24.まずまず不味い
僕は鏡の前に立っていた。
そのまま右を向いて、今度は左を向いて、斜めに構えて、謎のポーズを決める。ふむふむ、なるほど。馬子にも衣装とは、よく言ったものだ。
元々、それほど服装を気にする人間ではなかったけど……ちゃんと着るものを着れば、実は僕も格好良く見えるのでは?
手の平で頭の上を押さえ、存在しない帽子を取り払う。そのまま投げる素振りと共に、クルリとその場で一回転。右手で銃の形を作って、銃口にふうっと息を吹きかける。バッと両手を上方斜め45度に掲げ、見よう見まねで特撮ヒーローの変身を決め――
「グルメさん……さっきから何してるんですかぁ……?」
「くっ、クリムっ!? いつからそこに立ってたの!?」
「うえっ? えっとぉ、グルメさんが右を向いた辺りからですかねぇ……」
「ほぼ最初から!! 黙ってないで、声を掛けてよ! 恥ずかしいっ!」
「ふふっ。なんか面白いなぁ~って」
絶対に見られたくないところを見られてしまった! タイミングが悪い! いや、僕の不注意でもあるが。
一方のクリムは、ペットの面白行動でも見たかのように、無邪気に笑っている。
「あっ、もしかして! ミキサちゃんからイケメンって言われて、調子に乗ってるんですかねぇ~?」
「ぎくっ! そそそ、そんなことあらへんがな!!」
鋭い。無駄に鋭い。変なところで鋭い。
クリムは精一杯の意地悪そうな口調で、僕に詰め寄ってくる。
「……で、ホントのところはぁ? 実は、満更でもないんでしょう? 観念して白状した方が、身のためですよぉ? ほらほらぁ、正直に吐いちゃいなさーい?」
「あっ、いやその……」
「おかーさんっ! グルメさんが鏡の前で変な踊りもがっ」
「やめてっ!! ちょっとだけ! ほんのちょっと調子に乗ってましたぁ!!」
「ふっふーん。素直で宜しいっ!」
すると、急にクリムはご機嫌になった。
僕も何となく察した。これは、あれだ。マウントを取っているのか。どっちの立場が上か、ペットに対して主従関係を教え込んでいるのだろう。御主人様の言うことをしっかり守るように。
そんな、弱みなんて握らなくても……分かってる。クリムの方が上だって。未だに頭が上がらない。迷惑掛けてばかりだけど。我がままも多いけど。忠誠だけは誓っている。ただ、それを行動で示せと言われても……難しいんだよなぁ。
少なくとも、公共の場でお手とか、お座りとかは勘弁して欲しい。
「全くぅ。ちょーっとチヤホヤされたからって、調子に乗っちゃあ、メッ! ですよぉ~。だって、ミキサちゃんですからねぇ?」
「どういう意味?」
「私、言ったじゃないですかぁ。ミキサちゃんは相変わらずって。つまりですねぇ……昔から男を見る目がないんです」
「どういう意味!?」
とても意味深な言葉である。
ただ、冷静に考えてみると。個人の偏見がガンガンに入った考察で申し訳ないが。
ミキサって、仕事はできるけど、ダメな男を甘やかしそうな感じがする! ひたすらに盲目で一直線だから!
そして、気付いた。この世界で、僕はダメ男の筆頭じゃないか――!!
