第四十九話 悩めるもうすぐ吉成さん
「サトミさんサトミさん!」
「はいはい。」
「サトミさん?」
「はい?」
「サトミすわぁ~ん」
「はぁい。」
いつでも嫋やかな笑顔を浮かべながら婚約者の言葉に耳を傾けては、慎み深いながらも望まれるだろう好ましい言葉を返す。
そんな川相仁美の悩みは尽きない。
別に婚約者の望むであろう姿を演出しつづけることが苦なのではない。
この程度の演出など、これまでも他者に対して居心地の良い存在であることを演出し続けては見返りを得てきた仁美にとって、朝に「おはようございます」と挨拶するような程度のこと。
門前の小僧が習わぬ経を読むように習慣化された振舞いなどは、殊更意識せずともできてしまう程度の些細な事でしかない。
それに、この振る舞いに対して婚約者から得られる見返りは余りにも大きく、いや、大きいという言葉では収まらない程に、その価値は至大。
むしろ見返りの大きさに対して、この程度の演出では割りに合わな過ぎる為、もっと意識を傾けられるような要求をしてもらいたいと常々思っている程だが、この婚約者は精神や肉体的に負担になりそうと思えるようなことは何も要求してはこない。せいぜいが戯れ程度の要求のみ。
その為、等価交換の天秤が歪に歪んでいる感じられることは少しの悩みではあった。
だけれども、それも大きな悩みの前では些細な事。
川相仁美は全身全霊を以て見返りを得続ける為に好かれようとしいる。
婚約者に可能な限り好まれ続けようとしている。
嫌われることだけは絶対に避けようとしている。
その為の思考も行動も努力も惜しまない。
だが、どうにも、これまでのいろんな場面での婚約者の顔を思い出してみると、既に一心に愛されているような気がして、そういった努力などが不要と思えてしまうことがあるのだ。
これが川相仁美の最も大きな悩みの種である。
川相仁美は現実主義者。
一定の女性は現実主義者になりがちではあるけれど、こと川相仁美という女は生粋の現実主義者だ。
現実主義者は、現実こそを最重要視し、今ある現実に即して行動をする。
夢見がちな理想や妄想などは頭になく、常に現実的な思考に基づいて行動する。
つまり、彼女には夢見がちな『こうなったらいいな』で終わる軟弱な思考などは存在しない。
もし『こうなったらいい』と思うことがあれば『ではどうすれば可能か』と直ぐに方法を模索し、そしてその成功までの道を作り始める。その道を検討する中で不慮の事態が起こり得る場合には、それに対しての対処法も検討しておき、どの程度の不利を被るかの算段を付ける。
そうして方法の検討を進め『こうなったらいい』と仮定したことが最終的に再現されるまでのメリット、デメリットを勘定し、自身の中での採算に合った場合、その仮定を再現するように行動に移るのだ。
ゆえに彼女にとっての理想は『叶えられる現実』か『不可能な妄想』の二つに分かれ、彼女の思い描く叶えたい理想の姿というのは、全てが具体的に想定できる範囲に収まるものでしかない。
これが彼女に培われた現実との向き合い方。
完全に安全を確保し、自身の幸せを高める為に地に足の着いた行動を選択し続ける。それが川相仁美という人間の生き方だ。
傍から見れば一見、慎重すぎて行動が遅いと取られることもあるけれど、彼女から見れば確信もないのに行動に移す事程、愚かな事はない。失敗する人間は失敗すべくして失敗しているのだ。そうならない為に真面目過ぎる程に慎重にしっかりと検討してから、その上で行動に移す。
もちろん前職の人間関係など読み切れないこともあったけれど、その経験をもとに、より慎重に検討してから行動するようになった彼女だからこそ、悩むことは稀。
いや、むしろ皆無と言っていいほどだった。
だった――
悩みとは、思い煩うこと。
『悩み』と『思考』は似ているようで決定的に違う。
悩むということは答えがあるようでないような状態でしかなく、その状態を延々と繰り返し考えてしまう事。
現実主義者の前では『答えの出ないこと』など考えるに値しないことでしかないのだ。
