3.ゲロ不味い
腹が減った……。
とてつもなく腹が減った……。
この世界へ来た時は、そこまで腹が減っていた訳じゃない。
しかし、いざ美味いものを食べようとして「お預け」を喰らうと……分かるだろう。無性に腹が減ってしまう。
あんなにも食べる気満々だったのに! 一口も食べられないなんて! 呑み込めないなんて! クッソ不味いなんて!!
僕の口は、既に美味いものの口になっている。寿司を食べたければ寿司の口。中華を食べたければ中華の口。美味いものを食べたければ美味いものの口。
何が何でも、美味いものしか受け付けない。
嗚呼、食べたい。何でも良いから、美味いものが食べたい。
こんな気分の時、ぶらりと入れる焼肉屋でもあったら良かったのに。しかし、この世界では叶わぬ夢。
大きな古樹にもたれかかって座り込み、焼き肉を食べる妄想に耽る。
アツアツに熱された鉄網の上で、ジュウジュウと音を立てるカルビ。
さっきまで鮮やかなピンク色だったのに。今や表面に焦げ目の付いた薄茶色。そのギャップに反して、絶妙な味わいを演出するのだからこの上ない。パチリと、肉が弾けて踊る。僕の胃も踊り出す。滴り落ちる油が火の勢いを増しては、直後に沈静化される。もう、箸を持つ手が待ちきれない。焼け上がる瞬間を今か今かと、白米を片手に待ち詫びる。
立ち昇る煙は強く濃厚な匂いを振り撒き、人々の野性の本能を呼び醒ます。そう、これぞ「肉」! 食の四天王の一角、「肉」! 太古より人類に親しまれてきた食材! 肉とは人類の起源である! そして、肉とは人間の歴史である! 僕はこの一枚のカルビを食べるため! ここに生まれてきたと言っても過言ではないのだ!
そうっと、裏返す。
もう一度、裏返す。
何も問題ない。焼き加減は上々。少し赤みの残った程度が、一番美味い牛カルビ! 待っていましたとばかりに、口の中から唾液が溢れ出す。
ガブリ! と、かぶり付きたい気持ちをなけなしの理性で抑え、まずは取り皿へ移す。箸で持ち上げると――重みを感じる。こんなにも小さな肉の一枚なのに、どれだけの潜在的なパワーを秘めているというのか!
醤油、ポン酢、ねぎ塩と。通の食べ方、色々あるが。やっぱり最初は焼き肉のたれ! この店秘伝の辛口だれを、浅い小皿へなみなみ注ぎ。気付けば机に擦りおろしニンニク。これは絶対に入れざるを得ない。ガツンと味を効かせるために、スプーン一杯ひとすくい。明日のことなど気にしない!
誰が何と文句を言おうと、これが僕の食べ方なんだ! 間髪入れずにカルビを投入。辛口たれの海へダイブ。ニンニクがたれへ溶け込み、肉へ染み込み、あっという間に完全体へ仕上がった。テカテカと表面が光り輝く極上の一枚。神に誓って、これは美味い――!!
ホカホカの白ご飯の上に乗せたら。大口を開けて、一口――
「あーん……」
――プルプル
「ん?」
不思議な感触を覚え、目蓋を上げれば。
そこにいたのは――スライムだった。
何が面白いのか分からないけど、楽しげにプルプルと震えながら……僕の膝の上に乗ってきたのだ。
良いとこだったのに! 一番良いところで! 邪魔された!
夢の中で寿司を食べる直前に! 起こされたのと同じ気持ち!!
「はぁーあ……勘弁してくれよ……」
一口くらい食べたかった。さっさと食べておけば良かった。今さら後悔しても遅い。後の祭り。ラストオーダー終わり。
――プルプル
瞬間。
気付いてしまった。
悪魔的な考えが頭をよぎる。
綺麗に透き通ったブルーのゼラチン質。全く濁っていない。目を凝らせば、向こうの景色だって見える。それが、さっきから目の前でプルプル、プルプルと揺れているのだ。
「お前……美味そうだな」
もしかしたら、この時点で僕の正常な思考は失われていたのかもしれない。余りの空腹により、見る物全てが食べ物に見えてしまう。そんなこと、あるよね。
――プルプルッ!?
何かを察したのか。逃げ出そうとするスライムを……ガシッと両手で捕まえる。思っていたほど、表面はドロドロしていない。押さえ付けられてなお、丸い形状を保っている。
例えるならば、食後のデザート。焼肉屋さんで腹一杯食べた後に、何を血迷ったのか最後の口直しで注文したソーダゼリー。〆はアイスが定番だろうと、無粋なことは言うでない。僕は今、ゼリーが食べたい気分なんだ!
川の水にも負けぬくらい澄んだ透明感。蒼空から落っこちてきたのではと、邪推してしまうほどのコバルトブルー。ハワイの海にも負けぬだろう。見たことないけど。
ひんやりとしている。まるで、冷蔵庫から出したてのように冷たい。暑い太陽の下、ひえひえのゼリー。なんて最高なシチュエーション。
指でつつくと、プルンと震える。ここにスプーンがあったら完璧だった。思わず虜になってしまう。早く食感を確かめたい。
香りはない。完全なる無臭。それも当然か。ゼリーなんだから。固まったゼラチンに匂いなんて無い。なら、森を漂っている濃い草の香りと共に、デザートを楽しむとしよう。
そのまま口元まで持っていき、我を忘れて一口。
――カプッ
………
……
…
「ブベエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエェ!! ゲッ、ゲエエエェ!! ウッエエェ!! がアアァ! ブエッ!! マッッッッッズ!! ゲロ不味いッ!! ベッチャベチャ! もう口の中ベッチャベチャ!! ドロッドロし過ぎてゼリーじゃねえ! いや、マジでゲロ不味ッ! 我が生涯で食べた何よりも――!! 右に出る者ない不味さ!! 生ゴミをミキサーにかけて、ゼラチンで固めた方がまだ良心的! ウエッ、マッズ! マジでヤバイって!! あのクソ不味い果実を! 喜んで食べるだけはあるっ! 名伏し難い! この味だけは名伏し難いッ!! どんな味かと問われても! 例えるならばの、例えが一切思い付かない――!! 消えろ! お前は存在しちゃダメな生き物っ! この世界から今すぐに消えろォ!! ゲエェ……あっ、もう無理……」
ぴょんぴょん跳ねて逃げていくスライムを見送りながら。
僕の意識は徐々に薄れていった。
死ぬほど不味いという表現はあるが、これはガチで死ぬ。
失神するほど不味かった。
そんなもの、食べたことないだろう。
ガクリ。
僕はその場で昏睡したのだった。
「んしょ……んしょ……よいしょっと! ふぅ……あれぇ? 誰か倒れてる? もしもーし! 聞こえますかー? ペチペチ。全然起きない。でも、放っておく訳にもいかないし。うーん、どうしよっかぁ?」