7.マジで不味い
現代人は弱い。
否、弱くなった。生まれてこの方、文明社会に頼り切りの生活で……すっかり弱くなってしまった。
一昔前の人間と、今現在の人間を比べても。その違いは如実に表れるだろう。
ましてや異世界人と比べたら、言わずもがな。長らく自然から離れて生活し、野性の勘を失い、困ったことがあればネットで調べ、必要なものは家から出ずとも注文すれば届く。
この鈍り切った現代人の身体は――とりわけ、耐性が下がった。何の、とは言えない。全体的な耐久力。あらゆる物に対する耐性全般。
一つ、例を挙げるならば。みんなも怪我や病気をしたら、すぐ病院へ駆け込むだろう。もしくは、症状に対応した薬を使用する。結果、自然治癒力やウイルス耐性が下がってしまう訳だ。
以上を踏まえて。
異世界の住人にとっては大したことないかゆみの症状でも……現代人にとっては! 死ぬほどかゆい――!!
「あっ、かゆいかゆいかゆいっ! 身体中がぁ!! 身体中が隈なく! かいいいいいいいいいいいいいいぃ!!」
「そんな、大袈裟なぁ」
「いつまでぇ!? これ、いつまで続くのおおおおおぉ!? ぐおおおおおおおぉ!! かゆいいいいいいぃ!! 掻いても掻いても! 掻き足りぬ――!!」
「そうですねぇ……安静にしていれば、陽が沈む前には収まるかなぁ?」
地獄のかゆみ耐久試験の始まりである! 少なく見積もっても数時間!!
辛い。これは辛い。不味いとはまた違った方向で辛い。それが、かゆい。
「ぬがああああああああああああぁ!? 全身を――!! 全身を無数の蟻が駆け回るようなぁ! 余すところなく1000匹の|蚊に刺されたかの如くッ!! どうしようもなく、精神が狂いそうなほどかゆいいいぃ~!! どうにか! どうにかならないのぉ!? ねぇ!!」
「ふふっ」
「笑いごとじゃないってえええええぇ!!」
盛大に床を転げ回っている僕を、まじまじと見下ろして。クリムは笑顔を浮かべていた。
「うふふっ。グルメさん、さっきから動きが面白いですよぉ~! 動きが! あっ、あれに似てますよぉ! 魔法で操られたお人形さんみたい」
「悠長なことを! 言ってる場合かぁ!! があああああああッ!!」
不味さも通じなければ、かゆみも通じない。言語は通じるのに。
どれだけ本人が切羽詰まった状況でも、第三者から見れば「大袈裟だなぁ」で終わってしまう。こういうこと、よくあるよね。
悩みの度合いは、当事者にならなきゃ分からない――!! だから、そんな人を見掛けたら助けてあげて! 僕も今日から助けてあげるから!
「ねぇ、かゆみ止めとか! 無いのぉ!?」
「かゆみ……止め……? あぁ、状態異常を治す魔法か何か? 使えたら便利だよねぇ」
「おがあああぁ!! 違う違うッ! かゆい症状を和らげる……薬っ! かゆみ止めの薬ぃ!」
「あっ、お薬ねぇ。うーん……無くはないけど、効果があるかなぁ? 良かったら、飲みます?」
「飲むタイプ!? 新しいっ! 飲むタイプのかゆみ止め! 新しいこと、この上なし! いや、塗るタイプは!?」
彼女は首を振るばかり。無いのか。飲むタイプしかないのか。そんなバカな。
「のああああぁー!? もう、それでいいからっ! 可及的速やかに! 早くっ、下さあああああぁい!!」
「ちなみに、スッゴイ不味いけどいーい?」
「不味いのは嫌!」
「でもでもっ! お薬が苦ぁーいのは当たり前じゃないの?」
「そうだけど! 嫌なものは嫌! 飲める未来が見えない――!! あぁ、不味いのは嫌だ、不味いのは嫌だ……」
「もぉー、グルメさんは超々我がままですねぇ~」
良薬口に苦し。薬は苦くても我慢して飲む。これ常識。
ただ! 異世界の住人が確実に不味いと! お墨付きを与えた薬を口に入れるほど! 僕は愚かではない――!!
絶対にクッッッソ不味いって!! さっき頑張って胃にぶち込んだ果実を、床に吐き散らかすよ!? いいの!? ダメでしょ!!
クッソ不味いか、クッソかゆいか。最悪で究極の二択。しかも、不味いの方を選択したからと言って――かゆみが収まる保証はない。
「ぅごオオおおおおッ!! ガアッ!! この世界に! 神は居ないのか――!? いっそ殺せえええぇ!!」
「はぁ……ちょっとかゆいくらいで騒ぎ過ぎですよぉ」
「ちょっとじゃない!! ちょっとの定義を! 辞書で引け――!!」
「はいはーい。分かりましたよぉ。かゆいのを止める、塗り薬ですね」
あるのか!? ちょっと前は首を振ってたのに! あるのか!
