確かにそこにいた、と
体中に衝撃が走った。
強くつむった目には何も映らず、ただ自分が小さく縮こまっていて、何かに覆われている感覚だけが伝わってくる。
埃の匂いにゆっくりと瞼を開けば、黒と金の装飾が再び視界を覆っていた。
「白石さん!!」
顔を上げると、先ほどまで隣にいた人物のあごが見える。
左肩を強く捕まれ、ようやく私は白石さんの足の間で庇われていることに気がついた。
私の声に返事はない。
ただ意識はあるようだ。何も言わず正面を見つめている。
その視線の先に振り返れば、黒いモヤの塊が浮いていた。
どうやら私たちは永遠続いていた廊下から脱出したらしい。
白石さんの腕の隙間から向こうを覗けば、洗い物がそのままの台所と4人掛けのダイニングテーブルが見える。
反対側にはイグサの上で畳まれるのを待ち続ける洗濯物や、おもちゃを無理矢理詰め込んだカラーボックス。
『承認』の文字も含めて、何も変わっていない、が。
私たちの背後のカラーボックスは凹み、一部が木片となって散らばっている。
その中に入っていたのだろう積み木は散らばり、埃で汚れている。
おそらく壁に激突する形で脱出してきたようだった。
白石さんが埃を被っているのを考えると、私を抱えた後に防護壁の符術を発動し、そのまま突っ込んだんだろう。
そして黒いモヤと対峙し数分……といったところだろうか。
「すぐに目覚めてよかった」
「はい、申し訳ございません」
「怪我はないね?」
「はい」
白石さんは黒いモヤから目を離さず無機質に声を発した。
ピリピリした空気が肌を刺し、私は小さくなったまま動けず頭だけを動かして縁を探す。
「このモヤは……縁が視えます。最初の幻影で視たものと同じです」
「なるほどな」
「あの、今関さんとの電話は……」
「あの通りだ」
どの通りだろう。と思ってから傍らにいる割れた機器を見つけてすべてを察するまで、そうかからなかった。
「……君は、この家に入ってからずっと俺たちを見ていたな?」
返事はない。
白石さんははっとして咳払いした。
「こんにちは。君は、ここに住んでいるのかな?」
モヤは右回りに回転しているようだった。
小さな砂のようなものが球体を守るように周辺を回っていて、膨れたり、しぼんだり、呼吸をしているような動きをしている。
白石さんの言葉には反応しなかった。
「お名前は?」
モヤは無言だ。声に対して取り巻きの砂が散らばるものの、すぐに球体に戻るだけで反応もない。
縁を視るに、おそらくこのモヤこそ怨霊そのもののはず。
声も聞こえているはずなのに。
「反応がないですね」
「そうだな、彼に何か反応を促せないだろうか」
怨霊。
この裏の世界では、高校生まで受ける必須教科の1つに「道徳」がある。人の心や思いやりを学ぶだけでなく、命を守るために『出会ったら必ず逃げなければいけない』3つの危険現象を学ぶ。
そのうちの1つが『怨霊』だ。残りは符術の暴発と魔物。
人や動物などの知能が高い生物で稀に発生する妖異の1つで、強い想いを残して身体を失った存在が転化すると言われている。
呪いをまき散らして歩いているような存在ゆえに、出会って触れでもすればまず助からないし、特殊な技術を持つ者、つまり陰陽師や霊媒師でないと追い払えない。
今まで何万人もの人々を死に至らしめた歴史から、その恐ろしさは必須授業となって語り継がれている。
つまり、私たちは今、死に直面しているといっても過言ではないということだ。
白石さんはすでに緊急事態を宣告した。
祓うことができる人々が来るまで、私たちで切り抜けなければいけない。
「彼が興味を持ちそうなこと……」
この怨霊が清水家にいたもうひとりの子供とすれば、声からしておそらく男の子だ。
そして双子のようだったから、精神年齢はかなり幼い。
おもちゃを見せたら興味を引くだろうか、ただ、声は聞こえているようだけど目が見えているかはわからない。
ぐるぐる考えていると、ふと部屋の違和感の原因が目に入った。
承認、という文字に。
「私が話しかけてもいいですか?」
「ああ、もちろんだ」
「こんにちは、君は、ここに住んでいるんでしょう?」
モヤが一瞬大きくなり、また縮む。
私は体制を変えてモヤと向き合う形で声をかけてみる。
「おもちゃ、たくさん持ってるんだね。たくさん遊べていいね」
「お気に入りのおもちゃはある?教えてくれたらうれしいな」
反応は変わらずない、でも、声をかけて損はないはずだ。
「君は、ちゃんとここに住んでいた。お母さんと遊離くんと3人で」
再びモヤが大きくなった。
喉がびりっと痛みを走らせた。
「いや、違う。今もここに住んでいるのよね?
