02 都住夏織、ご機嫌です
〜〜1番線に通勤快速東京行きが入ります。危ないので白線より下がってお待ちください〜〜
少しだけ開けた窓の隙間から網戸の目をぬって、機械的なチャイムと抑揚を抑えた男性のアナウンスが聞こえて来る。
壁に掛けてある時計の針は長針も短針も頂上にたどり着く寸前であり、早朝からずっと窓の隙間から聞こえていたはずなのだが、ベッドに横たわっていた女性はやっと……それをうるさいと認識して夢から醒めた。
ここは都心に極めて近い某県某市。さすがに首都圏と言う事もあり駅前周辺の喧騒は一瞬たりとも落ち着く事が無く、絶えず車のエンジン音や駅のアナウンス、行き交う人々の靴音が混ざり合い、一つの生活音として当たり前のように人々の鼓膜をくすぐっている。
それらの生活音がより一層賑やかに聞こえてくる昼時なのに、下着一枚にぶかぶかのTシャツを着ただけの女性は、もうこんな時間かと呟きながらもっそりと起き上がり、あられもない格好のまま寝室からダイニングへ。ボリボリとお腹をかきながら冷蔵庫の中を物色し缶ビールを取り出すと、ためらわずにプシュっとそれを開けて一気に飲み干してしまったではないか。
「くあああっ! ……この背徳感がたまらん」
爽快感を前面に押し出しながら次はリビングに足を向け、ソファにドスンと可愛いお尻を埋めながらリモコンのスイッチを手にする。
テレビを点けるとすでに正午のニュースが放送されており、女性は何の感慨も無くそれをボンヤリと眺めながら、生あくびを二つ三つ重ねて無為な時間を重ねていると、ビールの炭酸がお腹を刺激したのか空っぽの胃がぐうぐうと主に空腹を抗議し始めたのだ。
「あっ、しくじった。サッポロ一番の在庫がゼロだった」
さすがにだらしない生活をしていても腹は減る。何か口にしようと思案を巡らせたのだが、ちょうど買い物の谷間にあった事に気付いたのか、家探ししても無駄だとばかりに立ち上がり、いそいそとカーゴパンツを履いてTシャツはそのままにヨットパーカーを羽織り、長い金髪を後ろに縛って部屋の外へ。「だるい、だるい、歩きたくない」と独り呟きながらタワーマンションのエレベーターに乗って地上階を目指した。
関東圏のゴールデンウィークは既に暑い
季節柄少雨で日照時間が長いのも要因にはあるが、街がその熱を吸収したまま冷め難い都市型熱波となり、直射日光だけでなく建物や道路自体も熱を放つものだから、とてもじゃないがお世辞にも快適な環境とは言えないのだ。
タワーマンションの入り口から出て来たこの女性も、晴れ渡った空と輝く太陽そして様々な建物を起点として乱反射して来る太陽光にぐったりしながら、道路を渡って商店街へ。そして一切の迷い無くアーケード通りの入り口にある個人経営の立ち食いソバ屋へと入った。
「おう、夏織ちゃんいらっしゃい! 」
「夏織ちゃんいらっしゃい」
「ども」
年老いた店主と同じく年老いたおかみさんが二人三脚で営んで来た立ち食いソバ屋。その二人から夏織と呼ばれた女性は、眠そうな顔を隠しながら笑顔で挨拶を返しつつ券売機へ。天ぷらソバとおにぎり(こんぶ)と生ビール(中)のチケットを購入してカウンターへと赴く。
「あいよ、いつものね」
時間はちょうど昼時で普段ならサラリーマンでごった返しているのだが、さすがにゴールデンウィークともなれば客足はまばら。いつもなら疲労から笑顔もひきつっているおかみさんも、夏織に穏やかな笑顔を投げ掛けて来る。
「はい、お先にビールとおにぎりね。夏織ちゃんまた夜更かししたの? お顔がカサカサよ」
「ちょっと仕事が片付かなくて……朝までかかっちゃった」
先程自室で缶ビールを飲み干したにもかかわらず、ジョッキのビールを美味そうに半分飲み、そしておにぎりにかじりつく夏織。さすがにこの歳で朝方までゲームをやっていたとは言えないらしい。
「はいよ、天ぷらソバお待ちどう」
信じられないほどの大口を開けて、あっという間におにぎりを食べ切ると同時に、天ぷらソバが目の前に出て来た。
出来立てほやほやの天ぷらソバに七味唐辛子をこれでもかとかけて食べ始めるのだがこれが早い早い。
一口目のソバをズズッとすする間に、右手の箸は既に新たなソバを持ち上げて空気に晒している。それをふうふうと勢いよく吹いて口の中に。すると箸は新たなソバを持ち上げて……この繰り返しで瞬く間にソバは終わり、かき揚げとツユだけが残る様になってしまったのだ。
あまりの速さにギョっとする周囲の若者たちを尻目に、夏織は仕上げとばかりに崩れたかき揚げとツユを飲み干して完食。半分残していたビールをゴクリゴクリと豪快に飲み切ったのである。
「いつも思うけど惚れ惚れする食べっぷりね」
「本物の江戸っ子以上に江戸っ子みたいだな、がはは! 」
痛快だと笑う店主とおかみさんに笑顔で「ご馳走さま」と礼を言って天外へ。夏織はその足で隣のスーパーへと入って行った。
ーー極力外に出ないで部屋で過ごすーー
