第三十七話 悩める可愛い人
『どうしよう……』
マンションという言葉の語源を意識させるようなラグジュアリーアパートメント。その自室で、大理石を思わせるデスクに置かれたノートパソコンを閉じた川相仁美は小さく息を吐き出す。
急遽開いたWEB会議を終わらせて一仕事を終えた気分を味わいつつも、常にその原因を作る別室で眠りこける自分の婚約者のことを考えると、気分が少し憂鬱になった。
婚約者とは、お互いに信頼関係が生まれていることは確実で、もう、わざとらしい笑顔を浮かべる必要も感じないし素の笑顔が喜ばれる関係になって長い。気心も知れ、日々の生活で互いに愛情も感じ取れているし自由もある。
現状の生活はハイソサエティを感じさせる上質な暮らし。素晴らしいの一言。
少しの不満も出ないよう全てを自分に任せて金を出し続けた上で文句の一つも言わない婚約者は頼もしいし、大事にされていると感じ自尊心も充分に満たしてくれる。
最初はだらしなかった体型も、健康に気を付ける日々のおかげで引き締まって見目も良くなっていて文句もない。
若干子供っぽいところは閉口する時も多いけれど、まだ可愛らしい範囲に収まっているから愛嬌と取れる。
だから不満は少ししかない。
「多いのよね……」
ただ多い。
それだけが負担に感じられてしまう。
なにせ通常の生活では考えられない程に求められるのだ。
しかも求められるタイミングは朝、昼、晩、時間に関係なく思いついた時に、すぐ求められる。
当然、腕の見せ所であり、要望には全て応えてきた。
プライドもあり全てに応えてきた。
全てに応えてきたからこそ、あの底の見えない婚約者が自分に夢中なのだと確信もしている。
だが、その内に落ち着くだろうと思っていたのに、予想に反して求められ続けている。
「流石に身体が持たない……」
一言、呟いてブランドもののマグカップに手を伸ばし、店で頼めば4,000円は取られるだろうコーヒーを一口すする。
暖かさが少し残るコーヒーの苦味は少なく、酸味を強く感じる味わい。香りもコーヒーらしからぬ柔らかさを持った穏やかな香り。
そんな優し気な香りが、ゆっくりと長く吐き出される息にのって流れてゆく。
「やっぱり私にも秘書がいる。」
はじめから結論は出ていた。
婚約者から振られる仕事はあまりに多すぎる。
朝、昼、晩、ふとした時に『そういえばアレって……』など聞かれたり、唐突に事業を始めようとしたりする。
つまり、いつでも進捗を理解していなくてはいけないし、やろうとしていることを把握していなければならない。
婚約者という立場を手に入れているからこそ、そこまでする必要がないと言うことは簡単だけれど、なにせ婚約者が恐ろしい程の資金力を有していて只者ではない。
性格を見定めた上である程度の管理はできても、やりたいことは全てやるという信念を持っていることは理解済み、そしてその信念が想像外の所からイレギュラーな仕事を発生させてくる。
こんな想定し難い事をする婚約者だからこそ『ただの婚約者』というステータスでは弱い。それ以上の『唯一無二の婚約者』である必要があった。
だからこそビジネス面でも補佐をし続け、プライベートで甘やかし、公私に渡って欲され、自分という人間がいなければ成り立たないと思われる状況を作る為に努力を重ね続けていた。
だが流石はイレギュラー婚約者。
想定外の仕事を次々と生み出し続けてくれて負担が増えすぎている。
後、半年もすれば新居が完成し、婚約者は正式に夫となる。
もう後、半年という時間で子作りをして家庭を作るという次のステップが近づいてきているのだ。
子供が生まれれば、もう『唯一無二の婚約者』という立場は必要ない。
『愛する妻』に『愛する妻子』へとシフトチェンジするからだ。
この立場を手に入れれば、なんの憂いもくなる。
現状の増え続ける仕事量は、そのシフトチェンジの支障になり兼ねない為、このビジネスパートーナーという印象と仕事を残りの半年の内に誰かに移植しなければならない。
もう結婚に至らないような事態など、そうそう起こらないところまで来ている。
何かしらの事件や事故に巻き込まれる等があるけれど、まず自分たちの環境。日本の中でもハイクラスな環境において、ほぼゼロと見ていい。
後は互いの浮気など不貞の可能性があるけれど、これもあり得えない。
なぜなら、まず不貞をしない程に好かれている自信があるし、それに例え婚約者が不貞したとしても気づかない振りをする心づもりもできている。そして私が一時の火遊びに興じる可能性はゼロ。なぜなら火遊び如きに今の立場をフイにする程の価値などありはしない。
コーヒーを口に含み、飲み込まずに息を吸う。
カフェインが香りに混じって肺から身体中に広がっていくようなイメージと共に、思考が落ち着きクリアになる。
問題となるのは後継となる『秘書の人選』と『秘書を入れるタイミング』の二つ。
人選ではまず性別が重要になってくる。
なにせ現状の自分の後継となれば、常に側で控えるような働きが求められる。
故に後継者が男である場合、意外と独占欲が強く嫉妬深い性格をしている婚約者は、あまりいい顔をしない可能性が高い。
表面的にはさらりとした顔をしていても「いつも一緒にいるね」などと言われたりしかねない恐れがある。いらぬ誤解を招くのは避けたい。
となると、やはり女となるが、その場合に問題になるのは婚約者の心移り。
商売女にすらグラつく婚約者なのだから、多少の心移りは仕方がない。
むしろ、あれだけの資金力を持っているのに、まったく浮気をしてこなかったこれまでの方が意外でもあるけれど折角、そうなっているのであれば、このまま浮気をしない性格でいてくれるに越したことはない。
「つまり、女で、ある程度の能力を持ちつつ、不貞に嫌悪感を持つ。これが条件……か。」
頭の中の人材データベースを探っても該当者は居ない。
むしろ自分の立場を脅かす事に情熱を傾けるだろう野心的な人材ばかり。
コーヒーを飲まずに溜息だけが漏れた。
ストレスが溜まりそうな検討事項に、つい目を背けたい気持ちが動き、関係ない物を求めて目が動く。
「あ。」
目は机の上の資料に止まった。
目を引いた資料に手を伸ばす。
「奨学金補助……ね。」
手に取った資料は、これから取り組む交通遺児など苦学生を対象とした奨学金や生活費補助の取り組み。
対象となる学生は申し込みの際に面接や調査の受け入れが必須になっている。
「若くて優秀で、お金が必要な高校生……それに高校生なら教育もできるかな……」