だが、ここにきてどうにも悩んでしまっている。
悩みは婚約者の愛情について。
具体的には他の女への目。『婚約者の浮気』についてだ。
川相仁美の思考の中では、これまでの経験に基づく情報により仮想現実が構築され、そこで行動についての検証実験が行われている。
もちろん仮想現実の中では体験し得ない情報も必要になる為、それらの情報については知識や経験者の伝聞でカバーして仮想現実を構築しているのだが、その構築の元となる情報の中において、実体験を通して得た知識であればある程、大きな根拠を所有している為、信用度が高い。
そんな彼女の仮想現実の中では『男は浮気をしやすい』と既に結論付けられている。
これは決定されていた事項だった。
生物学上の成り立ちから考えても種をまき続けるのが男という生き物の在り方であり、考え方の根本となる本能的な面でもソレは裏付けられている。法律が無ければ男はチャンスさえあれば常に多種多様な女に種を注ぎ込みたい生き物でしかない。
もちろん法律や倫理観の教育された現代社会男では浮気をしない男も一定層存在する。保守的であったり教育環境も影響するけれど、こと女性経験の少ない男程そういった傾向が強くなりやすい。
逆に浮気をしやすい男の傾向は、まず内的要因として他者への配慮に欠け自己中心的な人間や、他者に対する支配願望の強い人間ほど浮気しやすい。外的要因としてはルックスが良かったり資産に余裕のある人間も浮気しやすい。
内的要因に問題がない場合でも外的要因の条件が揃ってしまうと浮気しやすい。つまり性質や性格が良い人間であっても、ルックスが優れていたり、資産を大きく持っていると浮気しやすくなる。
特に資産で言えば、年収が500万円を超えたあたりから男の浮気の可能性は徐々に高くなってくる。年収500万円でも確率で言えば50%程度の浮気率。するかもしれないし、しないかもしれない。確率は2分の1。
もし年収が750万円を超えてくれば、浮気をする確率は75%に上がり、ほぼ浮気したことがある層になる。
年収が1,000万円を超えてくると、ほぼほぼ100%で浮気をしている。むしろこの層は内心で『俺ほどの人間が浮気をして何が悪い』と開き直ってすらいる気もある。
これらは大学時代に自分が浮気相手として選ばれたり、目をつけられて狙われたり、実際に相手をした際の男達が基準になっており、そして前職での経験もその根拠を大きく補強している。
故に、金銭的に余裕がある男程、男女関係に対しても余裕がでてくる為、隙あれば既婚未婚関係なく楽しもうとするもの。
それが川相仁美の男の性に対する理解だった。
しかし、ここにきて、これまで見てきた男の誰よりも年収が上だろう男が分からない。
当然のことながら、自分の目の届くところで女を匂わせるような事があれば、けん制するし阻止する。女が同席する際には自分が恋人や婚約者であると主張してマーキングするような行動はしている。
だが、これも男が興味を持たれたり、可愛げのある嫉妬をされると喜ぶ為でしかない。男がより、こちらに興味や好意を持つ為にする行動。
この程度の行動を蔑ろにすると、男は勝手に自分に対する興味が薄れたのだと思ったりして、こちらの評価と好意を一段下げてしまう可能性がある。だからこそ男の前では可愛らしく『貴方は私だけの貴方なの』と主張し続ける必要があるのだ。この主張のタイミングと加減さえ間違えなければ、長い期間、男の本命の位置に居続けることができる。
だが当然、目の届き切らない所はあるし、そこでこっそりと浮気をするのが男という生き物。
だから、浮気をされた場合に備えて、その時の男の態度や出方で、許容するか、戒めるか、交渉材料にするか等の対応策を立ててある。
にも関わらず、これまでの間、まったく浮気をする気配がない。
年収について不明な点が多いけれど、別次元の収入・資産があることは理解しており、それほどの金銭的余裕があれば、当然ながら女遊びも酷いものになると想定していたのにだ。
「サトミさぁん」
「はい。なんです?」
「呼んだだけー。」