分からない。果たして、一般的に僕はイケメンで通じるのか……分からなくなってきたぞ……。いや、恐らく通じないんだろうな。現実はそんなに甘くない。
「ほらぁ! 分かったら、とっとと行きますよぉ~」
「分かったら? えっ、自分の立場を理解したらってこと? 行くって、どこへ?」
「そんなの、晩ごはんに決まってるじゃないですかぁ」
「……早くない?」
もうそんな時間? 無事に家へ帰ってから、まだ一時間も経ってないのに。
いや、時間帯としては晩ごはんでもおかしくない。外は真っ暗だし。
ただ……ずっと食べてばっかりな気がする! ビストロ・メシマズのお昼ごはんに始まり、芋やら、キャンディやら、温泉卵やら、各種屋台の食べ物。街へお出掛けしただけなのに、なかなか食べてるよ。
からの、晩ごはん。
「まぁ、僕は食べれるけど……クリムは大丈夫なの? お腹一杯じゃない?」
「私を舐めちゃダメですよぉ~!」
「舐めてない、舐めてない。何に対抗心を燃やしてるの?」
「いいからぁ。早く、早くぅ~」
クリムの勢いに気圧されながら、僕は足早にリビングへと向かった。
☠
どうしてクリムが浮き足立っていたのか。理解するまで、それほどの時間は要さなかった。
僕は思わず固まった。身体を石に変えられたかのように、その場で立ち尽くす。
テーブルに並んだ豪勢な料理を目の前にして。
「なっ!? きっ、昨日の晩ごはんの比じゃない――!! えええええっ!? スゴッ! うわああぁ……テーブルの上が、輝いて見える……!!」
「どーですかっ! 見ましたかぁ! これがおかーさんの本気ですよっ!」
いや、なんでクリムがドヤ顔するの! そんなツッコミすらも、忘れ去ってしまうほどの驚愕。
なんてこった……四品どころの騒ぎではない。えっ、何種類作っちゃったの!? しかも、その全てが――美しく盛り付けられている。どれも手を抜いてない。一目で分かる。
もしも、一流の料理店でこれが出されたならば。
露ほども疑わないだろう。そんなレベル。
「うふふっ。お褒め頂きありがとうございます。今日は少しだけ、頑張って作っちゃいましたっ!」
「あっ、カスタさん! こちらこそ! もう、感謝感激っ! 嬉しみの極致――!! この気持ちは、言葉だけじゃ言い表せない! 本当に……えっ、一人で全部作られたんですか!?」
「はい。勿論ですよ。残念ながら、デザートまでは手が回りませんでしたが。ちょっと疲れ気味でして。申し訳ありません」
「十分ですっ! 十分過ぎますっ! 僕のために、ありがとうございます! ああっ! 急にお腹が空いてきた……本能レベルで食欲が刺激される……!! ジュルッ……もう、辛抱ならんっ……!!」
人は大好物を目の前に出されると、猛烈な勢いでお腹が空いてしまうのだ。逆に満腹であっても、食べれる余裕が生まれてしまう。所謂、「別腹」である。これは断じて気のせいではない。別腹の存在は、科学的にも立証されている。
つまり! 食べる前から確信した! これは僕の大好物ッ!!
否、全人類の大好物! もとい、全エルフの大好物! 真心の込められた、母親の手料理。
一日掛けて、丹精込めて調理したのだろう。昨日は大変申し訳なかったが、突然押しかけて晩ごはんを頂いてしまった。
しかし、今日は違う。最初から分かっていた。時間的な余裕もあった。いや、それどころか……思い返せば、朝から仕込みをしていた! 昨日の夜のうちに献立を考え、翌朝早くに下準備を始め、日中をフル活用して丁寧に次々と料理を完成させていく。
目を閉じれば、その様子がありありと浮かぶ。
まさに、愛情が具現化した料理――!!
「うえっ? おかーさん、疲れちゃったのぉ? お肩を叩いてあげようか?」
「違うわよ。そうじゃなくて、久々に魔法なんて使っちゃったから」
魔法……? 僕には一つ、思い当たる節があった。
物凄い勢いの水流。あんなのをノーリスクで撃てるなんて……考えが甘かった!
