主』。
デルゴは地底都市ザドーナの独立を承認し、その最大の後ろ盾となるにあたり、自らの最も優れた弟子を送り出した。
それこそが第六天主アリス。
未知なる色彩、『黄緑』の彩域を支配する地底都市の女王である。
これは、夢見る少女がその空想で世界を塗り替える物語。
生まれては消えていく儚い世界観。
万華鏡のような『ごっこ遊び』が飛び交う子供たちの空想砂場。
信じる物語を守るため、今日も荒唐無稽な幻争が繰り広げられる。
たとえ信じた夢がどうしようもなく幼稚だとしても。
少女の夢は世界槍を貫き奔る。
いつか、ふたつの世界が優しくひとつに綴じられるまで。