「もう。かわいいことして。」
一向に、そんな気配が見えない。浮気の「う」の字もない。
むしろ浮気のチャンスを与えても「いやー! 浮気しちゃうかと思って危なかったー!」と報告までしてくる始末。報告なんてされたら嫉妬している対応を取らないといけなくなるというのに。
どれだけ自分に夢中な時期を伸ばせるかというのは重要なことだけれど、時の流れで必ず心は離れていく為、その後に、慣れや情、負い目、子供の存在などで、どれだけ自分という存在を相手の中で大事にさせられるかということを考えているのに、未だに付き合いはじめのような好意を隠さない。変化の兆しがない。
とことん悪く言えば犬が主人に接するかのような愛情を向けられているとすら思える。
結婚は必ずしてやろうと考えいたし、ガツガツした印象は見せず、余り結婚を意識させないよう表に出さず好感度を上げ続けて、きちんと結婚まで取り付けた。
結婚という一番大きなハードルは、読みの中でも最も簡単な部類で読み切れたのに、その他の女性関係がまったく読めない。
「付き合いはじめから想定が出来ないこともあったから、多少は慣れたけど……う~ん。」
読めない余り、どうにも悩んでしまう。
付き合いが長くなればなるほど、これまでの男は皆、恋愛感情が薄れてきた。男によっては一度寝たらそれだけですっかりなくなる男もいた。
恋愛感情が薄れると、顔の系統の違う美人に惹かれたり、もっと若い女に惹かれたり、胸の大きい女に惹かれたり、今付き合っている女から得られなくなった何かを求めて行動するから読めるはずだったのに、あまりにもそういった動きが少なくて読めない。
「なんで浮気しないんだろ?」
川相仁美は現実主義者だ。
現実主義者は、現実の中で最大限の幸せを甘受できる環境を考えて、その実現の為に行動する。
『私は永遠に愛され続けるの!』なんて腐った夢はみない。
彼女の思い描いた幸せの最大値は、当然、男の浮気ありきで図が引かれ、将来設計がされている。
このまま男が浮気しないまま進めば、自分の思い描く幸せの最大値が想定よりも超えてしまうことになり、それは、どこかに無理が生じている恐れがある気がしてならない。
つまり男が無理をして我慢し続けているという可能性が高いということ。
その無理が積み重なれば築き上げた関係に正体不明なヒビを生みだし、千丈の堤も蟻の一穴から崩れるような自体になったり、ある日突然爆発して放り投げだされたりして、想定しえなかった事態になるような不安材料になる気がしてならない。
こと行動の読めない婚約者のこと。
良い方向に解釈や想定することもできるけれど、悪い方向にも解釈や想定をすることができてしまう。
もう、いっそ浮気してもらえたら楽とも考え、こっそりと浮気しやすい環境も用意してみた。
わざわざ好みそう且つコントロール可能な女や環境まで準備したのに、それでもまったく動く気配がない。
あまりに婚約者が動かな過ぎるせいで、自分だけが先走りしすぎている気がしないでもない。
「う~ん……」
浮気してくれたら安心するなどとは言えない。
確実に『その程度の愛情か』と幻滅される為、絶対に言ってはいけない。これは絶対。
なぜなら常に好かれ続けなくてはならないし、愛情を目減りさせるようなことだけは避けなければならないからだ。
愛情を向けられ続けるのであれば、それを最大限に受け止め続けなくてはならない。
「とりあえず妊娠がんばってみようかな。」
婚約者のそこそこ旺盛な性欲や配慮しがちな性格から考えて、妊娠してからが最も浮気しやすいかもしれないとも思える。
浮気相手を探す男が妻が妊娠中という男はよくいた。
溜まった欲望のはけ口が無ければ求めやすくもなる。
子供は大きな武器になるし、妊娠中の浮気となれば、それもまたとても良い武器になる。
「女子会もがんばろ」
サクラとモエの2人の女の子。
2人の中で婚約者の視線を集めることが多いモエは、女子会での下ネタに対してもサクラよりも興味を持っている感じが多い。
より誘導し易そうなモエの教育も頑張ることにした。




