第六話 決まる心が腹を減らす
『健康第一に、適当に幸せをお裾分けしながら生活する』
安全と安心の保証された場所で、当面の大目標が決まり、ようやく地に足がついた気がした。
地に足が付いたら………
「腹が……減った。」
忘れ去られていた空腹が飢餓感へと切り替わり、猛烈な勢いで襲ってくる。
「これはイカン。」
飢餓感に急かされるように食べ物を探す。
引き出しにうまく隠されたミニバーのおつまみやお菓子を発見し、早速食べようかと思うが、見慣れたお菓子に悩む頭が手を止めた。
『ホテル備え付けの食べ物は高い』
これは世界の常識。ワールドスタンダードだ。特に目の前にあるお菓子など、よくコンビニでも見かけるし200円も出さずに買える。スーパーなら100円を切ることだってあり得るお菓子だ。そんなお菓子がホテルに置かれているだけで一体いくらに化けるのか分からない。
飢餓感を堪えて値段票を探す。すぐに見つかる場所にあった。
「はぁーーー?」
3倍だった。
お菓子の値段がコンビニの3倍。
俺の手は完全に止まった。
なぜなら、それだけの金を払ってまでして、味が想像の域をでない、なおかつ食べた事のある菓子を食べたくなかったのだ。
安値で買えることが知れている既製品には高い金を払いたくない。
これは小市民の意地なのだ。
「そうだルームサービス!」
すぐに革のブックを見つけ、その中の綺麗に整えられているメニュー表を取り出す。
「うっふふふ……」
パっと見た瞬間にサラダだけで2,000円超えのリストが目に飛び込み、思わず笑いがこぼれる。
普段の俺であれば『コンビニで良いか』となり、ビジネスホテル名物コンビニ飯パーリーを開催するところだが、今の俺は違う。ラグジュアリーホテルにいる俺だ。余裕のある俺なのだ。だからこそ頼んじゃうのだ。2,000円超えのサラダを。1,500円のスープを。3,000円のサンドイッチを。5,000円のグリルを!!
目が惹かれるままに注文し、意外と長かった待ち時間をウキウキしながら待ち空腹を堪える。
ようやく料理が届き、部屋の豪華なテーブルに料理が並べられてゆく。
手際よく並べられる料理を眺めながら料理に夢中になり過ぎていて忘れていたチップの存在をどうしようか悩んでいると、その間に爽やかな笑みを残した青年は去っていた。
早速の幸せお裾分けチャンスを逃したことに少し残念な気持ちになりながらも、鼻をくすぐる料理の香りが雑念を蹴り飛ばして腹を鳴らす。特にグリルの匂いは暴力的だ。なぜ焼いた牛肉は、これほどに人を狂わせるのだろうか。
軽く肩をならしながら着席し、お上品なふりをしながらスープに手を付ける。
「あ、クッソうめぇ。」
お上品どっかいった。
うまい。
クリーミーなスープで甘味が強そうな見た目なのに、甘味以上に野菜のうまみが凝縮されているのが馬鹿舌でも分かる。滑らかなスープの質感は、風味を程よく残しながらもすぐに胃へと向かうので、スープを口へと運ぶスプーンが止められない。
気が付けば平皿のように見えて中だけ窪んでいる皿のスープは『もっと飲みたい』『ちょっと口が飽きたかな』のちょうどよい境目で無くなっていた。
スープに夢中になっていたことで、グリルが冷めないか気になったので、先に食べようと思っていたサラダを無視して焼かれた牛肉にフォークを突き刺してナイフを走らせる。
「感触がやわらかぁい!」
若干怒気を含んだ声を漏らす。
なんと柔らかい肉か。フォークとナイフが当たっただけでわかってしまうのだ。これは怒っても仕方ない。
切ったステーキをソースにくぐらせ、口へと運ぶ。
「おっふ」
テーブルに肘をつき頭を抱える。
口に入れた瞬間に膨らむガーリックと少しの胡椒、ステーキソースの濃厚且つサラリとした風味。そしてなによりも肉汁の香りよ。
一噛みすれば柔らかさが歯に心地よく、うまみが舌にどんどん広がっていく。
俺がこれまでに食べたことのあるステーキは、いったい何だったのだろうか。そう錯覚してしまいかねない美味さ。
外国人のオーバーリアクションのように頭を小さく振りながら、肉を噛んで味わう。
飲み込みたいような、ずっと噛んでいたいような。なんて肉だろうか。すでに手に持ったナイフがもう一度肉を切るために動き出している。
口に切った肉を放り込んでナイフとフォークを置き、また勝手に振り始める頭を押さえながら口を動かす。
肉だ。肉祭りだ。
口の中がお祭り騒ぎだ。
なんだこの祭り最高。
鼻からため息を漏らすと、その溜息ですら肉の香りでうまい。もうだめだ。
俺は肉の呪いから逃れるようにサラダに手を伸ばした。
「シャッキシャキかよ」
くにくにの肉の食感からの野菜の歯ごたえへの移行は凶悪すぎるコンボだった。歯がカーニバル。
ビネガーの酸味がきつくなりすぎないように油が最適解のバランスへと調律している。食べ続けたいと感じる程よい塩味と香辛料、ニンニクの風味。ダメだ。これはスパイラルを描いてしまう。肉と野菜の終わらない輪舞曲だ。
「うましゅぎるぅ……」
俺は泣きたい気持ちになりながら、とうとう見ないようにしていたサンドイッチに目を向ける。
目に映るサンドイッチ。そのサンドイッチは、俺の中のサンドイッチの常識として描かれる白いパンに挟まれた姿ではなく、見事なまでの狐色の焦げを纏い、そしてパンの3倍ほどの厚みで中の具が存在するという見慣れない姿。俺の見慣れた具がキュウリの切れ端で、それが職人芸かと思うくらいに最低限の最小限だけ並べられたようなサンドイッチは、ここには存在しなかったのだ。
俺はなんだか堪えきれない気持ちになりながら、そのサンドイッチを素手でつかむ。
「あったけぇ……」
手を通して伝わるぬくもり。
ぬくもりはごちそうだったのか。
そのぬくもりが自然とサンドイッチを口へと向かわせる。
「あふん」
ジャクっ、カリっとした心地よいパンの焦げの歯ごたえ。もうこれだけ美味い。
これだけでも美味いのに、まー、パンがうまい。レタスがうまい、トマトがうまい、チキンがうまい、マヨネーズみたいなソースもうまい。もうここまで美味いの嵐に見舞われたら、どうしたらいいか分からない。
トーストを斜めに切って三角形になって2つ並んでいたサンドイッチは、あっという間に片翼をなくしている。
「…………待てよ。」
俺の中の悪魔がささやいた。
俺はそっとグリルステーキを切る。切り分ける。ソースにくぐらせる。
そして残ったサンドイッチを開いて、そこに並べ、蓋をした。
周りに人がいない自分だけの空間だからこそできる、究極の思いつき魔改造。サンドイッチにステーキをインだ!
ガブリと噛みつく。
「ほっほっほっほっほっほ」
もう笑いしか漏れない。
美味いに美味いを足したら、やっぱり美味かった。
「うめー!」
自然と笑顔がこぼれる。
こんな究極のうまさ、笑顔にならないワケがないのだ。
「……」
だが、俺の気分は、なぜか少しだけ落ち込んだ。
「ちょっとだけ……なんか寂しいな。」
美味しくて幸せ。
これほど美味しいのは久しぶりか初体験かという程においしかった。
でも、美味しいからこそ、一人占めしていることが、
誰とも共有できないことが、
少しだけ寂しかった。
美味しいものを食べてこその人生なのです。