「あああっ! 今朝の……!! ごめんなさいっ! 僕のせいで!」
「いいえ。そんなに深刻な話ではありません。魔力の源は気力。普段は使っていないのに、急に強い魔法なんて撃ったら……誰だって疲れちゃいます。でも、ご安心を。しっかりご飯を食べて、一眠りすれば、すぐ回復しちゃいますから!」
「でっ、でしたら、良いのですが……」
「それに、私たちはエルフです。ご存知かもしれませんが、一般的な人間よりも、魔力の素養が高い種族なんですよ? むしろ、疲れるだけで済む。これもエルフの特権ですかね」
「そうなんですか! へぇー、知らなかったぁ」
エルフは人間よりも魔法が得意なのか。ただ、乱発すると気力に影響を及ぼすから、兵士は基本的に弓矢を愛用していると。なるほど。色々と奥深い。
そして、普段から魔法を使っていない。言い換えれば、魔法を使う必要に迫られないほど、平和な世界なのだろう。道理で威力の調整ができていないと思ったら……納得した。
「ねぇ~! 早く食べよぉ~?」
「あっ、食べる! 僕も食べる!」
「うふふっ。そんなに急がなくでも、お料理は逃げませんよ?」
すぐさま、三人で食卓を囲む。
僕も、クリムも、食べる前から笑顔が零れ出す。
皿やボウルや小鉢に、これでもか! と、料理が盛られている。
前菜に、スープに、サラダに、パンに、魚料理。その他にも、なんと表現したら良いのだろう……色鮮やかな具材を挟み込んだサンドウィッチ、芳醇な香りの摩訶不思議な燻製、香草の入り混じったポテトサラダ、卵でクルッと野菜を巻いた一口オムレツ、一粒一粒がパラッパラのチャーハン、メンマのようなおつまみ……。
中でも特に目を引くのは、テーブル中央に置かれた土鍋。
その下には鍋敷きでなく、四角い石造りの容器が。
まだ鍋のフタは開いてない。確実に、今日のメインディッシュ。
「では、仕上げといきましょう。危ないから下がってください」
「へっ?」
直後、カスタが何かを呟き始めた。
ん? この感じ、聞き覚えがあるぞ……?
彼女は鍋の下に向けて、人差し指を構え――
「火炎魔法・チリ・ペッパー!」
ポワッ。可愛らしい小さな炎が飛び出した。
そのまま、容器内の蝋燭に着火したのか。パチパチと弾けて燃え上がる。炎が土鍋を温めている。
あっ、これ見たことある! 旅館の食事で、小さな鍋を温める奴だ! ほら、青い蝋燭が中に入った! 妙なところでテンションが上がってしまった。いや、そこじゃないだろ。
魔法――!! これが! 本当に魔法だ! 初めて見たぁ!!
「うふふっ。成功です。たまには弱い魔法を使って、身体を慣らしておくのも大事ですからね」
「スゴッ……火が出たよ、火が……カッコイイ……」
「おおっ。やっぱり魔法って便利ですよねぇ」
「えっ? クリムは使えないの?」
「うーん……使えたらいいんですけどぉ……」
「グルメさん。残念ながら、クリムは――」
カスタはそっと目を伏せ、悲しげに首を横に振った。
例え、エルフは魔力の素養が高くても――全員が魔法を扱える訳ではないのか。それも当然だろう。誰にだって、得手不得手はある。
あぁ、失敗した。もっと発言に気遣うべきだった。
「もぉー! 二人とも、どーしたんですかぁ! 魔法が使えなくても、火ぐらい作れますっ! それにグルメさんだって、どうせ魔法なんて使えないんでしょう?」
「あっ、確かに――!!」
人の心配をする前に! 自分の心配をするべき!
だって、今のところ役に立つ能力の一つも持ってないよ!!
「はぁ……ダメダメですねぇ~グルメさんは」
「ぐうの音も出ない」
「うえっ? お腹が空いてないんですかぁ?」
「違う違うっ! そういう意味じゃないから!!」
「うふふっ。では、落ち着いたところで、食べませんか?」
「はいっ!」
「今日こそ美味しいと言わせてみせましょう!」
みんなで揃って、いただきます。
からの、鍋がオープン!
