第八話 自由を得、羽ばたく為には
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふ――」
ウィンウィンウィンウィンと規則正しいモーター音と、ダシダシダシダシとベルトを不格好に蹴っている音。そして俺の息遣いが響く。
流石ラグジュアリーホテル。運動したいと思えば、いつでも運動ができるのだ。
シューズや運動着、靴下まで用意してくれるサービスの良さ。これぞラグジュアリーホテル。
健康第一に過ごすと決めたのに、昨日は暴飲暴食気味に食べてしまい、朝もテンションが上がった朝ご飯を食べてしまったから、会社を辞めてすぐにホテルに戻り、とりあえず身体を動かしているのだ。
健康はただやってこない。日々の努力があってやってくる。
『くっそ! なんてジジイだ!』
別に年寄りの金持ちそうなジジイが俺よりもずっと健康的に、しっかりとした足取りで走っていたのがムカついて対抗しているワケではない。
「はっ、はっ、ふっ、ふっ、はっ、はー、はーー――」
全然走るのを止める様子の無いジジイ。
俺は1.2キロの数字が過ぎたあたりで走ることを諦めた。
さも『予定通りの準備運動を終えましたよ』と言わんばかりの表情を作りながら無理やり息を抑え、別のトレーニングへと向かう。
大丈夫。
俺はジジイになど負けていない。
快速ジジイを記憶の彼方に消し去り、周りを見回す。
大鏡で広くは見えるが思っていたよりもこじんまりとしたトレーニングルーム。そこに並ぶマシンを眺めながら、ふと、昨日の事を思い返した。
昨日は、ご飯を食べてすぐ、人生初となる法律事務所に乗り込んだ。
もちろん新たに銀行で金を下ろして鞄に突っ込んで心の盾を準備してな。なんの守りもなくチキンハートな俺が法律事務所になど向かえるはずがない!
どうやって法律事務所を調べたかというと、コンシェルジュに最寄りの法律事務所を探してもらってアポイントを取ってもらったのだが……いやはやこのコンシェルジュって存在。すごいのね。
なんかなんでも笑顔でそつなくこなすというか、こんなこと頼んでも大丈夫かな? って感じに相談してみたら、全部対応してくれるんだもの。同僚に配った大量のご祝儀袋だって俺が用意したんじゃないんだ。コンシェルジュが笑顔でサラっと手配してくれたんだよ。ちょっとすごすぎでないかい? まぁ、ホテルだからご祝儀袋とか用意も簡単だったんだろうけどさ、でもスゴイよ。
まぁそんな感じで最寄りを条件にアポをとってもらった可児名楼法律事務所。都心にあるラグジュアリーホテルの最寄りってなると、やっぱり都心になるわけで、都心で事務所を構える事務所となると、力量が確かなわけで……可児名楼法律事務所。日本でも屈指の法律事務所らしい。
もうね事務所の入ってる高層ビルにタクシーで乗り付けてビックリしたよ。有名企業ばかり入っている高層ビルの高い階層の4フロア全部が可児名楼法律事務所の名前で締められてたんだもの。なんかもうCMとかで聞き馴染みのある会社の名前の上にあるのね。そんなとこに行くかと思うと、それだけで緊張感が溢れてくるわ。なんか乗り込むエレベーターも大人数乗れるようにでかくてスゴイの! 俺が知ってるエレベーターと違う! そしてエレベーター降りたら『顔で選びました!』感しかしない知的なお姉さんが3人も受付カウンターにいるしさ。もうハイクラスを隠す気がゼロ。ハイクラス感が溢れすぎてて怖くなる。で、とりあえず受付のお姉さんにアポとってもらったことと簡単な概要を伝えたんだけど、俺の相談内容って、絶対、この法律事務所に相応しくない相談内容だろうに、まったく笑顔を崩すことなく対応されたよ。完璧。完璧だよハイクラス法律事務所。そんなハイクラスに退社如きで相談に来てゴメン。大手M&Aとか、そういう内容じゃなくてゴメン!