「ただ、今の季節は材料が稀少なんですよねぇ。誰かにお裾分けしてもらえるといいんだけど」
「今から作るの!? 今から材料を調達して! 調合するの!?」
「当たり前じゃないですかぁー。早ければぁ……陽が暮れた頃には完成すると思いますよ」
「待てない! そんなに待てない! そして恐らく! その時点ではかゆみが収まっている――!!」
「あっ、確かに」
もう限界である。
どうしようもない。ただひたすらに、かゆみを堪えるしか道は無く――
「うわっ!? 危ないっ!」
「え?」
――ゴンッ!!
……少々はしゃぎ過ぎたようだ。
床を転げ回った拍子に、近くの棚へ頭をぶつけてしまった。
すると、落ちてくるのだ。棚に乗せてあった物品が。脳天を目掛けて。
一番上の段に置いてあった、木を彫って作った謎のオブジェ。ぐらりとバランスを崩し、真っ逆さまに落下。実のところ、木の塊というのはなかなかの質量がある。
それはそれは、盛大な鈍い音が部屋中に響き渡った。
どうして重い物を棚の上に置いたのか。そんな疑問はさて置いて。僕の意識は徐々に遠くなっていくのだった。
最後に、一人残されたクリムは。ぐちゃぐちゃに散らかった部屋を見て、一言。
「あーあ。やっぱり拾うんじゃなかったぁ~!」
☠
結果的に。
過程はどうであれ、結果だけ見れば……とても良かった。
寝ている間は、かゆみなんて基本的に感じないだろう。つまり、意識を失ったお陰で。僕は無事に地獄のかゆみ耐久試験を乗り切ったのだ。
世の中、何が功を奏するか分からない。万事塞翁が馬。醤油と間違えてポン酢に付けたら美味かった。
「う、うーん……」
最初に感じたのは。
不味さでもなく、かゆさでもなく、痛さ。
頭がガンガンする。割れるような痛み。まぁ、当然か。あれだけ思いっ切りぶつけたんだから。コブになっている気がする。ただ、頭は割れていない。とりあえず命が無事で良かった。
次に感じたのは。
パチ、パチリ。何かが弾ける音。それと同時に、ジューッという音色がハモりを効かせてきた。
この美味そうな二重奏は――間違いない。
食材を……食材を焼いている音……!!
「――はっ!?」
もちろん、パッと目を覚ました!
ちっちゃい果実の一つでは! とてもじゃないが、空腹は満たされぬ!!
依然として腹ペコなのだ! そこに美味そうな音の一つでも聞こえたら!
そりゃあ、誰だって飛び起き――れない。
なんで!? どうして!?
「あらぁ? お目覚めですか?」
聞き覚えのある声。その姿に既視感すら覚える。
一つしかないベッドを占領している我がままな僕に、透き通った優しい声を掛けてくれた。なるほど。またしても、迷惑を掛けてしまったようだ。
ただ、そんなことは気にしていないかの如く、彼女は明るく振る舞っている。まるで、僕が散々面倒を掛けた一連の騒動を、すっかり忘れてしまったのではと錯覚してしまうほどに。
いや、マジで忘れてないよな? うーん……断定はできない。クリムならば、有り得てしまいそうなのが恐ろしい。
「もしもーし! お目覚めですかー?」
「ちょっ、痛ってぇ!! 頭を! 頭をペチペチしないで!」
「あっ、起きてた」
「起きてますけど! ちょっとは学習して!」
ワザとなのか、天然なのか。それは、まだ分からない。
彼女のことをちゃんと理解するには、付き合いが短過ぎる。
「……ごめん。また迷惑を掛けたね」
「別に大丈夫ですよ。グルメさんが我がままだって、知ってますからぁ」
「ちょっと心外」
いや、それよりも。
どうしてベッドから起きれないのか。
僕の身体が! ベッドに縛り付けられている! 植物のツタでグルグル巻きにされてる!?
確かに、暴れてたけど。棚に置いた物をぶち撒ける程度には、盛大に暴れたけど。それでも、これはさすがにやり過ぎじゃないかなぁ……?
「あの……助けて」
「もう暴れない?」
彼女はニコリと、僕に笑顔を投げ掛けた。
あっ、これは分かる。付き合いが短くても分かる。表面上は笑っていても、内心では怒っている。自分の部屋を散らかされて、怒らない人なんていない。
「あ……暴れません。もうかゆみは収まりましたから。二度と誓って暴れません。だから、助けてください! お願いしますっ! どうか! ご慈悲を――!!」
今の僕は、まな板の鯉そのもの。
生かすも殺すもスライムの餌にするも、全ては彼女の気分次第。
☠
思ったりより、あっさりと解放された。良かった良かった。
まさか、そんなことはないだろうと考えつつも……内心は冷や冷やしていた。人生最大のピンチ。身動きが取れないだけで、ここまでの恐怖を感じるとは。
「そんなぁ! 人間さんを取って喰おうだなんてしませんよぉ!」
「うん、だよね。僕もそんなエルフ知らない」
「だって、見るからに不味そうじゃないですかぁ……」
「美味そうだったら食べたの!?」
「……かも?」
「えっ、冗談だよね!?」
そんな他愛もないやり取りで、彼女も心の底から笑顔が戻ったようだ。
では、本題に入るとしよう。
「ちなみに、何を焼いてたの……?」
「あっ! 忘れてたぁ!」
クリムは一つぴょんと飛び跳ね、向こうへと姿を消した。多分、キッチンの方へ。もしや、火を掛けっ放しだったのか? この家、完全木造住宅だからよく燃えるぞ? 大丈夫なのか?