『あの日』の後も、ずっと」
自分の喉を掴む。思えばさっきから違和感があることに気がついた。
身体にため込む符術の力を封じているはずなのに、口を開けば開くほど、なんだか隙間から漏れているような、抜き取られているような。
「教えてくれないかな?君があの日、何があったのか」
アアアア……アアァアアァアアアァアアア……
子供の声が聞こえる。
モヤの奥から反響してくるような声にぞわりと背筋が震えていると、白石さんが私の後ろで膝を立てる体制になった。
肩を掴む手の力は緩まらない。何かあったときに私を庇うか突き飛ばすつもりなんだろう。
「あえて刺激したのか?」
「すみません、でも、聞くべきだと思ったんです。縁の色も暗くないですし」
「……はあ、まったく。部下なら叱り飛ばしていたぞ」
「申し訳ございません……」
「ああ、それよりモヤを見ろ。何かが見えそうだ」
「え」
白石さんを映していた視界を再びモヤへ向ける。
苦しむ子供の声が大きくなるにつれ、モヤも広がっていき、煤のような粉を散らしながら回転を強めていく。
中央から光が見えたと思えば、扉を開けた先のように幻影が姿を現した。
『なんなんだよこれは!!』
最初に聞こえてきたのは怒号だった。
場所は私たちのいる清水家のリビングで間違いないようだが、男性と女性が立ち上がって口論している場面に見える。
声を荒げたのは男性のようだ。紺色でしっかりしたスーツを身にまとっているが、シャツのボタンは2つ外れて皺だらけになっている。
髪の乱れも酷い、口論を始めてしばらく経っているようだった。
『わたしにも……わからないわよ……っ!』
一方女性もセミロングの茶色い髪を振り乱して首を振った。
額から脂汗が流れていくのが見える。2人とも異常な状況に置かれていることはよくわかる。
『わからないだと!?』
「吉川さん、見ろ」
頭上から白石さんが小さい声で言った。
視線を追った先は和室、リビングと繋がる壁に隠れて誰かがいるようだ。
上を向いた子供の白い手と、その先にあるひっくり返った車のおもちゃ。
まさか、思わず息をのんだ。
『じゃあなんで、遊太が死んでるんだよ!!』
頭が真っ白になった。
会話だけが耳を通して頭に入ってくる。
『わからないわよ!気づいたら動かなくなってて!』
『どうせお前がまた殴ったんだろ!?』
『はあ!?わたしがそんなことするわけないじゃない!』
『バカ言え!この前、遊離に痣があったの知らないとでも思ったか!?』
『なっ。でも今回は本当に何もしてないわよ!!』
これだけの大声で話をしているのに、和室に見える白い手はぴくりとも動かない。
掴まれている肩を、とん、と叩かれてようやく私は息を吸った。
『……遊離と遊んでたら急に廊下から音が聞こえて、見たら遊太が階段から落ちてたのよ。
聞いても大丈夫だって言うから、それより新聞が読みたいって言うから、漢字の意味を教えろって言うから』
女性、清水家の母親の足元に新聞がある。
幻影だからか文字は読めないが、大見出しの「承認」だけははっきりと見えていた。
『教えた後に、昼ご飯の準備をしてたのよ。声をかけても返事がなかったから、様子を見に行ったら、遊太が……』
『……隠すぞ』
『え?』
『ここで病院に連れて行ったらお前は虐待がバレるし、俺は親父に追い出されて政界にいられなくなる。互いにいいことないだろ』
『何言ってるの!?どのみちバレるじゃない!』
『バレねえよ!!俺が何とかする、さっさと埋めるぞ』
『な……そんな……本当にやる気?』
『押し入れ、床板外したら地面だったよな?』
『あ……そんな……そんな……わたし……』
幻影が煤に浸食されていく。声が消えていく。
白い手は力ないまま、黒い煙に埋もれていく。
アアアア……アアァアアァアアアァアアア……
アアアア……アアァアアァアアアァアアア……
子供の声が響く。同じ声なのに、違う思いが伝わってくる。
縁の色がわずかに明るくなった。
この嘆き、怨霊となってしまった強い思い。
『承認』の言葉の本当の意味は。
「あなたは、見つけてほしかったのね。ここで確かに生きていたことをわかってほしかったのね」
背後から布が擦り切れる音がした。
覆いかぶさっていた体温が離れ、私は床に座り込む。
白石さんが立ち上がり、一歩、一歩と和室へ歩んでいった。
モヤはなにも発せず、ただ黙ってそこにいる。
ほんの数歩だった。
6畳の和室の奥、黄ばんだふすまの前で白石さんは立ち止まった。
調べる前に怨霊に襲われてしまった唯一の場所。
私たちが探していたのは近くにあったんだ。
私もちゃんと一緒にみつけよう。
立ち上がろうとした気配を感じたのか、白石さんの声が飛んできた。
「君はそこにいなさい」
「え、でも」
「私は特殊警察局の人間、捜査の手が及ばなかった私の責任だ。
それに、君はこれ以上視なくて良いんだよ」
私の返事も聞かず、白石さんはふすまに手をかけた。
「ああ、ようやく会えたね。こんにちは、遊太くん」
アアアア……アアァアアァアアアァアアア……
アリ……アアアア……アアアア……
モヤに纏っていた煤が霧散していく。
まるで力尽きたように、安堵したように、散っていく。
先ほどまで恐ろしい存在だったのにどうしてこうも寂しく感じるのだろう。
手を伸ばした指先にすら触れることなく、あの子は消えていなくなってしまった。
「……終わったな。
じきに除霊部隊が来るだろう。警察局で遊太くんを引き取ってしっかりと弔おう」
「はい、その時は私も参加……」
「まずは一度家を出よう、外にもう皆が集まっているはず。無事だけでも伝えないとな」
「…………」
「雫に迷惑をかけてしまった。怒られそうだ」
「…………」
「ん?吉川さん、どうし……おい……吉川!吉川!!」
「反応してくれ、吉川!くそっ、救護班!!」
「この魔力の漏洩と血……なんて量だ……急にどうしてこんなに」
「ああ、そうか、そうか、そうだったのか」
―――――頼……生き……君は……