で、会議室に案内されて待って、紹介された弁護士が今村せんせ。
年は30は絶対にいっていないだろうくらいに感じる若さ溢れるメガネの似合う先生。悪く言えば若干ペーペーとも思える。
そんな若い先生に相談したんだけど、まぁー、流石日本屈指の法律事務所ですよ。
退職は法的には2週間前に伝えることが原則で、その2週間に有給なりの消化を当てて即日退職するとかの方法は俺でも分かっていたんだけど、即日退職は単純に会社が退職に合意すればいいだけの話で、退職に合意してもらう方法は、それこそどれだけでも考えられるだってさ。なんかぺーぺーとか思ってゴメン。任せて安心できる気しかしなかったわ。安心の今村せんせ。
それで任せる気になった俺は今村先生に『会社に渡した俺の個人情報の保護、可能な限り破棄』も合わせてお願いすることにした。もちろん会社が別にブラックでも何でもないことも、自分の都合だけということもきちんと伝えたよ。
はい。そんな安心の今村せんせのお値段。
交通費、経費別でタイムチャージ制で1時間あたり5まんえーん。やすぅい! 預り金で速攻100万円払ってやったわ! ぬはははは!
なお今村せんせも話から簡単な案件過ぎると思ったからか、すげぇ笑顔だった気がする。うんうん。息抜きがてらの対応で構わぬぞ。適にやってくれたもれ。いまむらよ。
んで翌日……まぁ、今日の突撃の段取りだけつけて終わり。
退職もいざ実行してみると、あっけないもんだった。
携帯も必要な連絡先だけ残して変えたし、本当に自由を感じたよ。
これから俺はなんでもできるんだって。
で、まぁ、今は運動しているワケだが……いやぁ、身体が重い。重すぎるわ。
学生の時のイメージで、それくらいはできるだろって思ってたことが全然できない。30%もできない。できなさ過ぎて危機感を覚えるくらいに出来ない。怖い。健康の為にも身体づくりをしなきゃいけないと思い知らされたよ。
「トレーニングルームは必須だな。」
ぼんやりと頭に描いている新居にトレーニングルームが追加される。あとマシンメンテナンスやトレーニングメニューを組んでくれる人間も欲しい。
ランニングマシンを、あっという間に諦めてしまった俺は、誰かに監督してもらわない限り場所があるだけで満足して運動しない可能性が高いってことを知ったよ。
運動を諦めて、スパでの癒しに移行しながら考え続ける。
例えば、新居を建てるとして、そこに管理栄養士やトレーナーを置くとした場合、やはりそれらの人に対して給料を払う必要がある。
お金は俺が個人として渡しても良いのだろうけれど、そういう対応だと働いてくれる人は、腰掛け、アルバイト感覚でしか来ないだろう。つまり優秀な人は見向きもしない。
「給料を払う為の法人が必要か。」
『株式会社』という響きは安心感が違う。
個人に雇われているよりも、法人に雇われているという方が、実質が同じだったとしても印象はまったく違ってしまうのだ。
ただ法人にするとなると、給料を払う為だけの法人で仕事がないとしても税務や、現金を管理する経理など、必要な人がどんどん増えてしまう。
「まぁ、金はあるから問題は無いか。」
魔法の言葉『金はある』
つまり今、俺の考えていた人が増える問題は、金次第でどうとでもなる事でしかない。で、あれば止まる必要もないのだ。
「むしろ3人集まればなんとやらって言うし、人が多い事は悪い事じゃないよな。幸せをお裾分けする方法なんかも俺以外の着眼点で見つけてくれるかもしれないもんな。」
それに、もし法人を作ったとしても、作る法人は『俺の幸せを叶える』のが目的の法人となる。
通常は『利益を上げる』ことを目的に法人を作るが、金が法人の目的ではない。ただ優秀な人を雇って給料を払う為だけに存在する法人。つまり、俺の法人に勤める人は、給料を代価に『俺の幸せを叶える』為に働く人ということになるのだ。
「おぉ……なんだか、まるで金で人を支配しているような気がして、ちょっとゾクゾクしてきた。なにこれ気持ちいい。」
なんだかむず痒いような、背徳的なような、そんな気持ちを感じながらも悪くない発想に思える。
ということは、新居を作るとしたら、まずは住環境があって、次にトレーニングルームがある、さらに法人機能もカバーできなくちゃいけない。
頭の中で建造する建物の数が、どんどん追加されてゆく。
そして、それらの建物には、誰が見ても立派と感じる『ガワ』があることも重要だ。
俺がラグジュアリーホテルに来た時に圧倒されたように、弁護士事務所に行って圧倒されたように、醸し出される雰囲気に人は簡単にのまれるし、持っている印象を変える。働く人にとっても『ここで働くのがステータス』と思ってもらえればしめたもの。
「んっ? このホテルみたいな感じで……いや、ラグジュアリーホテルを建てればいんじゃね?」
俺の無い頭が、またふと閃いた。