直後、軽やかに舞い戻ってきた彼女の手に握られていたのは――
「ギリギリセーフですっ! ほらほらぁ~、良い焼き加減でしょう?」
真っ直ぐな木の枝に刺さった、一匹の魚だった。
焼き魚。とても原始的な調理法の、焼き魚。
「お昼に罠を仕掛けておいたら、見事に掛かりましたぁ! 大漁ですっ! へっへーん! どうですかっ! 私だって、やればできるんですよぉ!!」
「いや、知らないって。普段の君ができるのか、できないのか。それは、さすがに知らない」
多分、できないのだろう。
「お昼……もしや、今日のお昼?」
「そうですよ? その時にグルメさんを見付けて、拾って帰ったんです。もう、重くて大変だったんですからぁ~!」
「あっ、ごめん。じゃなくて! 論点はそこじゃない! まさか……まさかだけど。この魚を捕まえた川は――」
「とーぜんっ! ゲチョリ川です」
「やっぱり!?」
瞬間。
口の中に水の味が思い返される。あのメチャ不味い川の水。
そこで捕まえた魚……うーん……。
「ああっ! グルメさんのその顔……どうせ不味いって思ってるんでしょう!?」
「すっ、鋭い……」
「誰だって分かりますよぉ! いいですよーだ。我がままなグルメさんには、一口もあげませんからぁ~!」
「こっちこそ、願い下げ――」
「あーあ。もったいなーい。こーんなに美味しいのに……はむっ」
これ見よがしに。
クリムは僕の目の前で焼き魚をかじる。
パリッという、小気味よい音を奏でて。ド真ん中から噛み切った。
ほんわりと塩の香りが漂ってくる。捕ったばかりの新鮮な川魚を、無造作に火で炙り、味付けはシンプルに塩だけ。彼女が自慢していた通り、絶妙な焼き加減。表面の焦げ目は、絵に描いたかの如く完璧。
これで美味くない訳が……無いだろうっ!
ゴクリと喉を鳴らすのは、辛うじて我慢した。しかし、ほっとした瞬間――舌なめずりをしてしまう。このままでは、お腹がグゥと文句を言うのも、時間の問題。
それに、川の水がメチャ不味くても……そこを泳いでいる魚までメチャ不味いとは限らない!
美味い野菜の育つ土壌は! 口に入れると不味い! 土だから!!
ならば……可能性はゼロじゃない。
「んんーっ! お魚さん、良いお味ーっ!」
「ぐっ……」
「ん? どうしたんですかぁ? グルメさん」
ダメだ……抗えない……もう、どうとでもなれ――!!
「一口だけ……」
「うえっ!? 本気ですかぁ!?」
「お願いしますっ! どうか、一口だけ!!」
必死の懇願に観念したのか。クリムは渋々と焼き魚を渡してくれた。
「一口だけですよ?」
「分かってる」
落ち着け。大丈夫。何も心配ない。まだ、この世界の全てが不味いとは限らない。それに、今まで食べてきた植物とは違う。今回は魚である。挑戦する価値はあるだろう。ひょっとしたら、マジで美味いかもしれない。確率は低くとも、ゼロじゃない。
ならば、その可能性に舌と胃袋を懸ける――!!
――ガブッ
………
……
…
「ガベエエエエエエエエエエエエエエェ!! ンにゃあああぁ!? ゴッ! ゴゲッ!! ぐっはァ! マッッズ!! マジで不味いッ!! ぶへぇ! だと思ったよ!! だって、あの川だもん! あのメチャ不味い川に住んでるんだもんっ! 不味くない訳がない! 川の水が不味ければァ!! 住んでる魚もクッソ不味い――!! 水中で生活しているとは思えぬパッサパサ感! 川の水を髣髴とさせる泥みたいな味! 一つだけ褒めるとすれば! よくぞ、あの川に生息して! ここまでの不味さに抑えた――!! だが、不味いことには変わりないッ!! っていうか、硬いッ! 皮が硬ければ、肉も硬くて、骨まで硬い――!! 絶対に食用の魚じゃねえ! があっ、クッソ……!! 骨が口の中に刺さったぁ……もう最悪……」
ほら見なさいと、冷たい視線を送るクリムだった。
ただ、成長したから! ほら、こんなに不味いのに……吐き出さなかった! 着実に成長している! 変な方向だけど!
だから、ちゃんと食べたことだけは、うんと褒めて欲しい――!!
もう二度とゲチョリ川の魚は食べないと、僕は誓った。