夏織はそういうライフスタイルで日々を送っているとするならば、今日は久々の外出である事が伺えるし、スーパーでの買い物は籠城でもするのではと勘違いしてしまいそうなくらい大量になるはず。
やはり予想通り、しばらくしてスーパーから出て来た夏織は、右腕に一つ、左腕に一つとスーパーの大きな買い物袋をぶら下げ、両手で大きな段ボールを抱えていた。
「大漁大漁、今日の夕飯は鍋ラーメンでも作るか」
ホクホク顔でタワーマンションに戻り、器用に指だけ使って暗証番号付きホールからエレベーターへ。そして自分の部屋へと戻って来た。
「ふあああ……! 食うもの食ったし飲むもの飲んだし、夕方まで昼寝でもするか」
外行きのカーゴパンツとヨットパーカーを脱ぎ、再びあられもないを通り越してだらしない格好に。買って来たばかりのペットボトルのお茶を飲みながらリビングのソファーに腰を埋めると、テーブルの上で彼女のスマートフォンが暴れている事に気付く。
「うん? 」
夕方までの睡眠が約束されていたのに、この時間帯に珍しく着信、、、
怪訝な表情でスマートフォンの画面を見ると、「着信 警察庁岸田のおっさん」と表示されているではないか。
仕事かなと呟いた夏織、そのまま通話をタッチして耳に当てると『やっと繋がったよう! 』と安堵を含んだオーバーリアクションの声が盛大に鼓膜を殴り付けて来たのだ。
「あ〜どもども、ご無沙汰してます都住です」
『都住君困るよう、僕朝から電話してるのに全然出てくれないんだもん』
出る訳ねえじゃねえか、あたしゃその時間に寝たんだからよーーと喉までこのセリフが出かかっていたのだがさすがにこれは言えない。
夏織の趣味で集めたのか、壁に掛けて飾られているアサルトライフルや軍用拳銃のエアガンをウットリと眺めながら、体調崩して寝込んでおり今着信に気付いたのだとサラリと言ってのける。
『それでね、都住君に仕事の依頼なんだけど良いかな? 』
「今日はちょっと体調が悪いもんでアレですが、基本的に仕事の依頼はウェルカムですよ」
『そっか、今日はダメかあ……』
「どうしました? 火急の要件ですか? 」
『それがね、静岡県警の偉い人たちがたまたま本庁に来ててさ、二件ばかり【そっち】の相談をしたいんだって』
「なるほど、私の領分の相談ですか。ちなみに……その案件は捜査特別報奨金が出るやつですか? 」
『未解決の殺人事件じゃないからなあ、多分志とか謝礼の範囲だと思うよ』
「ゴホンゴホン! 熱がぶり返してきたみたい……岸田さん、今日はこれにて……」
『あああ! 待って待ってえ! 』
まるで漫才のようなやり取りが続くのだが、夏織の通話の相手である「警察庁の岸田」なる人物は、千代田区に本拠を構える全国警察組織の頂点、警察庁の生活安全部に所属するキャリア組の人物である。
この岸田氏こそが、夏織のお役目と全国の警察から上がって来る未解決事件を繋げるべき窓口役なのだが、この二人の会話を聞いているとどちらがクライアントなのか分からなくなってしまうほど喜劇的な内容である。
『都住君、都住君! 静岡県警から来た方々の中に、将来有望なイケメンいるよ、キャリア組だよ! 』
「いくら将来有望でも、岸田さんみたいに出世レースに外れたら終わりじゃないですか」
『身もふたもない事を言わないでよ! それでね、話を受けてくれるなら、今日の夜銀座で懐石料理でもどうか? って』
「……な、何ですと? 」
イケメンの色欲には軽々と打ち勝ったのだが、銀座で懐石料理と聞いた途端、食欲と壮絶な闘いを繰り広げ始めた夏織。ソファーからぴょんと飛び上がってその場で正座する。
『たまにの東京出張だから、みなで銀座の懐石料理に行きたいそうなんだ。もちろんイケメンキャリア君も来るからさ、話だけでも聞いてくれないかなあ』
「岸田さん、芸者は呼びます? 」
『それは……僕は頼まれてないけど』
「岸田さん、呼びますよね? 呼ぶんですよね! あたしのためだけに呼ぶよねえ! 」
『分かった分かったよ、あちらさんに許可取って手配するから』
やがて店の名前と集合時間を伝えた後、相談はそこで受けてくれれば良いから、くれぐれも頼むよと懇願するような言葉を残し、岸田氏との通話は終了した。
「あ、とんとんとん、おっまわりさん! あ、とんとんとん、おっまわりさん! 」
芸者遊びの一つに「おまわりさん」と言うジャンケンがある。これはそのリズムと掛け声なのだが、それが実際に芸者さんとやってみたくてウズウズしているのか、夏織はひどく楽しげに自分の掛け声に合わせてクルクル回り出す。ーー警察関係者たちと席を一緒にするのに、おまわりさんジャンケンはどうなのかと言う疑問すら湧いて来ていないらしい
「きゃーやばい! 夜が待ち遠しくなって来た。今夜は呑んで暴れるぞう……まさに、今夜こそトゥナイト! 」
……都住夏織 三十三歳。世間一般的には公言してもなかなか信じてもらえないような能力を持ち、それを自分のお役目としながらもその報奨金でちゃっかり生計を立てる女性。なかなかに逞しく、それでいて痛々しいバイタリティに溢れた女性だったのだ。