「ぬおおおおっ! 湯気が――!! 濃密な旨み成分のガッツリ詰まった湯気が! はぁ、濃厚っ……!! 深い味わいのある……炒めたニンニクのようなぁ……!!」
ヤバイ。これは、ヤバイ。解き放たれた湯気にノックアウトされた。まだ、姿も見えないのに。あっ、確信。大好物を超えた。これは、超好物っ!!
白い靄の中から顕現したのは! グツグツと煮え滾る、透明なスープに浅く浸された――餃子? いや、小籠包?
つまり、そういうことだ。
まんじゅうよろしく、白いモチモチの皮に包まれた料理! 半端ない! 見るからに弾力感が半端ない! 一体、中には何が詰まっているのかァ!? 夢が、夢が膨らむ――!!
美味かろう! もう間違いなく! 美味かろう! (字余り)
「あ、あああ……ぁ……」
「おーい。もしもーし。大丈夫ですかぁ?」
「……僕、これ、好き」
「うえっ!? グルメさんが壊れちゃったぁ~!?」
涙が溢れ出す。料理でこんなに感動するなんて。この世界に来る前の僕に伝えたら、きっとこう答えたはず。「は?」って。
それほど、常識が覆る。
何者なんだ……クリムの母親は、何者なんだ!?
「……何者……何者」
「あぁ、グルメさんは知らないんですねぇ。私のおかーさんは、お料理屋さんで働いてたんですよっ! ね?」
「ええ。もう昔のことですが。とある老舗の料理長まで務めていました」
「えっ!? じゃあ、A級に引き抜きの話とか……」
「あら、よくご存知で。残念ながら、それは丁重にお断りさせて頂きました。この辺りの方が、住み良いですから」
灯台下暗し――!!
この言葉を! 今日ほど思い知ったことはないっ!
お店の歴史が長くて、そこのトップに君臨して、上からもお声が掛かった一流の料理人っ! こんなところにいたぁ!!
「あっ、あがががが……」
「不思議ですねぇ。今回はお料理を食べる前からリアクションがありますよぉ~。もう、待ちませんからね? では早速、お一つ~♪ はむぅ。お、おおお……美味しいいいいいいいいぃ!!」
そんなに美味しいの!? クリムがそんなリアクションするほど美味しいの!?
「僕も、食べりゅ……」
「うえっ? 私が取るんですかぁ? 仕方ないですねぇ~。はい、どーぞっ」
「あ、ありがとう……この、料理は……」
「実はですね。これはおかーさんのオリジナル料理だから、名前はないんですよぉ。なので、私が名付けましたっ!」
「おおう……」
「その名も、メシウマです!」
「メシウマ……」
多分、美味い飯だからメシウマって、安直な名前を付けたんだろうけど。
現代社会でメシウマは、ちょっと別の意味が含まれる! 人の不幸は蜜の味みたいな! まぁ、この世界じゃ関係ないか。
語彙力が崩壊するほどの衝撃を受けながら――実食。
初めてのメシウマ。
大きめのスプーンで、一つ丸ごと掬う。ギリギリ収まるサイズ。汁を含んで膨らんだ表面。僕の手の動きに連動して揺れる。あっ、揺らし過ぎた。自重に耐え切れず、モニョリと変形する。
パクッと割れた厚い皮の中から――刺激的な薫りが迸った。
溢れる。肉汁が溢れる。いや、肉じゃないが、肉汁。
ぎゅうぎゅう詰めにされていたのは、よくよく混ざり合った具材。均等に潰された芋に、ニラみたいな香草、溶いた卵、各種スパイス、あぁ……もう僕には分からない。ただ、これだけは言える。
こちらが料理界の革命児です。生まれながらにして、エリート料理。
昨日のカレーとは、また違ったベクトルでスパイスが効いている。やはり、香辛料の達人。間違いなく。今までに、どれだけのエルフを虜にしてきたのか。考えるだけで、恐るべし。
大口を開ける。まだ、理性が残っているうちに。楽しまなければ。極上の喜びに、舌鼓を打たねば。
神よ、この料理が食べれることに、感謝します。
――はぁむ
………
……
…
「ビャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァ!? うばああぁ!! ベッシ! ほおおぉ……ヌグッ! うっ、うまっ……美味くないっ!! マズッ! まずまず不味いッ!! 惜しい! かなり良い線いってた! 中盤まで3-0で美味さが勝ってたのに! 3-112で逆転負けしたァ――!! なんちゅう根性ある不味さっ!! 後半に怒涛の追い上げ! 美味さを完膚なきまでに叩き潰す! 怖ろしいほどのえぐみ――!! キッツゥ! もうえぇ……混ぜるな危険っ!! があっ、顎がガクガクし始めた! 冷や汗が止まらないっ! はっ、はあっ……この不味さ……後から来るぞォ!! だがっ! 途中までは不味くなかった! 食感も悪くないと思ったのに! 今じゃ何が良かったのかすら思い出せねえ!! 一体いつから! 美味いと錯覚していたァ――!? ばろォ……」
が、ダメッ……!! こんなに美味そうなのに、ダメッ……!!
「うっそぉ……何が、何が問題なんだぁ……食材か? やっぱり食材がダメなのかぁ……!?」
「むむむぅ~。もう一押しでしたねぇ。じゃあ、グルメさんはもうメシウマ食べませんね?」
「食べるっ! ちょっと美味かった! 途中までは! だが、今となっては全てが不味いっ! あの美味さは幻だったのか!? 否、確かにそこにあった――!!」
一方、カスタは神妙な面持ちで、僕を眺めている。美味いのか不味いのか、よく分からない評価を下されたのだから。いや、最終的に行き着いたのは不味い。終わり不味ければ全て不味し。
「……えっと、とりあえず美味しいとは言わせた……のでしょうか?」
「もちろんですっ! だって、僕が呪いに掛かってから美味いと感じたのは、初めてですから! 途中までだけど! そう、着実に進歩してる! 徐々に美味さへと近付いている! このまま進めば――いつか美味いものに巡り会える! そう感じる不味さでした! じゃなくて、美味さでした!!」
美味い可能性を孕んだ不味さ。ふぅん。そういう不味さもあるのか。勉強になった。この世界は、まだまだ奥深い。
その後も、順番に端から食べてみたけど、一番美味かったのはメシウマでした。名は体を表す。いや、不味いから表してないのか……?
こうして、異世界生活3日目にして、僕の一番長い一日が終わった。
今日も食べた食べた。懲りずに不味いものばかり食べた。なーんで一気に食べちゃうかなぁ? その場の雰囲気に流されやすいのか。食べる直前までは、確かに美味いと思ってるんだけど。
はぁ……そろそろ、ちゃんとした美味いものが食べたいよぉ……。
例えば、王族から直々にお食事会へ招待されるとか……ははっ。そんなこと、ある訳ないか。さすがに夢を見過ぎ。ただ、夢を見るだけなら自由だから――
☠
メシマズの村のとある地区にて。
何人たりとも無用の者の侵入を許さぬ、高い高い壁が存在した。
言うなれば、自然の砦。岩壁ではない。樹である。
村の中央に聳え立つ巨大樹。その上に、彼らは居た。
最も天空に近き住処。なれば、住まう者が神に次いで崇められるもまた然り。
「はっ、早う……早う、お伝えせねば……」
薄暗い廊下を駆ける、一人の老婆。紺のローブに身を包み、杖を突いては先を急ぐ。果たして、どれだけの悠久なる年月を過ごしてきたのか。一介の人間には、想像もできぬだろう。
老婆は妖しげな広間へ転がり込むや否や、皺がれた声で叫んだ。
「レンゲ殿! レンゲ殿は居られるか!?」
「なんじゃ。ババ様か。斯様に急いで、どうされたのじゃ」
レンゲと呼ばれたエルフは――絹のように滑らかな衣装を纏い、堂々たる立ち振る舞いを演じ、端正な顔立ちにあどけなさを残した金色の髪の少女は。
見目とは裏腹に老人めいた言葉遣いで、実に退屈そうに返答してみせた。
「お告げにございまする……御神からのお告げを賜りて……」
「良かろう。話すのじゃ」
「おぉ……女神様は囁いておられる……淑やかに、密やかに……『神の舌を持つ者 心優しき者と この世の闇を払わん』と……」
その言葉を耳にして、少女は険しい表情を見せる。
数秒後、意を決したのか。ゆっくりと重い口を開いた。
「……それ、一昨日も聞いたのじゃ」
「なんと!?」
「……そもそも、週に2、3度は言っておらぬか?」
「はて、そうでしたかのぅ……?」
果たして、一体何を深刻に受け止めていたのか。
相談役であるババ様の、ボケが進行していること――!!
これには、彼女もほとほと困っていた。数日おきに駆け込まれては、溜まったものではない。ただ、最近は余りにも退屈であるが故に、毎回ババ様の相手をしてあげているのだ。今日こそは、別の話が聞けるのではないかと期待半分で。
「それにじゃな。この世の闇と言われども……世界は至って平和そのものじゃ」
「お言葉ですが、国同士の戦火は今も猶――」
「戦争はとっくに終わったのじゃ」
「世界を牛耳る邪悪の権化たる――」
「魔王は滅んで久しい」
「我らが村を隷従せしめんとす悪鬼共――」
「既に支配から解放されておるじゃろ」
「ぐぬぬ……」
「この世の闇とはなんじゃ? わらわの元まで聞き及びしは、他国の民衆が暴動を起こした、どこぞの地域が不作である、謎の盗賊団より襲来を受けた。以上。この世の闇と称するには、逆にいささか心許ない」
本当に御神のお告げであるのか。彼女もさっぱり分からない。かつての大予言者たる面影は、今の老婆に見当たらなかった。
やはり、ボケてしまったのか……?
直後、新たなる人物が広間に駆け込む。
「レンゲ様、お時間よろしいでしょうか。少々、お耳に入れておきたいことが」
「む、御主か。構わぬぞ」
「はうっ! 兵団長殿! 探しておったぞ! 重大なお告げが……」
「はいはい。闇を払うんですね。昨日もお聞きしました」
「なんと!?」
厳格な風貌の騎士が、一人の少女の前に跪く。何とも奇妙な光景である。
「して、それは大事であるか?」
「いええ。全く以って」
「では、面白き事であるか?」
「どちらかと言えば。この村に、一人の人間が紛れ込んだと」
「ほぅ……人間じゃと? つまり、耳が尖っておらぬ奴じゃな?」
「はっ。確かな情報筋です。とある街では、人間の話題で持ち切りとなっております。余りにも平和で、他の話題に乏しいが故に」
「なるほど、なるほど。実に興味深い話じゃ」
「接触した警邏部隊の一報によれば、戦闘能力ゼロの聞き分けの良い人畜無害。無理に追い出すほどではないかと。全ての発端は、B級エリアの端に住まうクリムというエルフが拾って――」
「待つのじゃ!」
物凄い剣幕で、彼女は叫んだ。
兵団長も異変を察知する。どこか気に障る発言でもあったのだろうか。
「……追い出しますか?」
「否。そちは今、クリムと申したのか……?」
「えっ……? はっ。そのように報告を受けております」
「そうか、そうか。気にするでない。別に何でもないのじゃ」
少女は独りでに呟き、過ぎ去りし日を懐かしむ。これは何たる因果か。
この時、人知れず運命の歯車が動き出していた。




